*ウィリアム・シェイクスピア作 桑山智成翻訳 杉原邦生演出・美術 あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014より 公式サイトはこちら あうるすぽっと 3日で終了
7月に京都芸術センター、穂の国とよはし芸術劇場、札幌市教育文化会館を巡演し、今月の東京公演で幕を閉じる。公式サイトにある三浦基(地点)、三浦直之(ロロ)、杉原三氏の鼎談は読みごたえあり。
舞台は前方に傾斜した「八百屋」になっている。床も壁も黒く、何も置かれていない。前方に「THEATRE」をかたどったかなり大きめの文字看板というのか?が掲げられている。むろんここは劇場であり、これから『ハムレット』が上演されるわけであるが、わざわざ「THEATRE」と提示するにはさまざまな意図があると思われる。『ハムレット』を上演するためにあらわれた、いつの時代の、どこの国の者ともわからない役者たちが、一夜の芝居をうつというメタシアター的な趣向でもあり、あるいはシェイクスピアの『お気に召すまま』の「世界は劇場で、男も女も役者に過ぎぬ」という名せりふを舞台美術化したとも考えられる。
『ハムレット』の上演台本はいくつも版があり、今回はもっとも古く、しかも短いバージョンである「Q1」をベースに、「戯曲を上演を前提にした文章として捉え、研究している」(前述の鼎談)桑山智成が翻訳を担った。まさにKUNIO11版『ハムレット』である。
公演チラシに「祝祭詩劇ハムレット」とあるのも、これまでとはちがう『ハムレット』を作ろうという作り手の心意気であろう。
これまでみたことのある『ハムレット』は3時間近い長丁場のなかに、かならず休憩が入っていた。経験上客席で集中が保てるのは2時間、長くても2時間15分程度が限界であるから、休憩なし2時間30分の上演と知って、大いに警戒しつつの観劇となった。結果として恐れていたほどの疲労や倦怠はなかった。何とかいける。しかし終幕にフォーティンブラスが登場するところでは、いささか勿体をつけたような運びではなかったか。
また前述の「THEATRE」の文字看板(この言い方しっくりしない。ぴたりの表現をどなたか教えてください)が劇中ずっと掲げられていたことにも疑問が残る。物語が高まったり反対に鎮まったり、緩急の要所要所でさまざまな色に輝き、下方に降りてきたりするのだが、あそこまで強調する必要があったのだろうか。あの文字が常に舞台を席巻し、もの言わぬ人物のひとりのように息づいているという見方もできるが、「そのまま置いてある」ようでもあり、一考が必要ではなかろうか。
演出家にとっては必要な間であり、ぜんたいの上演時間であろうと察するが、さまざまな場面ごとの「間」をつめてみれば、あともうひと息タイトにできるのではないか。八百屋舞台を駆け下り、駆けぬける俳優の動きはたしかにスピーディであるが、前述のようにしっくりしない「間」のある場面があるために、ぜんたいとして「やはり長かった」という感覚になるのである。
しかし今回のKUNIO11『ハムレット』観劇のもっとも大いなる収獲は、『ハムレット』という作品をみる客席の自分の姿勢を検証させられたことである。
『ハムレット』が上演されるという情報を得たとしよう。自分がまっさきに考えるのは、「ハムレットを演じる俳優は誰か?」である。自分の「ハムレット歴」を振りかえるとき、藤原竜也が初役で挑んだ2003年蜷川幸雄演出の舞台はかけがえのない体験であり、1955年に芥川比呂志が演じた『ハムレット』を見られなかったことは、自分が生まれる前のことであるからどうしようもないとはいえ、残念でならない。それほどに『ハムレット』はタイトルロールを演じる俳優がすべてといってもいいほど、自分にとっては俳優に偏りすぎる演目なのである。
今回の上演ではクローディアスの鍛冶直人(文学座)、ガートルードの内田淳子のほかは、ぜんいんオーディションで選ばれたとのこと。またワークショップを重ね、上演台本の台詞を練り上げ、1年近くをかけて公演の運びとなった。自分は出演者のうち鍛冶、内田、ほかにはホレイショの福原冠、ローゼンクランツの箱田暁史を知るのみで、俳優の既成イメージのほとんどないまま、KUNIO11『ハムレット』の劇世界に放り込まれたわけである。
好きな俳優が最高の役を得て輝くさま、ベテランの名演技や名調子を楽しむのではなく、『ハムレット』本体に?向き合うことを教えられたKUNIO11『ハ
ムレット』。
たしかにいささか長かった、しかしこの体験を活かせば、『ハムレット』をもっと深く知り、味わうことができるであろう。これから先、あと何回『ハムレット』に出会えるだろうか。楽しみとともに、身の引き締まる思いである。
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