*荻窪/かふぇ&ほーるwith遊 19日 14時、18時2回公演 VOL.1観劇の記事
語り、朗読、リーディング、ひとり芝居…舞台のパフォーマンスの形態はさまざまである。俳優の堀越富三郎が主宰する「楽語会」は、「語りライブ」と銘打ち、基本的に俳優が台本を持たずに作品を語る形式をとる。日ごろはそれぞれ別の場所で活動している俳優が自分の得意とする分野の作品を持ち寄り、披露する公演と捉えた。
☆平野夏那子 星新一『鏡』
本作をネットで検索すると、「後味の悪い話」をまとめたサイトに行き着く。鏡合わせで現れた悪魔を壺に閉じ込め、夫婦が代わる代わる暴行を加える。悪魔というのに弱々しく無抵抗な悪魔は絶好の「捌け口」となり、鬱憤が晴らされるために夫婦仲は円満、それぞれの仕事も順調に進む。が、うっかり悪魔を逃がしてしまったことで険悪な状況に陥った夫婦は遂に…。自分より弱いものへ加虐を増す人間のすがたは醜悪であり、そういったものが自己にも潜むことが想像できるだけに、まことに後味の悪い物語である。難しいのは、悪魔というものの捉え方である。人間ではないが、童話や絵本などの物語において、悪魔は基本的に人間の姿の変形として描かれることが多い。憎々し気に、あるいはいかにも恐ろし気になど、造形はさまざまであろう。本作の場合、前述のような悪魔である。語り手は、舌足らずの幼児の口調を少し戯画的に色付けした声と話し方であった。人間とは違う生き物であることは明確だが、まだ創造の余地があると思われた。3月の「朱の会」公演の際、子ぎつねの台詞に対して抱いた若干の違和感、阿部壽美子の朗読勉強会において、「その役の生理を捉える」ことの重要性を聞いたことなどを思い出した。
☆堀越フサ子 「私の青春航路 涙の幾山河」
主宰の堀越富三郎のご母堂御年93歳が登場し、ご自分の半生を語り、自作の短歌を読むステージである。激動の時代を生き抜き、多くの困難を乗り越えて穏やかな老年を迎えた女性のすがたは神々しくさえあり、感銘を受けた。しかしながらプロの俳優のステージのなかにおいて違和感があることは否めない。もっとリラックスした場において、参加者もともに語り合えるような会がふさわしいのではないだろうか。
☆神由紀子(1,2,3,4,5)夏目漱石『夢十夜』より第一夜と第三夜。
自分は今回が初見であるが、これまで何度か上演されてきた神由紀子の代表作である。第一夜は台本を持たず、たっぷりと語り、目の前の女が死ぬ緊迫感が息苦しいほど伝わってくる。対して第三夜では神は台本を手に持ち、朗読する形式をとった。第一夜では神自身が物語の女に見えてくる感覚があり、物語がいっそう生々しく感じられたが、台本を読む形式になると、自分が薄気味の悪い子どもを背負った父親のような気分になるのはなぜだろうか。台本のあるなしによって、物語とステージ、客席の距離感が変容するのである。子どもが「ふふん」と言うところで、神は非常におもしろい造形を見せる。この笑いに限らず、いかにも子どもこどもした声や話し方ではない。つまり口先だけの作り声ではなく、たしかに「六つになる子供」の声だが、「言葉つきがまるで大人である。しかも対等だ」という奇妙で不気味な様相が目に浮かぶ…いや耳に聞こえてくるのである。
☆石井麻育子 芥川龍之介『蜘蛛の糸』
パントマイムを得意とする石井の技と個性が発揮されるステージだ。カンダタが懸命に糸を手繰りる手つきなど、ほんとうに糸が見えるかのように見事である。しかしここでむずかしいのが、パントマイムが台詞無しで、からだの動きで語るものであることと、そこに物語の語りがどう融合するかだ。ある動きのために腕が口を塞いで台詞が聞き取りにくくなるところもあり、これからさまざまに試行錯誤を重ねて、独自性のあるステージに変容していくだろう。
☆堀越富三郎 落語『死神』
主宰による〆の1本は、作品成立の経緯から、噺家によってさまざまなサゲがあることなど、大変興味深い演目である。堂々たるひとり芝居の趣。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます