*川村毅作・演出 シアタートラム
昨年上演の『クリオネ』<神なき国の夜>Ⅰに続く川村毅の新作戯曲。本作は昨年秋に「ドラマリーディング25」において、上演に向けての新作戯曲リーディング公演がされている。因幡屋は未見であるが、これから本式の舞台が立ち上がってくる予感が伝わる刺激的で意欲的な公演だったらしい。
東京郊外のある町のアパートが舞台である。一階では変わり者の男(江守徹)が鳥屋を営んでいる。それもフクロウなどの猛禽類が多く、はやらない店である。二階に夫婦もの(手塚とおる、高橋かおり)が引っ越してくる。人嫌いで人付き合いを避け、世間から隠れて生きているようなもの同士が少しずつ互いを知っていく過程で、両者の過去が炙りだされてくる。
鳥屋は二十五年前、未成年者のグループに中学生の長男を殺された。
二階の男の名字や年格好などから、彼がかつての主犯格の少年だったのではないか?との疑念がわく。
鳥屋は長男の死後、民事裁判を起こすも満足できる結果は得られず、妻とも別れ、ひっそりと暮らしている。
一方で二階の男も住まいを転々とし、過去の記憶に怯える日々を送る。
両者が一発触発と思われたとき、新たに意外な真相が明かされ、話がどう展開するのか身を乗り出したのだが、その期待を受け止めるには物足りない終幕であった。
犯罪の被害者と加害者双方の苦悩、心の闇に迫る内容である。被害者は大切な家族を奪われただけでなく、世間の目に晒されて家庭は崩壊する。被害者は一度も謝罪に訪れず、そればかりか法によって人権が保護されていることに対して身を焦がすほど怒り、苦しむ。一方で加害者とその家族の苦しみも果てしなく続く。
舞台だけでなく、テレビドラマや映画でも同様のテーマを掲げた作品はたくさんある。
現実に凶悪犯罪が多発し、自分がいつ被害者になるか、或いは故意ではなくても自分が加害者に、加害者の家族になるかもしれないという可能性が言いようのない恐怖を掻き立てる今、演劇ができることは何だろうか?
そう考えたとき、残念ながら今回の舞台はその問いに充分な答をもつものではなかったと思う。
江守の鳥屋は終始ぶつぶつとつぶやくようにしゃべっているのに、台詞はすべて聞こえることに驚嘆した。これには特別なテクニックがあるのだろうか?その江守に一歩もひかない手塚もよく頑張ったと思う。両者のぶつかり合いは見応えがあったし、特にポテトサラダといなり寿司をつまみに、二人が(食べるのはもっぱら江守氏)ビールを飲む場面には妙なおかしみがあった。ポテトサラダにソースが合うとは知らなかった。今度試してみよう、などど考えながら、だんだん恐くなるのである。これからどうなってしまうのかと。
黒を基調とした無機質な舞台で、タイトルのフクロウは小道具を使わず、無対象に描かれる。
ここまでシンプルに描くのであれば、尚更もっと違う展開がほしい。
何より登場人物の語る言葉がややありきたりではないか。
あのように言わせるのであれば、フクロウもその餌のネズミもすべてほんものを出してリアルに描く映像のほうに勝ち目があるだろう。
演劇だからこそできることを、可能な表現をもっとみたいのである。
昨年上演の『クリオネ』<神なき国の夜>Ⅰに続く川村毅の新作戯曲。本作は昨年秋に「ドラマリーディング25」において、上演に向けての新作戯曲リーディング公演がされている。因幡屋は未見であるが、これから本式の舞台が立ち上がってくる予感が伝わる刺激的で意欲的な公演だったらしい。
東京郊外のある町のアパートが舞台である。一階では変わり者の男(江守徹)が鳥屋を営んでいる。それもフクロウなどの猛禽類が多く、はやらない店である。二階に夫婦もの(手塚とおる、高橋かおり)が引っ越してくる。人嫌いで人付き合いを避け、世間から隠れて生きているようなもの同士が少しずつ互いを知っていく過程で、両者の過去が炙りだされてくる。
鳥屋は二十五年前、未成年者のグループに中学生の長男を殺された。
二階の男の名字や年格好などから、彼がかつての主犯格の少年だったのではないか?との疑念がわく。
鳥屋は長男の死後、民事裁判を起こすも満足できる結果は得られず、妻とも別れ、ひっそりと暮らしている。
一方で二階の男も住まいを転々とし、過去の記憶に怯える日々を送る。
両者が一発触発と思われたとき、新たに意外な真相が明かされ、話がどう展開するのか身を乗り出したのだが、その期待を受け止めるには物足りない終幕であった。
犯罪の被害者と加害者双方の苦悩、心の闇に迫る内容である。被害者は大切な家族を奪われただけでなく、世間の目に晒されて家庭は崩壊する。被害者は一度も謝罪に訪れず、そればかりか法によって人権が保護されていることに対して身を焦がすほど怒り、苦しむ。一方で加害者とその家族の苦しみも果てしなく続く。
舞台だけでなく、テレビドラマや映画でも同様のテーマを掲げた作品はたくさんある。
現実に凶悪犯罪が多発し、自分がいつ被害者になるか、或いは故意ではなくても自分が加害者に、加害者の家族になるかもしれないという可能性が言いようのない恐怖を掻き立てる今、演劇ができることは何だろうか?
そう考えたとき、残念ながら今回の舞台はその問いに充分な答をもつものではなかったと思う。
江守の鳥屋は終始ぶつぶつとつぶやくようにしゃべっているのに、台詞はすべて聞こえることに驚嘆した。これには特別なテクニックがあるのだろうか?その江守に一歩もひかない手塚もよく頑張ったと思う。両者のぶつかり合いは見応えがあったし、特にポテトサラダといなり寿司をつまみに、二人が(食べるのはもっぱら江守氏)ビールを飲む場面には妙なおかしみがあった。ポテトサラダにソースが合うとは知らなかった。今度試してみよう、などど考えながら、だんだん恐くなるのである。これからどうなってしまうのかと。
黒を基調とした無機質な舞台で、タイトルのフクロウは小道具を使わず、無対象に描かれる。
ここまでシンプルに描くのであれば、尚更もっと違う展開がほしい。
何より登場人物の語る言葉がややありきたりではないか。
あのように言わせるのであれば、フクロウもその餌のネズミもすべてほんものを出してリアルに描く映像のほうに勝ち目があるだろう。
演劇だからこそできることを、可能な表現をもっとみたいのである。