因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

楽天団プロデュース『バイティン・バック』

2009-03-29 | 舞台
*ヴィヴィアン・クリーヴン作 須藤鈴翻訳 和田喜夫演出 公式サイトはこちら 中野あくとれ 30日まで これまでの劇評はこちら(1,2)
 当日リーフレットによれば、タイトルの『バイティン・バック』は「噛み付き返す」「やり返す」と訳される言葉だそうだ。都会から離れた小さな町で暮らすアボリジニの一家の物語。はじめは小説として書かれ、後に作者にとっての処女戯曲として発表されたという。母親のメイヴィスは、息子のネヴィルがフットボール選手として成功することを熱望している。それだけが社会的な地位を約束するものだと信じているからである。しかしネヴィルには母親の想像もつかない夢を抱いていた。
 物語が始まって間もなく知らされるネヴィルの夢が予想もつかないもので、というより登場人物にどんな背景や過去があり、どんな性格なのかまだわからず、裏づけや伏線がないままで示されることに戸惑うが、セクシュアリティ、人種、男女、世代と、互いの違いに悩み、ぶつかり合いながらやっとこさ共生の道が見えてくる結末は温かく、手応えが得られた。

 しかし全体的にどこかしっくりしない部分がある。グゥェンがダリルから無理矢理押しつけられた粉の入った袋をメイヴィスのキッチンにいとも簡単に置いていってしまうところや、それを探しにダリルが忍び込んでいるのにメイヴィスが全く気づかないところなどが不自然に感じられるのだ。空間の使い方か、あるいは表現方法が小説から戯曲になったときに生じた何かなのか。

 俳優で目をひいたのは、ダリルとトレヴァーの二役を演じた武田至教であった。どちらも白人だが前者は女たらしで薬物のバイヤーというとんでもない悪人で、後者は心優しいゲイの編集者である。特に後者のトレヴァーの造形が際立っていて、このての役柄はとかくやり過ぎてしまいがちになるが、声の出し方やちょっとした仕草すべてに神経が行き届いており、しかもあざとさが感じられず、控えめでお見事であった。

 
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