因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

玉田企画第一回公演『臆病な町』

2013-09-05 | 舞台

*玉田真也作・演出 公式サイトはこちら 三鷹市芸術文化センター星のホール 8日まで
 Mitaka“ Next” Selection 14thの第一弾として先月30日に開幕以来、じわじわと評判を広げている舞台だ。玉田企画は、主宰である玉田真也の作品を上演するためのユニットで、所属劇団員をもたないプロデュース形式をとる。玉田真也は大学在学中から演劇活動をはじめ、2010年度より青年団演出部に所属し、これまで青年団若手自主企画公演を数回行い、俳優としても活動しており、今回の『臆病な町』にも出演している。

 タイトルの『臆病な町』と、公演チラシやウェブサイト記載の本作のあらすじ?のようなものは、じっさいの舞台とはほとんど関わりがないと思われる。
 どこかの町の小さな温泉旅館に、中学の卓球部の生徒数人と顧問教師が合宿をしている。教師は新学期から転任することが決まっているらしく、生徒たちはひそかに送別会の準備をしている。宿には一般客も泊まっており、職場の同僚の女性ふたりと、かたほうの恋人もいっしょという奇妙な3人連れがいる。舞台下手に生徒たち(途中から教師の)の部屋、上手には卓球台の置かれた部屋、舞台奥はロビーという設定だろうか、飲みものの自販機や公衆電話などが置かれている。

 いっけんリアルに作られた舞台であり、ごく日常的な会話によって進められるが、どこか普通ではなく、緩い違和感が鈍く続く。ここから先の記述はお芝居の詳細に及ぶところもあるので、これから観劇予定の方はお読みになりませんよう。

 人物どうしの会話は非常に繊細で巧みに構成されている。生徒がまくら投げをして障子を破った理由やプロセスを教師がどうしても理解してくれず、もどかしさと悔しさで煩悶する様子、ヒモ同然の男と切れさせたいと友だちにうるさく言いつのる女、わかっていながらきっぱりと別れられない女、どこまでも厚かましい男など、俳優の呼吸もよく合って、入念な稽古があったことを伺わせる。

 個々の場面のやりとりはおもしろい。
 しかし問題はそれらをどう活かすかだ。

 卓球部の部員、つまり中学生たちを演じるのは、実年齢に幅はあるものの大人の俳優たちである。幼さの残る顔立ちの方もあるが、どっしりした風体の飯田一期がいる。

 この配役の意図や意味、というか演劇性が最後まで不明であった。
 一般客である女性たちと男性が、彼をみて「先生ですか」「え、中学生?」という驚く。これは非常にまともなリアクションであり、飯田はどうみても中学生にはみえない。中学生にもいろいろいて、なかにはずいぶん大人びた子どももいるが、本作における飯田は明らかにそういった現実性を越えたところに置かれている。で、作者はそれをどうしたいのだろう?

 中学生の部活の合宿に、一般客も泊まる宿が使われることがあるのかどうかはさておき、顧問の教師が、宿で知りあった女性客を自室に呼んで酒をふるまうというのも、現実なら大問題になるのではないか。さらにこの教師は自分のいいつけをすぐに実行しなかった生徒を容赦なく平手打ちする。堂々たる体罰である。その行為にいたるまでの教師の言動をみるに、今回がはじめての特別ケースではなく、この部では体罰が日常化していることを伺わせる。
 少なくとも大阪の高校で部活顧問教師の体罰による高校生の自殺が報道される以前であれば、この場面はそれほどのインパクトをもたないであろう。しかしいまは世間の風潮も、みるがわの意識も変わっている。現実の現場はもちろんのこと、映像や舞台などのフィクションの場であっても、表現にはそうとうな神経が必要ではないか。
「こんなに大きな社会問題になっているのに、体罰教師を登場させるとは許せません」などと言うつもりはない。登場してもよいのだ。現実には体罰を容認する土壌が教育現場には根強く残っていることは想像できる。敢えて描くなら表現者として相当な覚悟が必要だろう。しかしながら女性客を自室に招き入れての飲酒行為や体罰などが、あまりに無防備に描かれている(少なくとも自分にはそう見えた)。体罰そのものを舞台でみせる。それをみる側に生じるざらついた複雑で不愉快な感覚を受けとめるものは、この舞台からは得られなかった。

 本作の体罰は、もろもろの懸念をまったく感じさせないものであった。配慮が足らないということではなくて、なぜだろう、どうしたいのだろうと不思議なのだ。現実のあれこれはおかまいなしに、問答無用の体罰をいともあっさりとみせる。ここに作者のどんな意図があるのだろうか。

 一般客である男女3人は、思いもよらぬ幸せな結末を迎えた。中学生たちはひょんなことから巻き込まれ、あまり見栄えはしないものの、大人の現実の、ある意味での真実をかいま見ることになった。中学生たちがこれから生きる人生は容易ならざるものであろうが、それでもこんなふうにちょっと素敵なことも起こりうるのだ。
・・・といったことを言いたいわけでもないのだろうなぁ。たとえば同じ題材をリアルにテレビドラマにしたなら、佳作といってもよいくらいのものになるかもしれない。

 自分は『臆病な町』にどう接していいのかわからずじまいであった。作者は何を見せたいのか。なぜ演劇という手のかかる表現を選んだのか。
 個々のやりとりは巧みでおもしろい。しかしそこから何をみせたいのかがわからないのである。テーマや主題を提示せよとは言わないが、飯田さんのありえない中学生をどこに持っていきたいのか、感謝の手紙を中学生が二人で読む場面はものすごくおもしろかったが、「演劇をみた」という手ごたえがほしいのである。
 もしかしたら玉田企画さんはこのように面倒くさいことを書きつらねる古くさい観客はおよびでないのかもしれず、やりたいことをやりたいようにやればいいのであるし、こちらとしても次回はスル―すればよいだけのはなしである。

 しかしそうあっさり割り切るのも情けなく、こうしてくどくどぐずぐずと煮え切らないのである。

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2 コメント

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こんにちは。私も同じような煮え切らなさを感じた... (yosiyama)
2013-09-06 13:23:28
こんにちは。私も同じような煮え切らなさを感じたのですが、主宰はその平ったいグズグズ感を露呈したかっただけのかなあ・・・とも思って。とはいえやはり、それを建設的に受け取るのはやはり困難で。でも、「桜の園」を同時代に観たロシアの人たちも、やはり同じように感じたのかもしれないなんて思いつつ。
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yoshiyamaさま (因幡屋)
2013-10-28 23:28:52
yoshiyamaさま
コメントをありがとうございます。
返信がたいへん遅くなりましてすみません!
もう2ヶ月近く前のことになるのですね。
自分はいまだ劇中の体罰を受けとめることができず、ぐずぐずと考えております。

『桜の園』初演を見た人々は、どんなことを感じたのでしょうか。具体的なところを知りたいですね。

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