因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『アジアの女』

2006-10-14 | 舞台
*長塚圭史作・演出 新国立劇場小劇場 公演は10月15日で終了。公式サイトはこちら。
 「失う」ということについて考えた。

 公演パンフレット巻頭に、長塚圭史が次のようなことを記している。阪神・淡路大震災規模の地震が東京で起こったとしても、蘇った神戸や大阪を知っている私たちは、東京も「やがて復興出来るであろうことを漠然と信じてしまっているのです」と。どきっとした。災害に対する危機感は高まっているし、体験者の意見を活かし情報交換をして、物心両面の備えをどうするか、さまざまな対策が検討され、実行されている。しかし、どれほどの事前準備をしても避けられない「喪失」が、取り戻せない「何か」があるのではないか?それを自覚することが怖くて、自分は必死で災害保険や、地域社会でのコミュニケーション作りなどで、安心しようとしているのではないか?

 舞台は大震災で崩壊した近未来の東京。元編集者の兄(近藤芳正)は酒浸りで、以前から神経を病んでいた妹(富田靖子)は日の当たらない空き地で畑を作ったり、死んだはずの父親に食事を出したりしている。兄に恨みを抱いているらしい作家(岩松了)、妹に好意を抱く警官(菅谷永二)、ボランティアのリーダーらしき女性(峯村リエ)がからむ。闇市や自警団があったり、中国人の窃盗集団が出没し、略奪や暴行が頻発しているとの噂が流れていたり、好意のためとはいえ警官が援助物資を横流し?していたり、登場人物の台詞から思い浮かぶのは、近未来というよりあたかも関東大震災直後の東京のようである。

 舞台を両脇から客席が挟む作りになっていて、外部に通じる道が客席の真ん中に作られている。きょうだい以外の人物はそこを通る。道の先がすっと暗くなっていて、闇に溶け込んでいるような、きょうだいが暮らす瓦礫の家とは別の世界を暗示させる不思議な雰囲気を醸し出している。自分は道の反対側の席だったので、道の先にある世界に漠然とした恐怖すら感じた。道がある側の席で観劇したなら、また別の印象をもったかもしれない。妹は女性(峯村)に世話されてボランティアの仕事をするようになるが、それは通いの売春であった。だが妹は仕事に徹しきれず、噂のために窮地に陥った中国人たちを助けようとする。(一見潔癖にみえる妹が、最初は無知だっかたかもしれないにせよ、売春行為じたいを嫌悪していると明確に描かれていないと自分には感じられた)仕事に出かけようとした妹が道の途中で立ち止まり、兄に話しかける。「あのね、兄さん」「わたしね」だったか、とにかく妹はそんな言葉しか言わないのに、兄は「好きな人ができたのか」と優しく答える。この二人の会話の場は悲しくなるほど美しい。

 終幕、妹を襲った悲劇が知らされて兄は外界へ出ようとする。舞台は暗転して余震を思わせる不気味な音。明るくなると妹の畑には緑の草が芽吹いていた。そのまま客席に明かりがつき、終演のアナウンスが流れる。カーテンコールのない舞台に拍手が起こった。ここで描かれたのは希望なのか絶望なのか。それも混沌としてわからない。けれども拍手は長く続き、温かい空気が客席を満たした。しばらく席を立てなかった。ここを立ち去りたくないと思ったのだ。その理由を説明する言葉もみつからないことがもどかしく情けないが、今はまだその気持ちを大切に味わいたい。

 

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2 コメント

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らーらさん、コメントをありがとうございます。カ... (因幡屋)
2006-11-07 22:54:16
らーらさん、コメントをありがとうございます。カーテンコールのないエンディングは鐘下辰男作品で慣れていた(飽きていた?)と思っていましたが、今回は久々に立ち去りたくないと本気で思いました。余韻のある、いい終幕でしたね。
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自分も。 (らーら)
2006-10-30 13:19:04
自分も。
自分も立ち去りがたかったです。
しばらく舞台近くまで寄って芽吹いた緑を愛でていました。
もう一度観たい舞台、エンディングでした。
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