因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

新国立劇場『温室』

2012-06-28 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 深津篤史演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 7月16日まで  ピンター作品の観劇記録→1,2,3,4 観劇日はシアタートークあり(司会:中井美穂、登壇者:深津篤史、高橋一生、段田安則、宮田慶子)
 公演パンフレットに演出の深津篤史と演出助手の川畑秀樹の対談が掲載されており、本公演のために翻訳の喜志哲雄が一部をカットしたり、逆に深津が要望してカットされた一部を復活したりという経緯があった由。 一階席は演技エリアをはさむ対面式、二階席は四方から見下ろす形式で、舞台は盆が回りながら進行する。演技エリア下手上手りょうほうが鏡張りになっており、出入りする俳優の様子や客席が少しゆがんで映る。

 ひとつの戯曲を「どのようにみせるか」は、演出の大きなポイントであろう。しかし自分がみたいのは、演出家が「戯曲をどう読んだか」だ。それは戯曲の解釈や批評、解説を求めるのではなく、切り口、視点、演出家の演劇観といったものである。
 今回の盆を使った周り舞台や四方客席、鏡の使い方、真っ赤な家具調度類、ルートとカッツ嬢がのっけから熱いラブシーンをみせること、ラムに実験を施す場面でサンタの仮面をつけた複数の人物を登場させることなどなどは、戯曲『温室』の新しい面を知るために必要であったろうか。

 これがピンター作品の正しい舞台だという法則はなく、既成概念にとらわれずに新鮮な感覚で自由に作られた舞台がみたい。しかし今回のさまざまな試みが、『温室』の劇世界の闇や謎を切り開くにいたっていないことが残念だ。ピンターの作品がわかりにくいのではなく、自分には演出が理解できなかったのである。

 シアタートークにおいて、芸術監督の宮田慶子は新国立劇場2011/2012シーズンの第6弾にして、20世紀を代表するハロルド・ピンターを取り上げることに強い意義を感じており、演出家として「自分がやりたかった」とも発言しておられた。
 対して深津はこれまでほとんどピンターを知らず、ベテラン俳優の段田も1作みたことがあるくらい、若手の高橋はいくつか読んだことがあって自分なりのピンター観があるようだが、司会の中井美穂ふくめ、ぜんたいとして「ピンター・ビギナー」の困惑と遠慮が支配する印象である。少なくとも芸術監督の宮田慶子からは「ピンターを深津さんに演出してほしい」とオファーをした具体的な理由を聞きたかった。いや質問すればよかったのか。

 前述のような困惑と遠慮は公演パンフレットからも感じられる。
 大笹吉雄さんは「(本公演の)翻訳しているのがピンター研究の第一人者だし、訳者による解説も掲載されるはずだから、わたしなどの出る幕はない」と、「ピンターの自作にについての言及をアトランダムに紹介して、責めを果たす」と書いておられる。
 たしかに翻訳の喜志哲雄さんは「少数派としてのハロルド・ピンター」と題する寄稿をしておられるが、これはピンターの評価がイギリス本国でどのように変容していったかであり、作品解説ではない。大笹さんの文章は公演パンフレットの連載ページなのだから、どなたがどのような主旨の寄稿をされるということはあらかじめ確認のうえで、「訳者による解説も掲載されるはず」などとおっしゃらず、堂々と持論を展開なさってよいのではないか。

 喜志哲雄さんは大書『劇作家ハロルド・ピンター』において、ピンターの作品を不条理劇と位置づけてしまうことを嘆いておられる。しかし本公演の演出家は「不条理劇ではない」、高橋一生は「わからない=つまらないことにしてしまうのはもったいない」と語っている。痒いところへ少しずつでも手が近づいているのではないか。
 そのプロセスを知りたい。大掛かりなでスタイリッシュな舞台装置ではなくてもよい、ひたすら戯曲の台詞と格闘する地道で泥くさい作業が、この厄介だが魅力的な劇作家の作品を立ち上げることにつながっていくと思うからである。
 
  

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