*青木豪作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場小ホール1 23日まで
初めてグリングの舞台をみたのが2003年の冬『ヒトガタ』で、少し抜けたときもあったが家族を誘い、友人に声をかけ、青木豪の作品は毎回楽しみに通った(1,2,3,4,5,6 7,8,9)。
活動休止公演となった本作『jam』は再演であり、自分は幸か不幸か2003年晩秋の初演をみていない。
グリングにしては珍しく、対面式の客席の中に舞台がある作り。どこかのペンションのロビーでの一夜の話である。舞台両袖は玄関や客室があるという設定で、前も後ろも客席に晒される作りの場合、風通しがよすぎて舞台からしっかりした空気が伝わってこない場合もあるが、テーブルや椅子、オーディオセットなどの家具調度には重量感があって、ペンションの他の部屋や奥の厨房の様子などまで伝わってくる。
青木豪の作品をみていていつも感じるのは「人の出入りが多いなぁ」ということだ。今回も場所はペンションのロビーだけであるが、ベートーベンの第九を歌うサークルが、合唱指導の指揮者が指導期間を終えたお別れ会を開くという設定で、ペンションのオーナーや義理の妹はじめ、友人や常連客などが賑やかに行き来する。人物の関係はなかなか複雑であるし、あの人がこの人に恋をしていたり、かと思うとほとんど物語の主筋に関わらない異物のような人物もいる。
ひとつの場所にいろいろな人が頻繁に出入りしたり、恋が錯綜する様子はチェーホフに似ている。しかし登場する人々は多少変わり者はいても強烈なキャラクターの人物はいない。大事件も起こらないが、過去に起こった出来事が人々のあいだに複雑に影を落とす。『jam』では10年前に事故死したオーナーの妻がそれである。過去について話すやりとりにも出来るだけ聞き取ったつもりだが、それでもわからない点はあり、上演台本にもはっきり書かれていないこともある。これまで見た青木豪作品に比べると、明かされないこと、示されないことが多いように思われ、確かな手応えを求めて臨んだ気持ちは正直満たされなかった。
しかし終演後、微妙に満たされた心持ちになれたのは、これが活動休止公演であるという一種の感傷と共に、過去の作品に対する青木豪の距離感と愛情をもった視線が感じられたからだ。いやこれはまったく自分の勝手な思い込みかもしれないが、活動休止公演に新作ではなく、再演になる『jam』を選んだこと、その後の作品に『jam』の影響が色濃く感じられること(設定が似ているということではなく)が理由であろうか。
確かな手応えを得て、それを表現するはっきりした言葉を求めているのに、心がまとまらず、言葉もじゅうぶんに出てこない。しかしこの曖昧でもどかしい実感を今夜は大切にしよう。いつか訪れるグリング第19回活動再開公演のために。
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