*東京工業大学世界文明センター主宰のレクチャーシリーズより、劇作家・演出家坂手洋二氏と永井愛氏の対談 司会進行は同校准教授谷岡健彦氏 公式サイトはこちら 以下敬称略
夜の大学構内は暗くて怖い。迷って約5分遅刻した。今、第一線で活躍中の坂手洋二と永井愛の対談は、「なぜ今の時代の流れに逆らうように戯曲を書くのか?」「インターネット全盛の時代に、なぜ小さなメディアである演劇をするのか?」という問いかけから始まった(注:メモは取ったが録音はしていないので、この記事の「」の発言は因幡屋の記憶によるものです。よって正確ではありません)。
永井愛の言葉に対する感覚の鋭さや、鋭いがゆえのさまざまな体験談に、思わず前のめりになって聞き入った。まずかつて俳優修行をしていたときのエピソードである。チェーホフ作品で役をもらい、カーテンで作ったドレスの裾をひきずって言った台詞が「ユーリャさん、あなた恋をしたことはおあり?」普段使っている言葉とはあまりにかけ離れており、リアリティがまったくなかったというのである。次に海外で自作が翻訳、上演される機会に立ち会ったときのこと、「翻訳の変なところに気づくのは大抵俳優だった」そうである。エッセイ集『中年まっさかり』(光文社)に、『こんにちは、母さん』初演時の主演の加藤治子の猛勉強ぶりを記した一文を思い出した。「台詞の無駄や矛盾も見つけ出さずにはいなかった。(中略)加藤さんが台詞の覚えにくいところには、何かしらの問題が埋まっていた」とある。海外の俳優の場合も、これに似ているのではなかろうか。「もし演劇のために無限にお金が与えられるとしたらどうしますか?」という質問に対して、「演劇教育を充実させたい。教える人が足りない」ということを切実に語っていた。プロの俳優や演出家やスタッフの養成はもちろんであるが、自分はもっと子供のうちから、演劇を公教育の中で教育のプログラムとして組み込むことはできないだろうかと思う。
坂手さんのお話も少し書きましょうね。「確かに演劇は小さなメディアであるが、戯曲は劇作家、演出家、俳優、スタッフ、観客と実に多くの人が読んでくれる。とても恵まれた表現である」。おお、そうか!と目が覚める。劇作家が書き、演出家や俳優、スタッフの手によって上演され、それを観客がみる。多くの人がのめり込み、言葉のひとつひとつにこだわって心血を注いで舞台に立ち上げる。受け取るものにとっては今この時間と空間を共有するのは一夜限りである。目も耳も心も五感全部を動員して何かを掴み取ろうとする。紙に書かれた「戯曲」が多くの人の手を経て「演劇」に生まれ変わる。ぞくぞくするほど魅力的だ。だから劇場通いはやめられないのである。
帰り道、小さなお店で夜食のパンを買い、閉店間際の花屋に飛び込んで黄色い薔薇を求めると、「咲きかけだけど」とピンクも一束おまけにいただいた。因幡屋通信、えびす組劇場見聞録の原稿も書きかけで、ブログの記事もいくつかたまっている。ほんとうなら全部書き終えたときにご褒美のお花のはずなのだが、今夜は何だか嬉しくて花を抱えてうちに帰りたかったのだ。「あなた恋をしたことはおあり?」の台詞を心の中で繰り返してみる。なかなか素敵な台詞ではないか。もっといろいろな戯曲を読もう。そう思った。
夜の大学構内は暗くて怖い。迷って約5分遅刻した。今、第一線で活躍中の坂手洋二と永井愛の対談は、「なぜ今の時代の流れに逆らうように戯曲を書くのか?」「インターネット全盛の時代に、なぜ小さなメディアである演劇をするのか?」という問いかけから始まった(注:メモは取ったが録音はしていないので、この記事の「」の発言は因幡屋の記憶によるものです。よって正確ではありません)。
永井愛の言葉に対する感覚の鋭さや、鋭いがゆえのさまざまな体験談に、思わず前のめりになって聞き入った。まずかつて俳優修行をしていたときのエピソードである。チェーホフ作品で役をもらい、カーテンで作ったドレスの裾をひきずって言った台詞が「ユーリャさん、あなた恋をしたことはおあり?」普段使っている言葉とはあまりにかけ離れており、リアリティがまったくなかったというのである。次に海外で自作が翻訳、上演される機会に立ち会ったときのこと、「翻訳の変なところに気づくのは大抵俳優だった」そうである。エッセイ集『中年まっさかり』(光文社)に、『こんにちは、母さん』初演時の主演の加藤治子の猛勉強ぶりを記した一文を思い出した。「台詞の無駄や矛盾も見つけ出さずにはいなかった。(中略)加藤さんが台詞の覚えにくいところには、何かしらの問題が埋まっていた」とある。海外の俳優の場合も、これに似ているのではなかろうか。「もし演劇のために無限にお金が与えられるとしたらどうしますか?」という質問に対して、「演劇教育を充実させたい。教える人が足りない」ということを切実に語っていた。プロの俳優や演出家やスタッフの養成はもちろんであるが、自分はもっと子供のうちから、演劇を公教育の中で教育のプログラムとして組み込むことはできないだろうかと思う。
坂手さんのお話も少し書きましょうね。「確かに演劇は小さなメディアであるが、戯曲は劇作家、演出家、俳優、スタッフ、観客と実に多くの人が読んでくれる。とても恵まれた表現である」。おお、そうか!と目が覚める。劇作家が書き、演出家や俳優、スタッフの手によって上演され、それを観客がみる。多くの人がのめり込み、言葉のひとつひとつにこだわって心血を注いで舞台に立ち上げる。受け取るものにとっては今この時間と空間を共有するのは一夜限りである。目も耳も心も五感全部を動員して何かを掴み取ろうとする。紙に書かれた「戯曲」が多くの人の手を経て「演劇」に生まれ変わる。ぞくぞくするほど魅力的だ。だから劇場通いはやめられないのである。
帰り道、小さなお店で夜食のパンを買い、閉店間際の花屋に飛び込んで黄色い薔薇を求めると、「咲きかけだけど」とピンクも一束おまけにいただいた。因幡屋通信、えびす組劇場見聞録の原稿も書きかけで、ブログの記事もいくつかたまっている。ほんとうなら全部書き終えたときにご褒美のお花のはずなのだが、今夜は何だか嬉しくて花を抱えてうちに帰りたかったのだ。「あなた恋をしたことはおあり?」の台詞を心の中で繰り返してみる。なかなか素敵な台詞ではないか。もっといろいろな戯曲を読もう。そう思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます