因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

プラチナネクスト第24回公演 三島由紀夫「近代能楽集」より「邯鄲」「班女」「弱法師」

2021-07-03 | 舞台
*三島由紀夫作 五戸真理枝演出 公式サイトはこちら 中目黒キンケロシアター 4日終了(1,2,3,4,5
 舞台に大きな枠を設え、その枠の中で物語が展開するが、枠外に待機したり、静々と歩いていたりなど、能の形式を取り入れた趣向。
「邯鄲」・・・18歳の少年次郎を女性ふたりが演じ継いだり、女中の菊が3人いて、台詞や動作を受け渡しながら進行する趣向に違和感なく、次郎の現実と、唐土の邯鄲の里から来た不思議な枕で眠っているあいだの夢と、再びの現実をリズムよく見せる。
「班女」・・・中年の画家実子と、彼女が手元に置いている美しい狂女花子と、花子が待ち焦がれる吉雄による三角関係のモチーフは「待つ」である。枠の作りを効果的に使い、実子と花子の関係性を鮮やかに示す。吉雄が去って、女二人が舞台に残る。「すばらしい人生!」。この最後の台詞のなんと美しく悲しいことか。
「弱法師」・・・戦火で盲目の孤児となった少年が裕福な養父母に引き取られて成長した。その青年俊徳が家庭裁判所の一室で実の両親と対面する。養父から「一種の狂人」と評される彼が二組の親を翻弄し、屈服させる。親たちが去ったあと、俊徳と調停委員の桜間級子との甘美なやりとり。「僕ってね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」。まさに決め台詞なのだが、どういう発し方が適切なのか、「班女」の最後の台詞同様、作り手にとって非常に難しいものと思う。

 「この役にはあの俳優さんがぴったり」、「あれはミスキャストだ」等々、一人の俳優がこれまで演じてきた人物のさまざまや、俳優の外面内面含めたイメージによる、実に無責任な受け手側のあれこれであるが、そのイメージを覆す舞台に出会ったときの大発見感覚は、観劇の楽しみのひとつである。演じ手には、自分の性質、これまでの生き方と大きく異なる役の場合、非常に困難を覚えるだろうが、自分でも知らなかった心の奥底を覗き見たり、自分と正反対の役柄を演じることで、一種の解放感を得たりすることもあるのではないだろうか。

 文学座のベテラン俳優、演出家による手堅い舞台だけでなく、今回は若手演出家とともに名作戯曲に取り組んだ。俳優方の果敢な姿勢と、辛抱強い演出の成果であろう。ただこれまでどの作品であっても極端に舞台メイクが濃かったり、今回の演目いずれにも、台詞の発し方が大仰な方があるのは不思議であった。
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