*ジャン・ジュネ作 渡邉守章翻訳 中屋敷法仁演出 公式サイトはこちら シアタートラム 26日まで
トライストーン・エンタテイメントは、1993年映画プロデューサーの山本又一朗が創立したプロダクションで、「“地道ではあるが本物志向のマネージメント”をモットーに質の高い役者、ミュージシャンの育成を目指している」と謳う。所属俳優は男性では小栗旬、田中圭、綾野剛、女性は若村麻由美、木村文乃など、若手から中堅、ベテランまで幅広く、しかも個性的な顔ぶれだ。いわゆる「劇団」と「事務所」というもののちがいは何となくわかるが、今回の公演は、トライストーン・エンタテイメントの若手有望株である矢崎広と碓井将大に、ベテランの多岐川裕美が出演する。しかも作品は1947年パリで初演いらい、いまも世界中で上演が続いているジュネの『女中たち』である。モットーに掲げる「地道ではあるが本物志向のマネージメント」をまさに具現化した公演ではなかろうか。
姉のソランジュと妹のクレールを矢崎と碓井が交互に演じるのも、今回の舞台の特徴のひとつだ。
客席に少し張りだした演技スペースが作られており、客席が正面、両サイドと三方向から取り囲む。大きな飾り棚のようなものが舞台三面をどっしりと覆い、「見づらいのでは?」と案じていると、開演が告げられ重々しい音を立ててその棚がゆっくりと上方へあがっていく。飾棚は牢獄の格子のようにも見え、とするとそこにいる二人の女中は囚人という趣向であろうか。
パンフレットは非常に読みでのあるもの。そこで出演者3人は、異口同音にこの作品が難解であることに悩み、不安を吐露している。しかしそれぞれ経験値や感覚の違いはあれ、『女中たち』がどのような性質の作品であるか、どう作ることが的確か、そのために自分は舞台でどうあればよいのかをきちんと捉え、困難ななかにも柔軟に楽しみながら取り組んでいることに驚く。「これならきっとめざす地点へたどり着けるのでは?」。そんな期待を抱かせるものであり、みた舞台は実際にそうであった。
たしかに一筋縄ではいかない戯曲である。女性だけで演じるもの(1)、今回のように男優が女中を演じるもの、またぜんいん男優による上演も「あり」だろう。絶対的な正解はない。かといって、男性が女性を演じる趣向にこだわりすぎると小手先の芝居になる可能性がある。作り手のさまざまな試み、冒険を懐深く受けとめてくれる作品でありながら、やはり芯の部分をしっかりととらえなければそっぽを向かれるのだ。
自分の観劇日は矢崎広が姉のソランジュで、碓井将大が妹のクレールであった。奥さま役を演じるのが妹だ。この組み合わせがぴったりの印象で、逆になることがにわかに想像できないのだが、観劇から時間が経つごとに劇中のいろいろな場面、台詞を思い出しては逆の配役が動かせるようになってきた。一夜かぎりの舞台が観客の心の中で深まり、戯曲を読んでさらに変容していく。演劇をみる、戯曲を読む、想像するといった、演劇の楽しみがたくさん詰まった作品なのだ。
カーテンコールにも一工夫凝らしてある。奥さま役の多岐川裕美は堂々と登場し、艶然と微笑みながら客席にお辞儀をする。女中役の矢崎と碓井も続いて登場、多岐川と揃って一礼する。奥さまはサッサカ退場するが、女中たちは何とも言えない表情で舞台に残っている。そこで流れる「本日はご来場まことに・・・」という場内アナウンスは、確認しなかったが奥さま役の多岐川裕美の声ではないか。芝居が終わってもなお、彼ら(彼女ら)は奥さまという権力に支配されており、この物語はずっと続いていくかのように思われた。いよいよ彼らが去るとき、前述の飾棚が再び重々しい音を立てて降りて来た。重い足取りで立ち去っていく男性ふたりは俳優なのか、それとも女中としてそこに存在するのか、はっきりとわかりかねるたたずまいであった。退場とアナウンスのタイミングは記憶によるもので、おそらく緻密に計算されたものと思われる。
初日あけて間もないせいか、男性ふたりの台詞が聞き取りづらいところもあったものの、むずかしい課題に無理な背伸びではなく素直に身を委ね、懸命に取り組む俳優のすがたは清々しく、さわやかな心持ちの夜となった。
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