*太宰治『富嶽百景』、岡本かの子『富士』原作 山本タカ脚本・演出 公式サイトはこちら スペース雑遊 19日まで(1,2,3,4,5)
番外公演と本公演のちがいは劇団によってさまざまだ。
両者のちがいを強く打ち出すものは、みるほうも心得てそれを目当てに劇場にゆく。
自分はコエキモとの出会いが番外公演だったこともあり、特別な気構えはなかった。しかしこれまで既成の戯曲や小説をベースに独自の劇世界を構築してきたこの劇団が、今回挑むのが「情景演劇」という聞き慣れないものであることに、多少しっくりこない感覚があったのは確かであった。それはたとえば「ドキュメンタリー演劇」と聞いて、自分がイメージするものと実際の舞台の印象に抱く違和感に似ている。
結論から言うと、観劇前の違和感は半分あたり、半分はずれた。富士山をのぞむ宿で太宰治が小説を執筆している。彼を慕う茶屋の娘や、彼に見合いをすすめる井伏鱒二とのやりとりに、太宰の小説世界が絡み合いながら進行する。この前半はテンポがいまひとつ弾まず、『富嶽百景』という作品に、作者自身がどう絡むのか、どのあたりへ着地させようとしているのかがつかめないために、なかなか集中できなかった。
しかし岡本かの子の『富士』が強烈に押し出される中盤から終幕にかけて、コエキモが本領を発揮しはじめる。山の祖神(おやのかみ)が昔捨てた娘に会いに行くが、成長した娘は父親を頑なに拒む。さらに生き別れになった父親と息子が、かつて共に見た富士山に呼び寄せられるように峠の茶屋を訪れる場面につながってゆく。
「情景演劇」ということばにこだわるのはよそう。
そう思ったときに、今回の『富士幻談』がすとんと胸に落ちる感覚があった。
当日リーフレットの山本タカの挨拶文には、本作の構想を思いついたきっかけにはじまり、自分自身の心に内在する富士山への思いや劇作の決意が綴られている。
率直にいって、いまの自分は作者の思いをじゅうぶんに受けとめているとは言いがたい。『富嶽百景』と『富士』に原作者が絡む構成はじめ、ぜんたいのテンポや劇中音楽の使い方など、まだまだ精度を高めて効果をあげられるだろうし、これは自分の感覚に過ぎないのかもしれないが、俳優の台詞を短く切って発しているところも気になった(←この書き方は不十分ですね。もっとひと息に台詞を言ったほうが自然に聞こえるのだがな、という感覚です)。
次回コエキモは劇団劇場~Act In Rule~vol.5という企画公演(これもことばにはあまりこだわらず!)に参加が決定しており、本公演は来年になるらしい。本公演、企画、番外いずれにしても試行錯誤を恐れず、こちらの先入観や違和感などぶっとばす舞台をみせてくれることを願っている。
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