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龍馬が土佐を出ていくつかの番所を通過し、船に乗るまでで1回の放送を使うとは、考えてみると随分贅沢だ。しかし45分間気が緩むことなく、よそごとは一切しないで集中してみる。
自分の嫉妬心といかに付き合うか、どのように折り合いをつけていくかは、とても重要なことだ。岩崎弥太郎は龍馬に対する嫉妬心の塊だ。嫉妬心と劣等感をバネにして生き抜いていく暑苦しいまでのエネルギーに満ちている。一方武市半平太(大森南朋)は自分の立場を思慮深くわきまえ、心の中を容易にみせない。龍馬と弥太郎という両極端のあいだで、大切な役割を果たす人物になるだろう。大森南朋は心境複雑で辛抱強い半平太にとても合っていて、画面に安定感をもたらすとともに、この人に本音を言わせてやりたいという気持ちにかられる。
江戸に行くにあたって、龍馬は父親から厳しくも慈愛に満ちた訓戒を受け、兄や母親、姉たちからも激励される。実に恵まれた家庭環境にある。一方弥太郎は父親が博打うちで家庭は極貧。手形の偽装までして龍馬の江戸行きに割り込もうとする。自分が好いている加尾(広末涼子)は龍馬に惚れていて、僻むなというほうが無理であろう。
弥太郎が貧しい家に生まれたことは彼自身の咎ではない。と同時に龍馬が比較的恵まれた環境にあることも彼自身の努力によるものではないのである。人は生まれる場所と時代を選べない。その人が生まれながらに持っている資質に、抗いがたく投げ込まれた環境が合わさって人間を形成していく。努力によって得られないものは確かにある。龍馬はまだそのことをあまり実感として理解しておらず、弥太郎は日々打ちのめされながら思い知らされている。龍馬は基本的に人を嫌ったり憎んだりすることが少ない人のようだ。その資質に加え、身を投げ出して上士から息子を守った母親(草刈民代)の姿によって、「憎しみからは何も生まれない」という思想が形成され、それがやがて幕末の嵐のなかで信じがたい働きを生みだすことになるのだ。
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