因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

井上ひさし追悼ファイナル『たいこどんどん』

2011-05-11 | 舞台

*井上ひさし 作 蜷川幸雄 演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 26日まで
「蜷川幸雄が豪華キャストとともに挑む井上ひさし初期作品第5弾!」(公演チラシ)、自分には「蜷川VS井上」は本作がはじめての観劇となった。小劇場中心の観劇生活になると蜷川さんはチケット代は高い、上演時間は長いしで次第に足が遠のいたためだ。さらに率直に言ってかつてほど蜷川演出に対して心が動かなくなっていることがいちばんの理由であろう。
 毎回とびきりの俳優陣がいて、舞台美術や衣装はじめ、さまざまに贅を尽くした趣向の舞台がみられる。しかしいつのころからか、それらを「すごい!」と素直に喜べなくなっていた。あの装置やあの衣裳、本水を大量に使ったり俳優が金網のなかで演じたり、俳優が頻繁に客席通路を歩くなど、戯曲を立体化するために必要なのか、的確な方法といえるのか、疑問がわいてくるのである。「世界のニナガワ」、どういうところがどのように素晴らしいのか、堤真一や藤原竜也が出演しなくても、「この戯曲を蜷川さんがどのように作り上げるのかをみたい」と切実に願う気持ちがあるのか、もっと真剣に考えなければならないと思う。

 自分が今回の『たいこどんどん』をみようと思ったきっかけは、3月にみた『日本人のへそ』である。井上ひさしの初期の作品をきちんとみておこうと思ったためだ。
 

 バグパイプに似た音色で「アメイジング・グレース」が流れるなか、定式幕が引かれると舞台三方は鏡に覆われて客席が映っている。書き割りの江戸の町のなかに出演者総勢が立ち並び、客席に向かって一礼。ここで早くも「鏡張りは歌舞伎座の『十二夜』、そろって一礼は『ペリクリーズ』でみたなぁ」と反芻しているのだった・・・。

 品川薬種問屋の若旦那(中村橋之助)と忠実な太鼓持ち(古田新太)が、江戸から東北、北陸を流れ歩いて江戸にたどり着くまでの波乱万丈の9年間を、歌や踊り、お座敷芸を絡ませながら軽妙にみせる3時間40分の大作である。「作者はこの人物を通して何を訴えたいのか」、「この作品のテーマは」などと重苦しく考えさせず、若旦那と太鼓持ちが散々な苦労の末、これでやっと江戸に帰れると思ったのもつかの間、行った先々でいい女(鈴木京香。5役を兼ねる)にころりとだまされてはまた乞食同然の身の上に(じっさい後半は乞食になる)なるの繰り返しである。2人の苦労と言っても身から出た錆、ほとんど同情できるようなものではない。

 客席通路を歩きながら太鼓持ち役の古田が最初の台詞を言う。それがはっきり聞き取れなかった。古田新太にはふてぶてしいほどの舞台度胸と遊び心があって、どんな役でも安心すると同時に、「今日はどこで何をやってくれるのだろう」といつもわくわくする。具体的に言えばどこまで演出なのか悪ふざけなのかわからないアドリブ風の台詞の応酬だったり、客いじりだったりする。さすがに井上ひさしの作品で「いつもの古田」をみることは叶わず、それは致し方ないし当然ともいえるが、前述のように、自分のみた日にたまたま調子が悪かったのか、あの古田にして、すでにいっぱいいっぱいの印象があったのには驚いた。パンフレットを読むと「三味線の弾き語りはあるし台詞は多いし、のべつまくなしに喋っていて、相手のいるひとり芝居みたいなものですね」と苦労を語っており、改めて井上ひさしの作品は俳優にとって手強いものなのだと思った。

 昨年みた2本の井上作品の印象を思いだす。
 『夢の痂』で、ベテラン俳優陣に安定感とともにどうしても加齢、役柄と俳優の実年齢のギャップがありすぎること痛感し、戯曲に対する真剣で謙虚な姿勢をみせるハイリンドが『泣き虫なまいき石川啄木』を上演した際、いつものような溌剌とした演技よりも、「苦戦している」ようにみえたのである。ベテラン俳優は不死身ではない。若手俳優がどんどん育っていかないと、わたしたちは井上ひさしの作品をみることができなくなるのではないか、と危機感を覚える。本式の上演だけでなく、朗読会、リーディング公演、試演会など、いままで以上に井上ひさしの戯曲をみる、聴く機会が持たれることを切望する。

 若旦那と太鼓持ちがやっとの思いで戻ってきた江戸は「東京」(とうけい)に変わり、店もなくなって家族も散り散りに。呆然自失の2人。近年の作品のように日本の戦争責任を重く問いかけるものではないが、今回の大震災でまさに呆然自失状態のこの国において、主人公2人が流浪する仙台、釜石、遠野、盛岡の地名を聞くと心が痛む。3月11日いぜんであれば、こんな痛みはなかったはず。5月11日朝日新聞掲載の「明日も喋ろう2011」欄に、精神科医香山リカ氏のインタヴューを読み返す。「いま、『震災ナショナリズム』とでも言うべき言葉が非常に強調されている。一元的な価値観に傾いていくのではないかとある種の危機感を持って見ている。今の時点で少数であること、矛盾があることを恐れない方がいい。変節にも寛容な社会でありたい」。皆で心をひとつにし、復興に向けて頑張ろうという気運が高まるなかで、もっと静かにみずからの心の奥底の声を聴きたい。
 井上さん存命であったなら、いまの日本の状況に対してどんな発言をされただろうか。
 井上さんのことばを聴きたいがそれはかなわない。ならば舞台から、過去に書かれたものであっても、現実のいまに、続く未来につながる言葉が、井上作品にはある。それを大切に聴きとろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« tpt 78th 『恋人』 | トップ | 発汗トリコロール『エデンの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事