*カール・アインシュタイン原作 鈴木芳子翻訳 赤井康弘構成・演出・美術 サブテレニアン 28日で終了(1,2)
10月中旬から始まった板橋ビューネ2018第2弾である。公演チラシには「ドイツのキュビスム小説『ベビュカン』を舞台化。内省的な青年ベビュカンの内外に起こる目眩く世界を、多面的複眼的に描いた現代の知性の書。言葉の喪失、人格の解体、時間感覚の不統一。難解とも言われる伝説的な小説を身体性を重視したキメラのような作品に作り上げる」とのこと。キュビスムとはこちら。未知谷社のサイトに原作小説の書評が掲載されており(こちら)、さらにキメラとはこちらの意である。いろいろ参考にする情報はあれど、いずれも一読して理解・把握できる内容ではない。
舞台上手奥と下手手前に円形の台が置かれ、上手の台には、顔を白く塗った男性が車椅子に座っている。下手のそれには、スキンヘッドの男性が座る。3人の女優が登場し、終始激しくからだを動かしながら、複数の役を演じ継ぐ。
俳優は声がよく通り、台詞も明晰。強靭で鋭い動きのなかに、しなやかな美しさも見せて魅力的である。ただ客入れの段階から上演中ずっと時計の振り子の音が鳴らされており、これは昨年の『授業』にも同様の演出があった。ほかにも顔を白塗りにした俳優が登場すること、車椅子の使用など、既視感のある趣向が散見する。
何らかの原作を舞台化する場合、舞台が原作の解説になってしまっては残念である。原作のなかの何かを舞台で表現したい、俳優の肉体で立体化したい、肉声で聴かせたいという強い動機があるはずだ。それが何なのか、最後までわからなかった。手も足も出ないとはこのことである。
振り子の音が何を意味するのか、なぜ3人の女優が台詞を言いながらあのような動きをするのかなどなど、表現の意味や演出の意図を探ることだけが観劇の目的ではなく、楽しむだけが演劇ではないのだが、作り手の創造の情熱、意欲を、手触りだけでもよいから、もっと感じ取りたかった。
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