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薩摩と長州を結びつけるために奔走する龍馬たち亀山社中の面々。
お元(蒼井優)は隠れキリシタンである。グラバーの屋敷の宴に招かれて舞を披露したあと、室内装飾品についているイエス像にこっそり祈っているところを龍馬に見られてしまう。龍馬たちが長州藩士たちと接触しているのを知ったお元は、龍馬を料亭の小部屋に招き入れ、取引を持ちかける。
お元は亀山社中と長州藩のことを黙っているかわりに、グラバーの屋敷でみたことを黙っていてほしいと龍馬に持ちかける。何もしゃべらないと言ったあと、龍馬は「みつかったら惨い目にあうと知っていて、どうして異国の神を拝むのか。耶蘇とはそんなにいいものか」と問いかけ、お元は「自分のすべてである」と答える。このひとことにガツンとやられる思い。
自分の心を偽って生きるのは辛いことだと思う。売れっ子のお元だが、所詮相手は売り物買い物の客であり、奉行所の隠密として屈辱的な思いもしなければならない。金をためて故郷に帰りたいどころか、お元は日本を脱出したいと願っているのである。この国にいてもいいことなどないと、スケールの大きいというか、痛ましいほど底知れぬ絶望感を抱いている。信仰が周囲に知られないよう、常時細心の注意を払っているだろうが、小さな装飾品のイエス像に必死で祈ってしまうとは、お元もそうとう追い込まれていると思われる。芸子とあれば百戦錬磨、人前でそう簡単に本音を吐いたり涙をみせたりはしないだろうし、場合とあらば色仕掛けでと思って暗く妖しげな部屋に連れ込んだのに龍馬は動じず、自分は本心を吐露してしまった。
信じる神に祈る行為は、自分をありのままにさらけだすことだ。その姿を見られたということは、魂もからだも丸裸の自分を見られたも同然、お元のように隠れキリシタンの場合はなおさらだ。もうお元は龍馬に心を欺くことはできまい。
互いの顔もじゅうぶんにわからないほど暗い小部屋のなかで向き合う龍馬とお元の場面は、第一級の見ごたえがあった。龍馬は自分を取り繕わず嘘をつかない。相手もまた、はじめは警戒していてもいつのまにか心を開いて本音でぶつかってくる。日本の仕組みを変える、皆が笑って暮らせる国にするという龍馬にお元は「おめでたい人だ」と言い捨てて立ち去るが、彼女の心には本心からそうしたいとまっすぐに言える龍馬に対する羨望、憧れもあったのではないか。
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