某出版社の小さな部屋で開催された、歴史ある児童文学「きつつき賞」授賞式の騒動を描いた土屋理敬の傑作戯曲である。授賞式はほんの15分程度で終わるはずだったのに、想定外の問題が次々と発覚して事態は混乱の極みに。授賞式はいつ幕を閉じるのか。きつつき賞は誰に贈られるのか。編集者と審査員、受賞者がおりなす2時間の物語である。
役柄と俳優、戯曲と演出のバランスについて考えた。
クリハラ課長はビジネス雑誌の鬼編集長だったが、わけあって閑職の児童書部門に左遷された。冒頭、授賞式の準備をしながら部下のアサミが、童話にまつわるクイズを出すのだが、クリハラはまともに答えられない。そこが笑えないことに躓く。珍問答のおかしみよりも、彼が童話に一切興味がなく、軽んじてすらいるように、寒々とした印象があるのだ。クリハラとアサミのやりとりの間合いやリズム、発語のニュアンスだろうか。そもそもここは笑うところではないのか、劇作家と演出家の狙いはどこにあるのか。
クリハラ役の朝廣亮二は渋い男前で、細身のスーツがよく似合う「イケオジ」である。それが終盤の部下との不倫の顛末が明かされる場面では、「なるほど、この人ならありうる」と色恋の様相が納得できる。だがコミカルな味わいとなると微妙で、シリアスと両方の効果を上げるには、どのような演出が的確なのか?
急遽きつつき賞大賞者にされてしまうツジが、いささか声が大き過ぎること、正面を向いて発語する場面が多いことが気になった。登場人物の中で最もエキセントリックな人物であるが、終始熱量の高い造形では却って戯画的になるのではないか。
土屋戯曲は周到に構築されている。最初はのんびりとしたやりとりがふとしたはずみに鋭利になり、次第に熱を帯び、役柄一人ひとり、台詞の一つひとつが響き合い、絡み合いながら混乱して、めまぐるしく展開しながら最後の最後まで容赦なく人物を追い込む。その様相は残酷といっても良いほどで、観客もまた打ちのめされる。たとえば、ふんわりした雰囲気の読者代表審査員の女性が吐露した家庭の実情。「息子はわたしを軽蔑しています」。息子はまだ小学生くらいではないか。まだまだ母親に甘えたい年ごろではないか。「嫌っている」ではなく、「軽蔑している」という表現の、何という暗さよ。またクリハラが子どもの頃たった1冊だけ好きな童話があり、その作者が実は…という展開は決してあざとくなく、微かな希望を感じさせる。こういった場面に確かな手応えがあり、劇場を出た観客は、絵空事ではない現実に立ち向かう力を与えられるのである。明るく笑える話ではないのになぜだろうか。土屋作品の謎であり、魅力である。
柚木麻子『私にふさわしいホテル』(映画化され、年末公開予定)は、文学新人賞を受賞しながら、同時受賞者が人気アイドルだったために全く注目されない不運に見舞われ、燻ぶり続けている女性が、出版社からの執筆依頼もないまま、あの「山の上ホテル」に自身を自腹で缶詰めにしていた時に始まった壮絶なリベンジを描いた小説である。本を出版したい、有名になりたい、売れっ子になりたいという欲望と、成功を収める後輩作家への嫉妬でずたずたになりながらもあの手この手で食らいついていく凄まじい物語だ。『栗原課長の秘密基地』観劇直後にこの小説に出会ったのは、何らかの必然だったのではないだろうか。
きつつき賞に関わる人々は、それぞれの立ち位置で「自分にふさわしい何か」を必死で追い求めている。自分にふさわしい評価、ふさわしい名声、ふさわしいステイタス。それを得るためには少々痛い思いをしても「プロフェッショナル」にならねばならない。クリハラは八方塞がりの終盤になって、プロの編集者にふさわしい振る舞いを見せる。ほんの少し誇りを取り戻した彼は惚れ惚れするほど格好いい。
本作の初演は2002年で、演劇集団円がステージ円を浅草・田原町にオープンした記念の公演であり、干支二回り分も前であることに改めて驚く。舞台は初演と同じ「平成14年きつつき賞」の看板が掲げられており、といって過去の話という作りではない。当時に比べるとスマホやSNSなどネット環境は激変しているが、劇世界に綻びは見えず、全く古びていない。土屋作品のタイトルは人名が折り込まれたユニークなものだが、まさにこれは「土屋君は古びない」ことを示していると言えよう。
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