*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 吉岩正晴演出 公式サイトはこちら 下北沢 シアター711 20日で終了(1)
ちょうど一年前、『誰もいない国』をみて以来のハーフムーンである。客席の年齢層は下北沢にしてはそうとうに高めで、業界の知り合い客が多いようである。
今年はピンターの「レヴューのためのスケッチ」を中心に、前半を「政治の風景」として『神の管轄区域』、『丁度それだけ』、『新世界秩序』、『記者会見』、『山の言葉』、後半を「日常の風景」として、『そこがいけない』、『それだけのこと』、『夜』、『それはそれとして』、『雨傘』、『家族の声』をつづけて上演する。15分の休憩をはさんでたっぷり2時間20分だ。
友人どうしのゆるやかな朗読会で読んだ『新世界秩序』や、クリニック・シアターで上演された『それだけのこと』、『そこがいけない』を除けば、初見の演目ばかりである。
客席には二つ折の立派な当日リーフレットが置かれているが、願わくは配役表もほしい。
結論から言うと、観劇の印象は昨年とほとんど同じであった。ピンター作品には難儀をしたが閉口はしておらず、これからも機会があればぜひみたい。開演前のアナウンスの趣向もあいかわらずで、それに対して筆者が感じたこともそっくり同じである。
これはどういうことになるのだろうか。
ピンター作品の魅力は何か、戯曲の読みとり方、演じ方、受けとり方、作り手受けて双方に学習が必要であり、かといってこれが絶対的に正しい方法というものもないのではなかろうか。
昨年に引きつづき、ハーフムーン・シアター・カンパニーの方法が正しいのかどうかの判断はできず、それどころかどうしても集中できない、つまり振り払っても振り払っても眠気に襲われてどうにもならなかった。まことに身も蓋もないはなしであるが。
楽しみに劇場へ行ったのに眠ってしまう。これはなぜか。まずは寝不足や体調不良などおもに身体の理由がある。つぎに芝居がむずかしくて理解できなかったり、自分の求めていたものとちがったり、頭や心が芝居を受けつけることを拒んでしまうこともある。しかしながら決して体調がよくなかったり、困惑のし通しなのにずっと見つづけられることもあり、あいだでちょこちょこ寝落ちしたものの、トータルとしてじゅうぶんに楽しめることもある。
今回の公演で言えば、前半の『山の言葉』には場面転換が明確で、登場人物の動きもたくさんあるのでわりあい刺激の強い演目だと言える。後半の『家族の声』は、3人の登場人物がずっと客席を向いたまま、独白をつづける形である。事前に戯曲を読んだなかではもっとも興味をもった作品であるが、これもまたみるほうとしては辛いものであった。
登場人物が横並びして一度も視線を交わさない芝居として、まっさきに頭に浮かんだのが鵺的第5回公演『荒野1/7』である。現実にはおそらくテーブルを囲んでいるであろう7人のきょうだいたちが、全員正面を向いたままで進行する。特殊というか異様といってもいいくらいの様相であり、しかしこの形式にこめた作者の意図は、自分なりに受けとめることができた。
『家族の声』は、離れたところにいる母親と息子が相手に向かって話しながら、その声は相手には届いておらず、互いの溝が深まってゆくという悲しくも痛ましい物語である。
物語の内容からして、母と息子が正面を向いたまま、客席に向かってずっと語りかける形式うはむしろ自然である。しかしみるほうの集中はどうしてもとぎれがちになり、とくに後半において音響効果かと思ったら観客のいびきだったという、俳優、客席どちらにも同情を禁じ得ないことも起こった。
うまく言えないのだが、俳優がピンター作品を演じる上での演技の芯、肝、めりはり、緩急といったものがもう少しあればと思うのである。
帰宅してまたピンターの戯曲集を読み直す。心に思い描いた舞台に出会えるのはいつの日だろうか。その日が訪れることを願いながら、またくりかえし読み、考える日々がはじまった。
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