*樋口一葉原作 久保田万太郎脚色 原田一樹演出 公式サイトはこちら 文化座アトリエ 17日まで
1997年春に文学座の杉村春子が亡くなったとき、追悼として1968年制作のラジオドラマ『大つごもり』が放送された。さまざまな舞台がテレビで特集されたのだが、そのどれよりも、自分はラジオドラマが心に残った。ラジオドラマの脚色も久保田万太郎で、ラジオであることを考慮して地の文の読み手が入る。読み手の坂本和子という方が唸るほど巧く、締めくくりの「後(のち)の事しりたや」のひとことが、聴き手の「それからお峯はどうなったのか」と想像をかきたてると同時に、「物語はこれで終わりなのだ」と告げ知らせる潔さがあって、確かな手ごたえが感じられるのだ。
舞台上演をみるのはこれがはじめてだ。千秋楽ということもあって、小さなアトリエは満席。それも年配の方が圧倒的に多く、文化座を応援する客層の厚みが感じられる。客席への案内はじめ、若いスタッフの皆さんもきびきびと丁寧で気持ちがよい。
舞台は上手に井戸や台所のあるお勝手、下手に山村家の茶の間が作られている。家具調度はじめ、天井の梁や井戸までそのまま映画になりそうなほど、どっしりと重厚である。お峯が井戸水を汲む場面ではほんとうに水が汲まれていて、あの井戸の装置は下がどのようになっているのだろうか。
若手も中堅もベテランも楷書のお習字のようにきっちりとゆるぎない演技で、1時間5分の上演時間は短すぎず長すぎず(←これはものすごく稀なことなのだ)、先日の江森盛夫さんのお話ではないが、「やっぱり自分はこちら側なのでは?」と思わされた。今年3月に観劇した文学座の『女の一生』のときに感じたように、小劇場通いが中心の演劇生活であっても、やはり半年に一度はちゃんと新劇をみて背筋を伸ばそう。それが可能な環境にあることをもっと感謝して励みたい。
舞台には当然のことながら地の文は読まれない。自分はいつのまにかラジオドラマの坂本和子の語り口で呼吸しながら舞台に見入っていた。終幕、立ち去った石之介を追いかけてお峯が戸口をあけると強い寒風とともに雪が舞い落ちる。「引出しの分も拝借致し候 石之介」と書かれた紙きれを握りしめ、お峯は声もなく拝むような姿勢でかがみこむ。「後の事しりたや」。自分は心のなかでそうつぶやいていた。
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