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戦後71年経っても残る人吉海軍航空隊基地跡の広大さには驚かされる

2016年08月14日 07時27分37秒 | 時事放談: 国内編

面白い!一度実物を見てみたいものです。

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地下に旧日本軍の大規模施設、作戦室など現存
読売新聞 2016年08月13日 19時47分

 太平洋戦争末期熊本県錦町と相良村にまたがる丘陵地帯に建設され、地上施設の多くが空襲などで失われた「人吉海軍航空隊基地跡」の地下部分に、総面積約1万平方メートルの施設が現存していることが同町などの調査でわかった。

 基地は旧日本軍の特攻隊の訓練などにも使用されており、戦争の悲惨さを語り継ぐ遺跡として保存する動きが広がっている。

 錦町北部の木上地区にある巨大な地下壕ごう。高さ約5メートルの天井部分には、魚雷をつり下げるための木製器具の跡が今も残る。周囲では兵舎として使用された地下壕も複数確認されている。

 戦時中から基地近くに住む新堀徳人志よしとしさん(83)は「滑走路から飛び立つ練習機をよく見に行った」と当時を振り返る。

 町によると、基地は1943年11月に建設が始まった総面積は約2万5000平方メートルで、長さ約1300メートルの滑走路を持つ飛行場地区、兵舎や司令室がある庁舎居住地区、兵器や自動車の工場があった隧道地区の3地区に、80以上の施設があったとされる。

 本来は、操縦士などを目指す飛行予科練習生の訓練施設だったが、戦況が悪化し、特攻隊の訓練や兵器の製造なども行われるようになったという。45年3月から建設が進められた隧道地区の作戦室や無線室は、空襲を避けるため地下壕内につくられるなど、本土決戦に向けた拠点だったとみられる。

 地上施設は終戦間際の米軍の空襲で大部分が焼失し、基地跡は戦後、農地となった。地下施設も、住民が農機具をしまう倉庫として使用していたという。

 県内の戦争遺跡の調査を行っている「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」が2014年、国立公文書館アジア歴史資料センター(東京)に所蔵されていた終戦当時の基地の配置図などの資料を基に、地下の発電施設や作戦室が現存することを確認した。

 その後、錦町による測量調査も行われ、地下壕に造られた無線室や掩体壕跡など約40の遺構を確認した。同ネットワークの高谷和生さん(61)は「現存する地下施設は九州でも最大規模。宅地開発などで多くの戦争遺跡が失われた中、これだけの遺構が残っていることは珍しい」と語る。

 錦町は昨年2月、基地跡を平和学習の場などとして活用するため、「人吉海軍航空隊基地跡活用研究プロジェクト」を発足させた。プロジェクトに協力する郷土史家らが基地の歴史をまとめた漫画を制作。地域住民らが案内役となり、これまで県内外から300人以上が訪れたという。

 町は今後、文化財指定を目指して、遺構の調査を進めるほか、保存方法についても検討するという。同プロジェクトの座長を務める町企画観光課の手柴智晴さん(35)は「戦後71年が経過し、戦争を知る世代は少なくなっている。当時の様子を知り、戦争の悲惨さを後世に伝えるためにも、基地跡の保存と活用を進めていきたい」と話していた。

 (有馬友則)

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詳しくは、錦町が作ったサイト「人吉球磨は秘密基地 ~人吉海軍航空隊基地跡のご紹介~マンガ編」が面白いです。

 http://www.nishiki-machi.com/docs/2015081700013/

それにしても、これだけ大規模に残っているというのは、戦後人吉が開発の嵐に襲われなかった証拠です。地元の人には複雑な思いかもしれませんが、歴史的にはありがたいこと。きちんと保存されていくことを望みます。


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