ゴウ先生、中学・高校と陸上競技をしておりました。そんなわけで、陸上のニュースにはいまでも関心があります。その中でも久々に感動するニュースが聞こえてきました。二つの日本新記録をめぐるものです。
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男子走り高跳びで醍醐が日本新 (スポーツニッポン) - goo ニュース
2006年 7月 3日 (月) 06:13
アジア大会(12月・ドーハ)代表選考会を兼ねた陸上の日本選手権最終日は2日、神戸ユニバー記念競技場で行われ、男子走り高跳びで醍醐直幸(25=富士通)が2メートル33の日本新をマークして2年連続3度目の優勝を飾った。これまでの記録は君野貴弘が93年にマークした2メートル32で、醍醐は13年ぶりに更新した。2メートル33は今季世界最高タイで、昨年の世界選手権でも1位に相当する快記録。大阪で開催される来年の世界選手権に向け、一躍金メダル候補が誕生した。
スタンドの手拍子に送られた醍醐は、弾むような助走から豪快に踏み切った。2メートル33、13年ぶりの日本新。バーが落ちていないことを確認すると、醍醐は右手の人さし指を突き上げて喜びを爆発させた。
2メートル21までは1回でクリアしたが2メートル24、27、30、そして33はいずれも3回目にやっとクリア。実に15回目のジャンプで成し遂げた大記録に“跳人”は「応援の手拍子に乗せられた感じ。体力的にはつらかったけど、自分でも価値があると思う」と胸を張った。
東京の野津田高2年の時に2メートル19を跳び、3年で世界ジュニア7位入賞。東海大に進学するまでは順風満帆だったが、2年以降は左アキレス腱を痛め、その後遺症でフォームがバラバラになってしまった。卒業時に勧誘してくれる実業団はなく、時給900円でスポーツジムの清掃をしながら練習を続けた。収入は月に4、5万円程度。両親の仕送りで何とか生活していたが、04年に日本選手権で敗れた後には「もう辞めようと思ったこともある」という。それでも05年には日本陸連の「スポーツ活動支援制度」の適用を受け、年間240万円がもらえるようになると一念発起して世界選手権代表に。今年4月からは富士通の支援を得て、ついに念願の日本記録を塗り替えた。
「来年の大阪で3位に入って北京で勝負したい」。文字通りの大ジャンプでどん底時代から一気に抜け出たホープは、堂々北京五輪での金メダルを宣言した。
▼醍醐 直幸(だいご・なおゆき)1981年(昭56)1月18日、東京都出身の25歳。町田市・真光寺中ではハンドボール部だったが、野津田高から走り高跳びの選手に。05年世界選手権は予選B組12位(2メートル20)で決勝に進めなかった。1メートル82、64キロ。血液型O。
≪男子砲丸投げでも日本新≫男子砲丸投げでも畑瀬聡(群馬綜合ガードシステム)が18メートル56の日本新を樹立した。博多工高時代から将来のホープと期待されたが、度重なる故障で伸び悩んでいただけに「長かった」と一言。実は今回も4月の兵庫リレーカーニバル後に肋骨を折るアクシデントに見舞われ、やむなく筋力トレと技術練習に専念したことが奏功。3投目に記録を塗り替えた。
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走り高跳びで2m30cmを越えるというのは、実に凄いことです。想像してください。普通の家屋の天井近くを越えていくのですから。
しかも醍醐選手の場合、身長が1m82cmしかありません。つまり、頭上51cmもの高さをクリアしたことになるわけです。ヨーロッパでは2mを越える長身ジャンパーが珍しくない中、すばらしいバネとしかいいようがありません。アッパレです。
その上、普段の生活にも事欠く貧困の中からこの記録を作り上げてきたとか。夢は、やっぱりあきらめずに努力し続ける限り、叶うのかもしれません。少なくとも、続けきれば、きっといいことがあるのです。勉強になりました。
同じことが、男子砲丸投げでもいえます。98年に野口安忠選手(当時日本大学)が18m53cmの日本記録を投げて以来、伸びがとまっていたこの種目。ずっと大器と期待されながら足踏みをしていた畑瀬選手が、その停滞を破ってくれたのです。
ハイジャンプと違って、こちらの方は世界にすぐ通用するという記録ではありませんが、こうしたことの積み重ねが世界への道を切り開いてくれるのです。畑瀬選手のこれからに大いに期待したいものです。
とにかく、あきらめずに続ければよいことがあるのです。ゴウ先生、勇気をもらいました。
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男子走り高跳びで醍醐が日本新 (スポーツニッポン) - goo ニュース
2006年 7月 3日 (月) 06:13
アジア大会(12月・ドーハ)代表選考会を兼ねた陸上の日本選手権最終日は2日、神戸ユニバー記念競技場で行われ、男子走り高跳びで醍醐直幸(25=富士通)が2メートル33の日本新をマークして2年連続3度目の優勝を飾った。これまでの記録は君野貴弘が93年にマークした2メートル32で、醍醐は13年ぶりに更新した。2メートル33は今季世界最高タイで、昨年の世界選手権でも1位に相当する快記録。大阪で開催される来年の世界選手権に向け、一躍金メダル候補が誕生した。
スタンドの手拍子に送られた醍醐は、弾むような助走から豪快に踏み切った。2メートル33、13年ぶりの日本新。バーが落ちていないことを確認すると、醍醐は右手の人さし指を突き上げて喜びを爆発させた。
2メートル21までは1回でクリアしたが2メートル24、27、30、そして33はいずれも3回目にやっとクリア。実に15回目のジャンプで成し遂げた大記録に“跳人”は「応援の手拍子に乗せられた感じ。体力的にはつらかったけど、自分でも価値があると思う」と胸を張った。
東京の野津田高2年の時に2メートル19を跳び、3年で世界ジュニア7位入賞。東海大に進学するまでは順風満帆だったが、2年以降は左アキレス腱を痛め、その後遺症でフォームがバラバラになってしまった。卒業時に勧誘してくれる実業団はなく、時給900円でスポーツジムの清掃をしながら練習を続けた。収入は月に4、5万円程度。両親の仕送りで何とか生活していたが、04年に日本選手権で敗れた後には「もう辞めようと思ったこともある」という。それでも05年には日本陸連の「スポーツ活動支援制度」の適用を受け、年間240万円がもらえるようになると一念発起して世界選手権代表に。今年4月からは富士通の支援を得て、ついに念願の日本記録を塗り替えた。
「来年の大阪で3位に入って北京で勝負したい」。文字通りの大ジャンプでどん底時代から一気に抜け出たホープは、堂々北京五輪での金メダルを宣言した。
▼醍醐 直幸(だいご・なおゆき)1981年(昭56)1月18日、東京都出身の25歳。町田市・真光寺中ではハンドボール部だったが、野津田高から走り高跳びの選手に。05年世界選手権は予選B組12位(2メートル20)で決勝に進めなかった。1メートル82、64キロ。血液型O。
≪男子砲丸投げでも日本新≫男子砲丸投げでも畑瀬聡(群馬綜合ガードシステム)が18メートル56の日本新を樹立した。博多工高時代から将来のホープと期待されたが、度重なる故障で伸び悩んでいただけに「長かった」と一言。実は今回も4月の兵庫リレーカーニバル後に肋骨を折るアクシデントに見舞われ、やむなく筋力トレと技術練習に専念したことが奏功。3投目に記録を塗り替えた。
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走り高跳びで2m30cmを越えるというのは、実に凄いことです。想像してください。普通の家屋の天井近くを越えていくのですから。
しかも醍醐選手の場合、身長が1m82cmしかありません。つまり、頭上51cmもの高さをクリアしたことになるわけです。ヨーロッパでは2mを越える長身ジャンパーが珍しくない中、すばらしいバネとしかいいようがありません。アッパレです。
その上、普段の生活にも事欠く貧困の中からこの記録を作り上げてきたとか。夢は、やっぱりあきらめずに努力し続ける限り、叶うのかもしれません。少なくとも、続けきれば、きっといいことがあるのです。勉強になりました。
同じことが、男子砲丸投げでもいえます。98年に野口安忠選手(当時日本大学)が18m53cmの日本記録を投げて以来、伸びがとまっていたこの種目。ずっと大器と期待されながら足踏みをしていた畑瀬選手が、その停滞を破ってくれたのです。
ハイジャンプと違って、こちらの方は世界にすぐ通用するという記録ではありませんが、こうしたことの積み重ねが世界への道を切り開いてくれるのです。畑瀬選手のこれからに大いに期待したいものです。
とにかく、あきらめずに続ければよいことがあるのです。ゴウ先生、勇気をもらいました。
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