歴史の闇に光が入る史料かもしれません。
**********
「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前 2007.11.24 00:21
米大統領→天皇あて親電で陸軍通信課員が証言 新史料が見つかる
昭和16年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れた原因の一端を示すとみられる史料が、防衛省防衛研究所に保管されていることが分かった。史料は、米・ハワイの真珠湾攻撃成功を目指す旧日本軍が開戦直前、ルーズベルト米大統領から天皇あての親電の伝達を遅らせたことを明確に裏付ける内容で、旧陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐(当時)の関与を示唆した文書が見つかったのは初めて。親電の一時差し止めが最後通告の遅れにつながった可能性を指摘する専門家もおり、通告の遅れをめぐる論議に一石を投じることになりそうだ。
史料は、昭和11年8月から20年までの軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜(ぼうちよう)に関する回想聴取録」。
それによると、昭和16年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐(当時)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。
続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と証言していた。
これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛していた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。当時、参謀本部が海外情報の統制のため、外国からの電報を10~15時間程度遅配するよう決めていたが、大統領親電のような特別重大な電報については例外とする余地があったようだ。
大統領親電の内容は日本側に一見、和平を呼びかけながら日本軍の仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だった。
学識者の中には、軍部が親電の配達を遅らせている間に外務省本省がこれを解読、翻訳し、最後通告の内容に反映させようとしたため、結果的に最後通告の遅れにつながった-との見方がある。
作家の半藤一利氏は「瀬島少佐が戸村少佐と会って親電の扱いを話したのは事実で、結果としてこれが最後通告の遅れにつながったという推論はあり得べき話だ」と語る。その一方で、「瀬島氏に親電を握りつぶす力があったかどうかは材料不足で判然とせず、瀬島氏個人の判断が通告遅れにつながったと断定するのは無理があるのではないか」としている。
【対米最後通告の遅れ問題】日本政府は昭和16年、真珠湾攻撃の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だったが、分割打電した最後の14部について在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル米国務長官に最後通告を手渡したのは、真珠湾攻撃から1時間近くたった、午後2時20分(同午前4時20分)だった。米国は「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に対日戦争に入った。
**********
先日お亡くなりになった瀬島隆三元伊藤忠会長の若かりし頃の話です。実際はどうだったのか、すべては語らずに逝ってしまわれたので、本当のところはわかりません。
しかし、この方の来歴には多々謎と疑惑が残ります。真実の解明を歴史家に期待したいものです。
**********
「瀬島少佐と配達遅らせた」 日米開戦前 2007.11.24 00:21
米大統領→天皇あて親電で陸軍通信課員が証言 新史料が見つかる
昭和16年の日米開戦で最後通告の手渡しが遅れた原因の一端を示すとみられる史料が、防衛省防衛研究所に保管されていることが分かった。史料は、米・ハワイの真珠湾攻撃成功を目指す旧日本軍が開戦直前、ルーズベルト米大統領から天皇あての親電の伝達を遅らせたことを明確に裏付ける内容で、旧陸軍参謀本部作戦課の瀬島龍三少佐(当時)の関与を示唆した文書が見つかったのは初めて。親電の一時差し止めが最後通告の遅れにつながった可能性を指摘する専門家もおり、通告の遅れをめぐる論議に一石を投じることになりそうだ。
史料は、昭和11年8月から20年までの軍関係の動きについて、戦後、防衛庁(現防衛省)が関係者から聴取した「防諜(ぼうちよう)に関する回想聴取録」。
それによると、昭和16年12月の開戦前、陸軍参謀本部通信課員だった戸村盛雄少佐(当時)が昭和37年3月、防衛庁の事情聴取に対し、大統領の親電をめぐる経緯について「7日午前11時ごろ、参本(陸軍参謀本部)の廊下で瀬島(少佐)とバッタリ会った」と証言。
続けて戸村少佐は「瀬島から『南方軍の船団が飛行機に発見されてこれをおとした』と聞いて、これが開戦の第一発であると思って、瀬島とも一緒に考えて親電を遅らせた」と証言していた。
これは、日本の船団がマレー半島沖で英軍の哨戒飛行艇に発見されたため、護衛していた旧日本軍の戦闘機が撃墜した事実を指す。この証言が事実なら、瀬島氏は旧日本軍がすでに、米国と同盟関係にあった英国と開戦したという事実誤認から陸軍の規定に従い、親電の配達を遅らせたことに関与していた可能性がでてくる。当時、参謀本部が海外情報の統制のため、外国からの電報を10~15時間程度遅配するよう決めていたが、大統領親電のような特別重大な電報については例外とする余地があったようだ。
大統領親電の内容は日本側に一見、和平を呼びかけながら日本軍の仏印からの全面撤退を要求する強硬な内容だった。
学識者の中には、軍部が親電の配達を遅らせている間に外務省本省がこれを解読、翻訳し、最後通告の内容に反映させようとしたため、結果的に最後通告の遅れにつながった-との見方がある。
作家の半藤一利氏は「瀬島少佐が戸村少佐と会って親電の扱いを話したのは事実で、結果としてこれが最後通告の遅れにつながったという推論はあり得べき話だ」と語る。その一方で、「瀬島氏に親電を握りつぶす力があったかどうかは材料不足で判然とせず、瀬島氏個人の判断が通告遅れにつながったと断定するのは無理があるのではないか」としている。
【対米最後通告の遅れ問題】日本政府は昭和16年、真珠湾攻撃の約30分前の米東部時間12月7日午後1時(日本時間12月8日午前3時)に米国に最後通告を手渡す予定だったが、分割打電した最後の14部について在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わず、野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル米国務長官に最後通告を手渡したのは、真珠湾攻撃から1時間近くたった、午後2時20分(同午前4時20分)だった。米国は「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に対日戦争に入った。
**********
先日お亡くなりになった瀬島隆三元伊藤忠会長の若かりし頃の話です。実際はどうだったのか、すべては語らずに逝ってしまわれたので、本当のところはわかりません。
しかし、この方の来歴には多々謎と疑惑が残ります。真実の解明を歴史家に期待したいものです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます