高倉健さんに関するスポーツ新聞・週刊誌報道には一切目を通さない方針できました。真偽のほどがつかめないからです。しかし、ニュースソースとしての「高倉健」は格別。各紙・各誌、本当かどうかはわかりませんが、大胆な記事を書いているようです。「本木昌彦の深読み週刊誌」にまとめてあった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊ポスト』の記事の内容を記録しておきましょう。
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本当の高倉健「処世術に長け人付き合いもすごく器用」健さん撮り続けた写真家が知る素顔
J-CAST テレビウォッチ 2014/11/27 15:00
<「後輩の役者が挨拶に来ると、自身もすっと立ち上がり、一礼をする。まめに手紙を出す。サプライズ・プレゼントを贈る。私も母が亡くなった時、健さんから葬式に香典とお花を贈っていただきました。かように、健さんは気遣いの人なのです。ただ客観的に見れば、こうしたことからも、彼が処世術に長けた人だということが分かります。不器用どころか、実はすごく器用な方だったと評価できる。知人に数え切れないほどロレックスをプレゼントしており、確かに気前は良いのですが、値段の高いデパートなどでは買わず、輸入会社から直接仕入れていました。こういう細やかさ、周囲への気配り、まめなところは、剛健な俳優というより、柔らかさを持った女優的なものを感じます」>
網走番外地シリーズ時代からスチール撮影で高倉健に密着し、公私ともに親交の深かった写真家のムトー清次氏は『週刊新潮』で高倉をこう分析している。
今週は各誌グラビアを含めて健さん一色といってもいい。週刊誌には「おめでた1号悲しみ3号」という言葉がある。結婚などのおめでたい話は1週間しかもたないが、有名人の離婚や葬儀は3週間もつというのだ。
健さんのプライバシーの多くはベールに包まれているが、少しずつ明らかになってきている。たとえば、江利チエミにぞっこんだった健さんは、ストーカーまがいのことをやっていたという。彼女の所属事務所社長だった木村隆氏が振り返る。
<「生前のチエミから聞いた話ですが、大豪邸だった江利家の前の電柱に、夜な夜な身を隠すようにして立つ人影があったそうです。家人が気味悪がり、父親が誰何すると、『俳優の高倉健です』と答えた。しかし、空前の人気を誇ったチエミに比べ、当時の健さんはまだ無名。父親は『そんな俳優、知らん』と取り合わなかった」>
それでも彼はチエミ詣でを続け、鉄格子の門からチエミのいる洋館のほうに向かって靴を投げ込み、自分の来訪を知らせたという。父親もここまで娘のことを思っているならと交際を許したそうだ。
東京・高輪の理髪店にあったチーム高倉の「執務室」
健さんが東京にいるとき、世田谷・瀬田の自宅から毎日通ってくる「場所」があった。ボルシェやマセラッティなどこだわりの車コレクションの管理、ロケ同行、諸々の手配をこなす「チーム高倉」がそれだが、そこは港区・高輪の商業施設内にある理髪店なのだ。
<「一見したところ、高級理髪店の雰囲気なのですが、隠し部屋がありまして。実はそこ、健さんの『執務室』になっているんですよ」(ベテラン芸能記者)>
部屋の中央に散髪台が置いてあるほか、テレビやFAXなども完備していて、店主とコーヒーを飲みながら歓談して1日を過ごした。
高倉健にはしばしば「ゲイ説」が流れたことがあったが、実際の彼は無類の女好きだったと、ベテラン映画記者が明かしている。<「古くは、東映ニューフェイスの2期生として入社した直後に同期の女優、丘さとみに手を出し、付き合っていた。江利と結婚していた当時も、女遊びは豪快でした。たとえば木曽でロケを行った際、1日時間が空くと、後輩たちを引き連れて、名古屋まで繰り出し、遊郭で遊ぶこともありました」
倍賞千恵子とも男女の仲を疑われたことがあった。60代半ばに差し掛かった90年代後半、ある女性タレントに夢中になっていたという。長渕剛や広岡瞬と結婚、離婚を繰り返し、当時は独身だった女優で歌手の石野真子だ。(健さんてああいうのが趣味なのか?)。口説き方が凄い。北海道・札幌すすきのにある豪壮な寿司屋を丸ごと借り切り、二人きりで寿司をつまみながら語らい、彼女への熱い思いをぶつけ、その夜、彼女を口説き落としたそうだ。
さらに、高倉健には80歳を超えてなお、親密に会食を楽しむ女性がいたという。この数年、自宅に近い高級イタリアン・レストランに40代の女性を伴って、お忍びで食事に来ている姿が何度も目撃されていたそうだ。
裏方も必ず名前で呼んだ撮影現場の気配り
『週刊文春』によると、健さんが入院した病院は慶應大学病院のVIP病棟。健さんの知人がこう話す。<「健さんが本当に心を許していた人は、数少なかった。俳優では小林稔侍さん、中井貴一さん。それに、毎日のように通っていた理髪店の主人Sさんと、都内で飲食店を経営するJさんです」>
とくに、中国から来日して苦労して事業を成功させたJさんを弟のように可愛がっていて、中国ロケの際も通訳として同行させた。闘病中もずっと一緒で、悪性リンパ種を患った健さんを連れて上海、北京に行き、高名な漢方医や鍼灸医、気功医に見てもらっていたそうだ。Jさんは自宅に大きな祭壇を作っていて、そこに健さんと親しかった人たちが訪れ、別れの挨拶をしているそうである。先日は長嶋茂雄も顔を見せたという。
多くの人が健さんについての思い出を語っているが、『週刊ポスト』にあった「鉄道員」「ホタル」で助監督を務めた佐々部清さんの話を紹介しよう。
<「『鉄道員』の完成をお祝いした時でしょうか。撮影所の中で、降旗さん、高倉さんを真ん中に記念写真を撮ったんです。倉庫整理の人、美術、カメラ整備など東映を下支えして定年を迎えられたり、退職した人たちを含めて100人ほどが集合しました。
何十年、ともに映画をつくってきた人たちです。みな、おじいちゃんです。高倉さんは全員の名前を憶えていました。昔から、『そこの照明』とか絶対いわない人でしたが、その時もみなさんの名前を呼んで、おじいちゃんたち泣いておられました。
高倉さんはおっしゃった。『あと何年、自分は役者でいられるか。もうあと何本出られるかわからない。だから何を撮ったかではなく、なんのために撮ったかが大事なんです』と」>
人一倍寂しがり屋で話し好きだった高倉健は、生涯「孤高の昭和の男」を演じ続けた。最後の映画俳優の死を心から悼む。高倉健も立川談志もいない人生なんて、寂しい。
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丘さとみさんは、1935年9月15日生まれの79歳。健さんの4歳、5学年下ということになります。東映時代劇のお姫様役が印象的ですが、健さんとは『宮本武蔵 二刀流開眼』(1963)、『宮本武蔵 一乗寺の決斗』(1964)、『宮本武蔵 巌流島の決斗』(1965)で共演しています(なお、そのとき健さんはすでに江利チエミさんと結婚しています)。
石野真子さんというのは、強烈なボディブロウでした。ただし、石野さんとは『居酒屋兆治』(1983)で共演していますから、接点がないことはないわけです。ちなみに、石野さんの役は大滝秀治さんの後妻役でした。
秘密主義を通した健さんですから、慶応病院のVIP棟にいたのだろうと思います。ここは、受付に行っても、入院しているかどうかもまったく教えてくれないところです。一度知人のお見舞いに行って、門前払いになった痛い思い出があります。
それにしても、最後まで健さんがもてていたというのを聞いて、ファンとしてはうれしくなりました。クリント・イーストウッドもそうですが、このくらい元気でないと映画スターではありません。合掌。