高尾団地・大将軍駅の解体工事もいよいよ最終段階に近づきました
平成29年4月25日

瓦礫を利用したスロープを利用して東は1階を西は3・4部分を解体しています。

外周の防音パネルも階段状に縮小されています。
写真 右 モノレールの橋脚の撤去跡です。道路の傷跡は小さなものです。基礎は残して地上部だけを切り取ったことが
わかります。
平成29年5月7日

写真 左 モノレール大将軍駅部分はなくなってしまいました。
写真 右 モノレールの橋脚の撤去跡が綺麗に舗装されました。
平成29年5月17日

東の部分は一部の柱は残っていますが地表面まで解体は終了しています。
平成29年5月30日

西側の一部を残して地表面まで解体が終了しました。ぽつんと残された橋脚が寂しげです。
船場本徳寺とその界隈
船場地区については 番外編2高尾団地取り壊し進む と 姫路モノレール(2016.11.22)こちらは残った「下駄履住宅」
市街地改造事業(船場地区)などでご紹介して参りましたが高尾団地の解体工事も終りに近づき船場本徳寺界隈を少し紹介
します。船場本徳寺は高尾団地と船場東ビルの中間、船場川の少し西にあります。
船場本徳寺は元和3年(1617)亀山本徳寺が姫路城主本多忠政から旧池田家の菩提寺国清寺の建物と100間四方の
土地を与えられたことに始まります。元和3年は大坂の陣が終わって豊臣氏は滅亡してますが、この後、三の丸西の丸が作ら
れ姫路城は完成します。この巨大なお寺は姫路城の西の守りの一角を担う役目も担った思われます。池田輝政は信長・秀吉に
仕えた武将ですが、外様ながら家康の娘婿として家康から絶大な信任を得て関ヶ原合戦の後、大坂城包囲網の城として、姫路
城の大改修をし現在の姫路城大天守を造ります。しかし輝政が死に、豊臣氏が滅び、家康が亡くなった後はお役御免とばかり
に鳥取に移封され、後には気心の知れた譜代の本多忠政が入封します。忠政は徳川四天王の一人本多忠勝の子です。池田氏は
輝政が造った姫路城を取り上げられたうえ菩提寺まで転用されてしまったわけです。現在は池田輝政の五輪塔が増位の隨願寺
にあります。また100間四方の土地は池田氏の屋敷跡だそうです。まさに外様大名の悲哀を味わったわけです。姫路藩は以
後譜代大名が続きます。
関ヶ原の合戦の後、池田輝政は一族で淡路・姫路・岡山・鳥取で合計92万石西国将軍とも呼ばれまさに大坂城と豊臣恩顧
の西国大名を分断する壁となります。輝政が50歳で急死(秀吉の祟りとも言われました)その子利隆も33歳で死亡、孫の
光政はまだ7歳でした。これが鳥取への移封の理由となります。光政はその後、従兄弟の光仲と入れ替わりで岡山に入ります
が藩主在位40年、名君として名を残し子孫は廃藩置県まで続きます。祖父の輝政に劣らぬ教訓的な人生でした。
優に小藩の陣屋ぐらいはある巨大な船場本徳寺で有りますが姫路城と共に無事幕末の混乱も第2次世界大戦も乗り切ること
が出来ましたが境内に珍しい戦争遺産があります。

本堂の裏でわかりにくいところではありますが、第一次大戦のドイツ人捕虜が故郷を偲んで作ったお城の模型です。姫路城
を見て故郷のお城を思い出したのでしょうか。材質も作り方も分かりません。壊れた部分から見ると薄い物です。壊れた部分
に1915(大正4年)の数字が見えます。第1次大戦は大正3年(1914)から大正7年(1918)まで続いた長い戦
争ですが、日本は日英同盟により英国から要請を受け大正3年8月25日に参戦、同年11月7日には青島要塞が降伏約四千
七百人の捕虜が出ました。東洋での戦闘は早々と終わったのですがヨーロッパでは凄惨な戦いが続き、捕虜達の長い捕虜生活
が続きます。本格的な捕虜収容施設ができるまでの間、全国のお寺などに分散収容されます。1915はこの間の事情を現し
ていると思います。不自由な異国の異国の生活の中でも物作りの心を失わないドイツ人の偉大さを感じます。板東捕虜収容所
をユネスコの世界記憶遺産に登録する動きがあるようですが加えてもらえないものでしょうか。
(追記 29.6.14)材質を調べてきました。土台に石を積みその上に針金で芯を作りモルタルで山や建物を作っています。
鉄筋コンクリート造ならぬ針金モルタル造です。山の一部は石をそのまま利用しています。
船場本徳寺では3・5・7・9・12月の第1日曜日9時~12時 船場御坊楽市が開かれています。

山門を入ったところでインドカレーとナンを焼いています。お釈迦様の故郷だからでしょうか。今も国際的です。

本堂の縁側から船場東ビルが見えます。かっては南を見れば高尾団地が見えたと思いますが今は見えません。
本堂では、楽市法話が行われていました。テーマは「極楽浄土」です。この立派な御仏壇のイメージでしょうか。
門前町と言えば

お仏壇の「せんばはまや」さんです。後ろに見えるのは船場東ビルです。付近には数件の仏壇屋さんがあります。石屋
さんも必要ですよね。
戦前は門前に姫路駄菓子の店が並んでいたそうですが。

双葉製菓有限会社さんです。明治40年創業の老舗です。屋根の通風筒が懐かしさを感じます。「こわれ奉天」を無人
販売していますがこわれている訳ではありません。残念なことに「廃業のおしらせ 大変長い間ご愛顧を賜り有難うござ
いました。弊社は事情により六月末日で廃業致します。つきましては無人販売所も商品が無くなり次第終了します。双葉
製菓(有)」の張り紙がありました。
金岡製菓さんです。「営業時間 9時~5時 玄関を開くとチャイムがなる」と書いてあります。販売もされて
いるようです。
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.16)があります。
平成29年4月25日


瓦礫を利用したスロープを利用して東は1階を西は3・4部分を解体しています。


外周の防音パネルも階段状に縮小されています。
写真 右 モノレールの橋脚の撤去跡です。道路の傷跡は小さなものです。基礎は残して地上部だけを切り取ったことが
わかります。
平成29年5月7日


写真 左 モノレール大将軍駅部分はなくなってしまいました。
写真 右 モノレールの橋脚の撤去跡が綺麗に舗装されました。
平成29年5月17日


東の部分は一部の柱は残っていますが地表面まで解体は終了しています。
平成29年5月30日


西側の一部を残して地表面まで解体が終了しました。ぽつんと残された橋脚が寂しげです。
船場本徳寺とその界隈
船場地区については 番外編2高尾団地取り壊し進む と 姫路モノレール(2016.11.22)こちらは残った「下駄履住宅」
市街地改造事業(船場地区)などでご紹介して参りましたが高尾団地の解体工事も終りに近づき船場本徳寺界隈を少し紹介
します。船場本徳寺は高尾団地と船場東ビルの中間、船場川の少し西にあります。
船場本徳寺は元和3年(1617)亀山本徳寺が姫路城主本多忠政から旧池田家の菩提寺国清寺の建物と100間四方の
土地を与えられたことに始まります。元和3年は大坂の陣が終わって豊臣氏は滅亡してますが、この後、三の丸西の丸が作ら
れ姫路城は完成します。この巨大なお寺は姫路城の西の守りの一角を担う役目も担った思われます。池田輝政は信長・秀吉に
仕えた武将ですが、外様ながら家康の娘婿として家康から絶大な信任を得て関ヶ原合戦の後、大坂城包囲網の城として、姫路
城の大改修をし現在の姫路城大天守を造ります。しかし輝政が死に、豊臣氏が滅び、家康が亡くなった後はお役御免とばかり
に鳥取に移封され、後には気心の知れた譜代の本多忠政が入封します。忠政は徳川四天王の一人本多忠勝の子です。池田氏は
輝政が造った姫路城を取り上げられたうえ菩提寺まで転用されてしまったわけです。現在は池田輝政の五輪塔が増位の隨願寺
にあります。また100間四方の土地は池田氏の屋敷跡だそうです。まさに外様大名の悲哀を味わったわけです。姫路藩は以
後譜代大名が続きます。
関ヶ原の合戦の後、池田輝政は一族で淡路・姫路・岡山・鳥取で合計92万石西国将軍とも呼ばれまさに大坂城と豊臣恩顧
の西国大名を分断する壁となります。輝政が50歳で急死(秀吉の祟りとも言われました)その子利隆も33歳で死亡、孫の
光政はまだ7歳でした。これが鳥取への移封の理由となります。光政はその後、従兄弟の光仲と入れ替わりで岡山に入ります
が藩主在位40年、名君として名を残し子孫は廃藩置県まで続きます。祖父の輝政に劣らぬ教訓的な人生でした。
優に小藩の陣屋ぐらいはある巨大な船場本徳寺で有りますが姫路城と共に無事幕末の混乱も第2次世界大戦も乗り切ること
が出来ましたが境内に珍しい戦争遺産があります。


本堂の裏でわかりにくいところではありますが、第一次大戦のドイツ人捕虜が故郷を偲んで作ったお城の模型です。姫路城
を見て故郷のお城を思い出したのでしょうか。材質も作り方も分かりません。壊れた部分から見ると薄い物です。壊れた部分
に1915(大正4年)の数字が見えます。第1次大戦は大正3年(1914)から大正7年(1918)まで続いた長い戦
争ですが、日本は日英同盟により英国から要請を受け大正3年8月25日に参戦、同年11月7日には青島要塞が降伏約四千
七百人の捕虜が出ました。東洋での戦闘は早々と終わったのですがヨーロッパでは凄惨な戦いが続き、捕虜達の長い捕虜生活
が続きます。本格的な捕虜収容施設ができるまでの間、全国のお寺などに分散収容されます。1915はこの間の事情を現し
ていると思います。不自由な異国の異国の生活の中でも物作りの心を失わないドイツ人の偉大さを感じます。板東捕虜収容所
をユネスコの世界記憶遺産に登録する動きがあるようですが加えてもらえないものでしょうか。
(追記 29.6.14)材質を調べてきました。土台に石を積みその上に針金で芯を作りモルタルで山や建物を作っています。
鉄筋コンクリート造ならぬ針金モルタル造です。山の一部は石をそのまま利用しています。
船場本徳寺では3・5・7・9・12月の第1日曜日9時~12時 船場御坊楽市が開かれています。


山門を入ったところでインドカレーとナンを焼いています。お釈迦様の故郷だからでしょうか。今も国際的です。


本堂の縁側から船場東ビルが見えます。かっては南を見れば高尾団地が見えたと思いますが今は見えません。
本堂では、楽市法話が行われていました。テーマは「極楽浄土」です。この立派な御仏壇のイメージでしょうか。
門前町と言えば


お仏壇の「せんばはまや」さんです。後ろに見えるのは船場東ビルです。付近には数件の仏壇屋さんがあります。石屋
さんも必要ですよね。
戦前は門前に姫路駄菓子の店が並んでいたそうですが。


双葉製菓有限会社さんです。明治40年創業の老舗です。屋根の通風筒が懐かしさを感じます。「こわれ奉天」を無人
販売していますがこわれている訳ではありません。残念なことに「廃業のおしらせ 大変長い間ご愛顧を賜り有難うござ
いました。弊社は事情により六月末日で廃業致します。つきましては無人販売所も商品が無くなり次第終了します。双葉
製菓(有)」の張り紙がありました。


金岡製菓さんです。「営業時間 9時~5時 玄関を開くとチャイムがなる」と書いてあります。販売もされて
いるようです。
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.16)があります。