ヒルネボウ

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『夏目漱石を読むという虚栄』の予告 2/3 売れてらセブン

2020-12-24 18:10:40 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』の予告

       2/3 売れてらセブン

 

私が『こころ』の批判を始めたのは、次の文章を読んだせいだ。

 

つまり、夏目漱石が芥川龍之介にとって生涯の反復概念になった。そして夏目漱石は『心』の主人公を自殺させて、自分は自殺したわけではありませんが、芥川は私小説、あるいは自伝的作家というところまで自分を追い詰めていったあげくに、自分自身を死なせてしまうということで結末をつけることになったんだとかんがえると、いってみれば、芥川の反復概念のいちばん大きな枠組みは漱石自身だった。しかも、作品だけじゃなくて、漱石の生きかた、そして幸不幸の閲歴、それら全部を含めて反復概念の基礎になっていたんだといえばいえるんじゃないかとおもいます。

(吉本隆明『愛する作家たち』)

 

ひどい悪文なので、引用が正確か、心もとない。

指摘したい箇所は沢山あるが、特に駄目なのは「漱石自身だった」で終わっているところだ。〈「漱石自身だった」ということがわかってきます〉などと続けなければならない。ただし、このように形式を整えると、論旨が不明であることが明らかになる。「自身」は、誇張にしても、おかしい。「かんがえ」ていることが不明確だから、形式的に不備な文になってしまったわけだ。逆に言うと、筋の通った書き方をしないから考えが途切れたのだ。ありきたりの拙い文とは違う。本人でさえ、説明も推敲もできまい。

「反復概念」とは〈猿真似〉のことらしい。意味不明の「反復概念」という言葉が暗示するのは『澄江堂主人』(山川直人)で描かれているような、夏目に対する芥川の精神的依存のようなことだろう。ただし、この漫画を、私は第二巻までしか読んでいない。

芥川にとって夏目は理想の父だった。だからこそ反抗の対象でもあった。依存と反抗の矛盾を処理できなかったことが芥川の自殺の一因になっている。あるいは、芥川がそのように思っていた。

『愛する作家たち』で論じられているのは、太宰と宮沢と芥川だ。夏目は入っていない。吉本が夏目についてまとまった話を始めるのは、江藤淳の死後だ。

『夏目漱石を読むという虚栄』という題名は、『夏目漱石を読む』(吉本隆明)に由来する。吉本は、私が〈何四天王〉と呼ぶ夏目、芥川、宮沢、太宰のファンで、同様に私が〈慢語三兄弟〉と呼ぶうちの一人であり、なおかつ、他の二人、つまり、小林秀雄と江藤淳のファンでもある。彼ら七人を合わせて〈売れてらセブン〉と呼ぶ。この七人に共通する信念やイデオロギーのようなものはない。彼らの著作のすべてに目を通したわけではないが、通す必要はない。なぜなら、私が問題にしているのは、内容ではなく、文体だからだ。

乱暴に言い切ってしまうと、彼らに思想はない。控えめに言うと、私には彼らの思想が見出せない。〈独創的な思想がない〉ということではない。彼らの文章には確かな意味がない。確かな意味がないから、確かな内容つまり思想はない。だから、〈芥川はいいが、太宰はだめ〉とか、その逆。あるいは、〈小林はいいが、吉本はだめ〉とか、その逆。そんな批評は無駄口なのだ。

私が本当に批判したいのは、売れてらセブンであり、そのファンだ。追随者、模倣者、崇拝者などだ。さらには、悪文を名文として流通させている編集者だ。ポエムもどきの意味不明の文章を生徒に読ませて感心させたがる残酷な教員どもだ。

私はやつらを排除したい。勿論、物理的に排除するのは不可能だ。頭の中からやつらの影像を排除するしかない。そのための手段として私は『こころ』を俎上に載せた。

ある作家の息子が十二歳で自殺した。死ぬ前、彼は『こころ』をむさぼるように読んでいたそうだ。父は、Kの真似をして死んだ息子が自慢らしい。彼は、Kを〈好人物〉と評する。〈好青年〉だったか。まあ、どっちでもいい。

(続)


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