夏目漱石を読むという虚栄
第二章 不純な「矛盾な人間」
<王さまの話は、はじまったばかりです。
はじまったばかりなのに、王さまは、もうたいくつしているのです。
なぜ?
(寺村輝夫『王さまきえたゆびわ』)>
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2110 「私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた」
2111 「私(わたくし)」は意味不明
『こころ』は、冒頭の第一文から意味不明だ。
『日本語の作文技術』(本多勝一)に、近代小説の書き出しが二十数例、紹介され、それに『こころ』が含まれている。ただし、「文豪が必ずしも「わかりやすい文章」の手本になるとは限らない」と断ってある。「文豪が」は〈「文豪」の書いたもの「が」〉の略だろう。
<私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」一)>
ウッとなる。「わたくし」と振ってあるからだ。この「私(わたくし)」はPだ。
<現代語としては、目上の人に対して、また改まった物言いをするのに使う。
(『広辞苑』「わたくし」)>
語り手Pに対応する聞き手Qは、Pの「目上の人」なのか。あるいは、P文書の語りの場では、「改まった物言い」をすべきなのか。
<近世においては、女性が多く用い、ことに武家階級の男性は用いなかった。
(『日本国語大辞典』「わたし」)>
Pは「武家階級の男性」みたいなのか。
ちなみに、「遺書」も「……私(わたくし)はこの夏」(下一)と始まる。
『硝子戸の中』(N)の「私」に仮名は振られていない。どう読むべきか。
『吾輩は猫である』では、勿論、「吾輩」が用いられている。なぜ、Pは「吾輩」を用いないのか。「おれ」(中十四)や「僕」(下四十一)でないのは、なぜか。
『草枕』(N)や『カーライル博物館』(N)などでは「余」が用いられている。この代名詞は「改まった、あるいはやや尊大な表現」(『日本国語大辞典』「よ【余・予】」)とされる。
『文鳥』(N)や『永日小品』(N)などでは「自分」だ。これも「男性が改まったときに用いる」(『日本国語大辞典』「自分」)とされる。
ところで、主語は、なぜ、単数なのか。〈私達〉などでないのは、なぜか。P以外にSを「先生」と呼ぶ人は皆無だったのか。静は「先生」(上十七)という言葉を用いている。だから、主語は〈「私(わたくし)」と「奥さん」〉などが適当なのではないか。
こうした含意はきちんと読み取らなければならない。「私(わたくし)」の含意が読み取れなければ、『こころ』の全体の雰囲気なども、うまく感じ取れないはずだ。Pの用いる「私(わたくし)」とSの用いる「私(わたくし)」の含意は同じか。違うのか。違うとすれば、どのように違うのか。
日本語の人称代名詞の含意が読み取れなければ、日常生活でも支障をきたすことになる。だからか、人称代名詞の使用は、日本ではできるだけ避けられる。二人称も、三人称も、特別の理由がなければ使われない。日本語は、ややこしい。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2110 「私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた」
2112 「その人」と「常に」
「その人」はSだが、唐突にソ系の言葉が出てくると、面食らう。「その」は「話し手が相手と共通で話題にしている事柄などを指す」(『明鏡国語辞典』「その」)からだ。
<次にすぐ述べる事柄をさし示す。多く翻訳文などに用いる。「その名が忘れられない多くの友だちがいる」「その母親が医者であるところの友人」
(『日本国語大辞典』「その」)>
「翻訳文」みたいな堂々巡りのソ系の言葉はグレー・ゾーンを形成している。
<1とそれ自身以外の約数を持たない、1より大きな整数を素数という。
数学の教科書に出てくる素数の定義です、知識として素数を知っていても、この文は読みにくいな、と思う人も少なくないでしょう。ですが、この文はこのようにしか書けないので、どの教科書にもだいたいこの定義で書かれています。
「それ」の前に出てくる名詞は「1」しかありませんね。でも、「それ」が指すのは1ではありません。「整数」です。
(新井紀子『AIに負けない子どもを育てる』)>
「読みにくいな」と思うような「どの教科書」も読みたくないな。
「この文はこのようにしか書けない」なんてことはない。「だいたい」は無責任。
<1より大きい整数で、1とその数自身以外に約数をもたないようなもの。
(『日本国語大辞典』「素数」)>
この文は読みにくくないな。「その数」は〈「前に出てくる名詞」句〉だ。
「常に」も困る。〈~であるときは「常に」〉の不当な略だが、〈あるとき〉が不明。
<シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性」である。ほかの呼びかたをすることは、めったにない。ホームズの目から見ると、彼女はほかの女性全体の光を失わせるほどの圧倒的存在なのだ。とはいっても、彼がアイリーン・アドラーに対して、恋愛感情に似た気持ちを抱いているわけではない。
(コナン・ドイル『ボヘミアの醜聞』)>
この「つねに」は誤訳かもしれない。「めったにない」と矛盾するようだからだ。
ワトソンの語る「恋愛感情に似た気持ち」について、シャーロッキアンの間で「激しい議論の種になっている」(ベアリン‐グールド『シャーロック・ホームズ全集3』)そうだ。
Sに対するPの「恋愛感情に似た気持ち」についても論じられてきた。
2000 不純な「矛盾な人間」
2100 冒頭から意味不明
2110 「私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた」
2113 「呼んで」は二股
〈「その人を」~「先生と呼んで」〉も、おかしい。
<「CヲDト呼ぶ」の形で、その事物CがDという名称であることを表す。
人々がCをDと呼ぶことは、DがCの呼び名として定着することでもある。
(森田良行『基礎日本語辞典』「よぶ」)>
語り手Sは、〈呼ぶ〉を次のように用いる。
<私はその友達の名を此所(ここ)にKと呼んで置(ママ)きます。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十九)>
〈Sは「その友達」に向って《Kよ》と呼びかけた〉という話ではない。「此所(ここ)」だけの「名」だ。ただし、静は「Kさん」(下五十三)と言ったそうだ。無茶。
語り手Pは、〈呼ぶ〉によって、二種の物語を同時に、不十分に暗示している。
Ⅰ 〈PはSに向かって「先生」と呼びかけていた〉
Ⅱ 〈PはSのことを誰かに語るとき、「先生」という呼称を用いていた〉
「呼んでいた」には、〈今は「呼んで」いない〉という含意がある。P文書の語りの時点でSは物故者だから「いた」でよさそうだが、この含意はⅠでしか活きない。
<動作動詞でも、打消や「ている」「受身」などの付いた形は状態性を帯びて、回想意識が生まれる。
「あなたはうちわをかざして高いところに立っていた」(夏目漱石『三四郎』)
(森田良行『基礎日本語辞典』「た」)>
本文の「呼んでいた」は「回想意識」の表現なのかもしれない。その場合、Pは、Ⅰだけでなく、Ⅱをも回想していることになる。奇妙だ。
『三四郎』の「立っていた」は尻すぼみだ。つまり、「立っていた」は〈「立っていた」ことを私は覚えています〉などと補足したくなる。『こころ』の「呼んでいた」の場合、そうした印象はないのだが、語り手Pは中断しているのかもしれない。「先生と呼んでいた」は〈「先生と呼んでいた」ことを思い出す〉などと補足すべきなのかもしれない。
この場合、ⅠとⅡが混交しそうだ。「いた」という言葉には、〈呼びかけて「いた」〉と〈呼称を用いて「いた」〉という二つの物語を混ぜ合わせるような作用があるのかもしれない。そして、こうした朦朧とした印象を感得できる人は、書き出しの一文を読んだだけで陶然となるのかもしれない。語り手Pの混迷が聞き手Qを越えて読者に伝染するわけだ。
(2110終)