ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 2340

2021-03-26 14:19:52 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2340 被愛願望

2341 女性崇拝

 

〈西洋人は恋愛を賛美し、東洋人は恋愛を忌避する〉といった総括は眉唾物だ。

 

<〈修練〉を意味するギリシア語アスケシスに由来する英語ascesis,asceticismなどの訳。救済あるいは聖なる体験の獲得のために、世俗的・肉体的欲望を制御すること。断食と性的隔離が代表例。

(『百科事典マイペイディア』「禁欲」)>

 

『古事記』によれば、神々はみとのまぐわいによって国を産んだ。元来、日本人は性愛を罪悪視してはいない。むしろ、信仰している。

 

<真実の知恵(般若)の極致(理趣)は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定できる立場(一切法自性清浄)である。この苦楽を超越した絶対境(大楽)が悟りであると説く。日本の真言宗では最も重要な経典。

(『百科事典マイペディア』「理趣経」)>

 

ただし、真言立川流は「さかんに女犯(にょぼん)の是認を説いていた」(『日本歴史大事典』「真言立川流」)ので江戸時代に弾圧された。

 

<エジプト、ギリシアなどの古代文明国にも行われていた。日本でも日光金精峠の金精大明神、静岡県掛川市の孕石をはじめ、道祖神像など陰陽道と結びついて広くみられる。また田植え祭や豊年祭に男根像を用いることも多い。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「生殖器崇拝」)>

 

日本人はスケベだ。性欲を罪悪視する日本人は変だ。Kは変だ。Nも変だ。

 

<西洋において女性崇拝が始まるのは十二世紀以降である。東方遠征に赴いた騎士が宝石や絹織物や香料などを持ち帰ったことによって、女性をかこむ環境や衣裳だけではなく、女性の社会的条件も必然的に変わった。愛の情熱を歌った北仏のトルヴェールや南仏のトルヴァドゥール〔それぞれ宮廷風の抒情(じょじょう)詩を作った詩人を指す〕、それに十字軍兵士や巡礼者が恋愛の対象となる新しい理想像を作り上げる。詩人や彩色画家や彫刻家によって「クルトワジー」〔女性への献身を旨とする雅(みや)びな騎士道精神の一形態〕という愛の神話が確立したのである。こうした「気高い心」の追求はそこかしこで力をふるい、野蛮で粗野な状態をしだいに駆逐するようになった。

(ロミ『乳房の神話学』)>

 

洋の東西を問わず、性愛を重んじたり軽んじたりする思想はあったようだ。それらは時代の流れによって交代したり、あるいは併存したりしていたらしい。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2340 被愛願望

2342 『罪と罰』

 

「罪悪」のS的意味は〈恥〉だろう。

 

<軟派の連中は女に好かれようとする。

(森鴎外『ヰタ・セクスアリス』)>

 

女好きは男の恥だが、被愛願望は恥を超えた「罪悪」なのかもしれない。

 

<罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走(そう)馬(ま)燈(とう)がくるくると廻っていた時に、

「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」

(太宰治『人間失格』「第三の手記」二)>

 

「罪と罰」はドストエフスキーの作品名。「アント」は「対義語(アントニム)」(『人間失格』)の略。主人公は「罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど」(『人間失格』)と呟く。意味不明。『反対語対照語辞典』では〈罪〉に対して〈罰〉が出ている。だが、〈功罪〉というから〈罪〉の反対は〈功〉だ。〈賞罰〉というから〈罰〉の反対は〈賞〉だ。

 

<果して、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。

(太宰治『人間失格』「第三の手記」二)>

 

妻の不貞を知ったときの葉蔵の自問。自答は「くるくる」だ。「信頼心」の真意は〈被愛妄想〉だろう。しかし、妻こそ、被愛願望を抱く夫に飽き足らず、他の男を迎え入れたのかもしれない。そこらの仕分けができないから「くるくる」が起きたわけだ。

Sが〈「恋は罪悪」の「源泉なり」〉と語ったのなら、まだ、わかる。

ところで、ドストエフスキーに対する日本人の「信頼心」は疑わしい。

 

<形而下的な苦しみや屈辱が道徳的人物を向上せしめるという考えを(ママ)ドストエフスキーが情熱的に固執したことは、個人的な悲劇にその源があるのかもしれない。シベリアの刑務所生活によって、ドストエフスキーの内部の自由を愛する人間、反逆者、個人主義者がある種の損害を蒙ったこと、少なくとも自然なのびやかさを傷つけられたということを、彼自身感じていたのではなかろうか。だが、自分は「ましな人間」になって帰って来たのだという考えに、ドストエフスキーはあくまで執着したのだった。

(ウラジミール・ナボコフ『ロシア文学講義』)>

 

『罪と罰』は奇怪な小説だ。奇怪な事件を描いた小説ではない。作者が変なのだ。

『罪と罰』を種にした『心理試験』(江戸川乱歩)では、奇怪な事件が描かれる。その際、ラスコーリニコフ式の臍茶の書生論は意図的に排除されている。正しい。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2340 被愛願望

2343 被愛妄想的気分

 

私は、被愛願望を揶揄しているのではない。願望の意図的な隠蔽を批判している。

 

<いっそ真実の狂人になって世界中の女が悉く僕にその全部の愛を濺いで生きているのだというような妄想を持ち得たら、自分はどれ程幸福になることが出来るだろう。――こんな空想をするだけでも、自分はなんとなく自分が少々それに接近しかけているのではないかとも考えられるのである。

それさえ出来たら、自分はどうやら世界中の人類を悉く愛し得られるように思う。

(辻潤『浮浪漫語』)>

 

日本男児が被愛願望を自覚すれば、自分で自分を「狂人」扱いしてしまうほどなのだ。

 

<愛は與へる本能ではない。愛は掠奪する烈しい力だ。

(有島武郎『惜しみなく愛は奪ふ』)>

 

有島は、被愛願望を隠蔽したまま美化しようとした。

 

<孤高の文学といふ。然し、真実の孤高の文学ほど万人を愛し万人の愛を求め愛に飢ゑてゐるものはないのだ。

(坂口安吾『大阪の反逆』)>

 

こんな混乱した言説に接して、「孤独な人間」は感涙に咽ぶのかもしれない。

 

Ⅰ (通説)孤高の人は他人を愛さない。

Ⅱ (逆説)孤高の人は他人を愛する。

Ⅲ (伝説)孤高の人は他人に愛される。

Ⅳ (邪説)孤高の人は他人に愛されたがる。

 

『白痴』(坂口安吾)は、ある男が一時的な被愛妄想から醒める話。

被愛願望が募って被愛妄想を抱くようになるのだろう。

 

<この妄想を抱く者の大半は女性で、対象となるのは人気者、有名人、政治家などである。比較的長期にわたるあこがれと希望の時期から、失望と苦痛の時期を経て、憎しみと絶望の最後の時に入るが、この時期はしばしば周囲の人々や対象に対する実際の行動が見られるので、医学的・法的に最も危険である。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「被愛妄想」)>

 

『ぽるとがるぶみ』(不詳)参照。

(2340終)