ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 2330

2021-03-25 17:12:03 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2330 「恋」

2331 「たとい慾を離れた恋そのものでも」

 

〈「恋は」Kを自殺に追い込んだから「罪悪ですよ」〉といった解釈をする人がいそうだ。しかし、そんな解釈が成り立つのなら、〈貧困は窃盗の原因になるから貧困は「罪悪ですよ」〉ということになる。原因と結果が逆だ。ただし、逆でもいいのかもしれない。

 

<Kは真宗寺に生れた男でした。然し彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女(なんにょ)に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十一)>

 

「傾向」は「思想的に特定の方向」(『明鏡国語辞典』「傾向」)といった意味らしい。

「男女の関係した点」は「肉食妻帯」(『マイぺディア』「浄土真宗」)か。

 

<道のためには凡てを犠牲にすべきものだと云(ママ)うのが彼の第一信条なのですから、摂(せつ)慾(よく)や禁慾は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害(さまたげ)になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃から御嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼は何時でも気の毒そうな顔をしました。其所には同情よりも侮蔑(ぶべつ)の方が余計に現(ママ)われていました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十一)>

 

「道」の中身は空っぽ。この「恋」は性行為を伴うか。「恋そのもの」でも快感は伴うはず。Kの「主張」はありふれている。なお、Kが「第一信条」を実践していた証拠はない。

 Sに、K以外の人から同種の「主張を聞かされた」という体験はないのか。

「御嬢さんを思って」は怪しい。誰かを「思って」いなければ「反対し」なくてもいいのか。「勢い」は不可解。「彼に」は〈「彼」の「主張」「に」〉の略。「反対しなければならなかった」は〈「反対し」ないではいられ「なかった」〉などが適当。語り手Sは、語られるSの欲求を義務として表現しているわけだ。『こころ』に何度も出てくる混乱。

語り手Sは、〈「彼に反対」したいのに賛成「しなければならなかった」〉という真相を隠蔽しようとして失敗しているらしい。つまり、〈反対したいという欲求〉と〈賛成しなければならないという義務〉の混交だろう。作者は混乱している。

どんなふうに「反対する」のか。このときの青年Sの発言は不明だから、Kの反応の適否は判断できない。「気の毒」は意味不明。「他人の苦痛・難儀についてともに心配すること」(『広辞苑』「気の毒」)のようだが、Kは〈Sは異性に関して「苦痛・難儀」を感じている〉と思ったのか。〈僕に軽蔑される君は「気の毒」〉の略か。だったら、くだらない。

「やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子『みだれ髪』)と歌った人は、男心がわかっていない。男は淋しいから道を説くのだ。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2330 「恋」

2332 『ロミオとジュリエット』

 

『こころ』の読者はシェイクスピアを忘れていなければならないのか。

 

<ロミオ だが、くちびるは聖者にもあり、巡礼にもありましょう。

ジュリエット でもね、巡礼様、それはお祈りに使おうためのくちびるですわ。

ロミオ おお、ではわたしの聖女様、手にお許しになることなら、くちびるにもお許し下さいませんか? 願わくは許したまえ、信仰の、絶望に変わらざらんがために、――わたしのくちびるの祈りです、これが。

ジュリエット いいえ、聖者の心は動きませんわ、たとえ祈りにはほだされても。

ロミオ では、動かないで下さい、祈りの効(しる)しだけをいただく間。(接吻する)さあ、これでわたしのくちびるの罪はきよめられました、あなたのくちびるのおかげで。

ジュリエット では、その拭われた罪とやらは、わたしのくちびるが背負うわけね。

ロミオ わたしのくちびるからの罪? ああ、なんというやさしいおとがめだ、それは! もう一度その罪をお返しください。(ふたたび接吻する)

(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』)>

 

〈「恋」と「本当の愛」(下十四)は違う〉ということにしてみてはどうか。

 

<恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私の感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合せている際(きわ)どいものだ。恋人同志(ママ)は互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強うるものさえある。それを皆愛の名によってするのだ。愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命をしあわせにするとは限らない。

(倉田百三『出家とその弟子』)>

 

『こころ』では、こうした仕分けがされていない。作者は混乱している。

Sは静を幸せにしようとしているのか。不幸せにしたくはなかろう。だが、彼は自分の本心を彼女に打ち明けていない。彼はとんでもない勘違いをしているのかもしれない。

 

<浮気は許される。それは伊達者の生活のあらゆる制約と両立しうる。恋愛はそうではない。それは情熱のうちで最も非社交的で、最も反社会的で、最も野蛮で残忍なものである。それゆえ、世間はこれを艶事や身持ちのおさまらぬことよりも厳しく批判する。

(アナトール・フランス『赤い百合』)>

 

いくら考えても、私には「恋は罪悪」のS的意味がわからない。勿論、Pがわからない理由もわからない。語り手Pの意図が不明であるばかりか、作者の意図も不明だ。「恋」の真意を、Nが隠蔽しているのだろう。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2330 「恋」

2333 『男組』

 

明治から昭和のバブル期の前まで、男が女を愛するのは罪だった。

『宮本武蔵』(吉川英治)の武蔵は、お通から逃げ続ける。武者修行の邪魔になるからというのが表向きの理由だろうが、彼女が武蔵の友人である又八の許嫁だったせいなのが大きいのだろう。又八との友愛をお通との恋よりも重視したわけだ。

『次郎長三国志』(マキノ雅弘監督)シリーズでは、次郎長がお蝶との馴初めを語ると、子分たちが笑いながら親分を殴る。その後、お蝶は死んでしまう。まるで次郎長がのろけたせいで天罰が下ったみたいだ。また、森の石松が恋をすると、無敵だった彼があっさりと殺されてしまう。この出来事も天罰のようだ。男が恋をすると腑抜けになる。

『東京流れ者』(鈴木清順)では、「女と一緒じゃ歩けないんだ」という男の台詞に、観客の男たちは悲鳴のような歓声を上げ、拍手を送ったものだ。フラレタリア同盟。

『第三の男』(リード監督)のパクリである『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳次郎監督)では、あの有名なラスト・シーンとは正反対に、待っている女を男が無視する。ちなみに、小説の『第三の男』(グリーン)では、男女は仲良くなる。わかりやすい。

『赤いハンカチ』(桝田利雄監督)でも、恋愛より友愛が尊ばれる。主人公は親友の墓前で親友の妻を残して去る。死んだ親友に縛られるのだ。

『カサブランカ』(カーティス監督)のパクリである『夜霧よ今夜もありがとう』(江崎実生監督)でも、友愛が尊重される。原典では、主人公は元カノのために彼女とその夫の亡命を助ける。だが、パクリでは友人になった夫を助けるために主人公は彼女を捨てる。

園まりのそっくりさんと園まり本人の二役を演じた園まりの演技が光る『逢いたくて逢いたくて』(江崎実生監督)は『ローマの休日』(ワイラー監督)のパクリだが、記者が女から去るだけでなく、恋愛すらしない。彼には婚約者がいたことになっている。原典のラスト・シーンでは主人公が独歩する。王女が追いかけてくるのではないか。いや、そんなことはないよな。未練がましい印象が素敵なのに、日本の映画人はそれを嫌悪したらしい。

森繁久弥の社長シリーズの主人公は、恐妻家のくせに女好きで、見栄っ張りのおっちょこちょいだ。ただし、仕事はできる。植木等の無責任男シリーズの主人公も女好きで軽薄だが、彼もビジネスで成功する。男の異性愛者は有能でも笑いものにされた。ちなみに、エッチとスケベは違う。あだち充『みゆき』の「エッチとスケベ」を参照。

『男組』(雁屋哲+池上遼一)で、紅一点のヒロインが振袖に着替える、そのちょっと前、流全次郎は失明し、彼女が普段着に戻ると視力を回復する。しかも心身ともに強くなっている。失明は禁欲の象徴。あるいは、エディプス・コンプレックスの象徴。ちなみに、彼女は流の宿敵である神竜の許嫁だが、未来の夫を諫めるために流と共闘していた。〈王子は悪魔から王女を救う〉という物語ではない。

大正のベストセラー『地上』(島田清次郎)では、稚児にされかけた少年を主人公が救い、少年の知人の少女と恋愛をするようになる。面白くないので、私は最初の部分しか読んでいない。後に、島田は「婦女暴行事件を起こして失墜。翌年〈早発性痴呆〉という診断で精神病院に入院し、そこで没した」(『マイペディア』「島田清次郎」)という。そんな元気すぎる男にしか恋愛小説は書けなかったようだ。

(2330終)


夏目漱石を読むという虚栄 2320

2021-03-25 16:52:23 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄   

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2320 「先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)として」

2321 「冷評(ひやかし)」

 

日本で恋愛結婚が普通になったのは、昭和四十年代からではないか。それまで、明治維新以降の日本の常識では、「恋は罪悪」だったはずだ。

 

<或(ある)時花時分に私は先生と一所に上野へ行った。そうして其所で美く(ママ)しい一対の男女(なんにょ)を見た。彼等は睦(むつ)まじそうに寄添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりも其方(そっち)を向いて眼を峙(そば)だてている人が沢山あった。

「新婚の夫婦のようだね」と先生が云った。

「仲が好(よ)さそうですね」と私が答えた。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十二)>

 

「或(ある)時」は〈或年〉や〈或日〉などが適当。

「そうして」だと、「男女(なんにょ)」を見物しに行ったみたいだ。そうかもしれない。

「場所が場所なので」は意味不明。「寄添って」いたのがまずかった。「夫婦なら夫のあとに妻が少し離れてついていくのが普通」(清水勲編『ビゴー日本素描集』「芸者の一日」)とされていた。女が玄人のようなら、見て見ぬふりをされたろう。〈「花」「を向いて眼を峙(そば)だてている人が」少しは「あった」〉のかな。羨望と嫌悪の混交の露呈。

「新婚」という言葉には〈大目に見てやれ〉という含意があるのだろう。

 

<「君は今あの男と女を見て、冷評(ひやか)しましたね。あの冷評(ひやかし)のうちには君が恋を求めながら相手を得られないという不快の声が交(まじ)っていましょう」

「そんな風に聞こえましたか」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十二)>

 

「仲が好さそうですね」というPの言葉を、Sは「冷評(ひやかし)」と取ったらしい。その理由は不明。あるいは、「冷評(ひやかし)」が意味不明。

「恋を求め」は意味不明。〈求愛〉という言葉はあるが、〈求恋〉という言葉はなかろう。〈「相手」を得る〉は意味不明。〈Pは「相手」に片思いをしている〉と解釈すべきか。あるいは、〈Pは片思いの「相手」さえ見つけていない〉と解釈すべきか。「不快」は意味不明。〈不満〉の類語か。「不快の声」は変。〈不快感〉が「声」として聞こえたらしい。幻聴だろうか。〈不快そうな響き〉のつもりか。

「不快」は、羨望に基づく嫉妬が原因だろう。しかし、若いカップルを見て青年が羨ましがるのは普通だろうから、Sがわざわざ指摘するのはおかしい。しかも、Pは否定的な返事をしているから、なおさらおかしい。P自身、カップルを羨んだつもりはなかったのだろうか。あるいは、本音が露呈して恥じ、慌てて嘘をついたか。

「聞こえましたか」は笑える。耳鼻科へ行けってか? 近頃、〈~と言っているように聞こえますよ〉という言い方がちょっとだけはやっているようだ。あるとき、〈ええ、そう言ってるんですよ〉と返事された人が目を白黒させていた。いい気味だ。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2320 「先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)として」

2322 「恋の満足」

 

SとPの会話に、私はついていけない。

 

<「そんな風に聞こえましたか」

「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖(ママ)かい声を出すものです。然し……然し君、恋は罪悪ですよ。解(わか)っていますか」

私は急に驚ろ(ママ)かされた。何とも返事をしなかった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十二)>

 

「恋の満足」は意味不明。これは〈「恋」をされていると感じるとき「の満足」〉の不当な略だろう。「もっと」だから、Pの声は少しばかり「暖かい声」だったことになる。

「然し」は話題の転換か。

「解(わか)っていますか」は〈知ってはいても本当に「解(わか)っていますか」〉の略か。

「急に驚ろかされた」は変。ゆっくりと「驚ろかされ」ることがあるのか。受身の「され」は変。Sに驚かす意図があったのか、なかったのか。Pの驚く理由が不明。Pは〈「恋は罪悪」じゃない〉と思っていたのか。では、何と思っていたのか。不明。

「返事をしなかった」という、その理由は不明。

 

<「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。

「罪悪です。たしかに」と答えた時先生の語気は前と同じように強かった。

「何故ですか」

「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔に既に恋で動いているじゃありませんか」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十三)>

 

「その時」がどの「時」か不明。「突然」というのは、会話が途切れていたからだ。

Sにとって、Pの質問は「突然」ではなかった。「たしかに」の被修飾語がない。 

「何故ですか」は、〈「何故」「恋は罪悪」なの「ですか」〉の略か。あるいは、〈「恋は罪悪」だと「何故」「たしかに」言えるの「ですか」〉の略か。不明。

「今に解ります」がPにとってまっとうな答えになっているとすれば、「何故ですか」は〈「何故」「恋は罪悪」なの「ですか」〉の略だったわけだ。その場合、Pは「たしかに」を無視したことになる。また、Sの「語気」さえ無視したことになる。

「今」は、Pに到来したのだろうか。つまり、Pは、「何故」の答えを自分で見つけたのか。見つけたのなら、それはどんな答えになるのだろう。不明。

語り手Pは「もう解っている」ことになるのか。そうだとしたら、なぜか。「遺書」を読んだからか。そうだとしても、私にはわからない。「花やかなロマンス」も「美くしい恋愛」も、「遺書」で語られていないからだ。物語のない「恋」の「罪悪」など、あるはずがない。

「恋で動いて」は意味不明。「じゃありませんか」と言ったのは、チャーリー浜ではない。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2320 「先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)として」

2323 「黒い長い髪で縛られた時の心持」

 

「恋で動いているじゃありませんか」というSの決めつけを、Pは否定する。Sは一歩退いてみせる。

 

<「然し気を付けないと不可(いけ)ない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」

私は想像で知っていた。然し事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧(もうろう)としてよく解らなかった。その上私は少し不愉快になった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十三)>

 

「然し」は〈ところで〉か。何に「気を付け」るのだろう。また、どうやって? 

「私の所」は〈S夫妻の家〉か。この場合、「恋」は宿親に対する宿子の思慕のように考えられる。「満足」は〈人恋しさを満たすこと〉だろうか。真相は、〈宿親でしかないS夫妻にPの被愛願望を満たしてやることはできない〉といったものだろう。親の溺愛は子にとって「危険」でないらしい。「――」の内容を満たすことは、私にはできない。この記号は不図系だろう。「危険」とは〈「黒い長い髪で縛られる」こと〉らしいが、不可解。縛られるのは、〈苦痛〉ではあっても、「危険」ではなかろう。脱出できないと「危険」かもしれない。だったら、話題は〈脱出できない「危険」〉でなければならない。「女の髪の毛には大象も繋がる」という言葉があるが、この場合、罪を犯すのは女だ。

少女静はSを性的に束縛したのだろうか。「遺書」にそんな話はない。少女静が「無邪気に遣る」(下三十四)ことを、青年Sが性的束縛と誤解したのだろうか。「縛られた時」は、〈「縛られた」ような気分になっている「時」〉などの不当な略だろう。だが、Sの空想する静が異性を拘束した理由や手段などは不明。被愛妄想的気分と被害妄想的気分は表裏一体の関係にある。彼は、この二種の背反する気分を仕分けすることができない。好きな人に好かれたいのではなくて、苛められそうな人に好かれたがるからだ。汝の敵に愛されよ。

Pの「想像」の具体例は不明。「想像で知って」は意味不明。

「想像」と「事実」の対比は無意味。〈想像×現実・「真実」(下十五)〉だろう。また、〈事実×虚偽・虚構・「理窟(りくつ)」(上二十九)〉だろう。Pは日本語がお下手。

「いずれにしても」は、「想像で知って」いるだけでなく、「事実として」も「知って」いるときにしか使えない。「想像」の中身は不明。Pにわからないのは、〈Sの用いた「罪悪」という語の「意味」〉ではなく、〈Sが語った「恋は罪悪」という文の「意味」〉だろう。〈Sの用いる「恋」の「意味」〉からわかっていなかった。そのことは、すぐに知れる。「それは恋とは違います」(上十三)と、PはSに抗弁している。ただし、語り手Pは「恋」のP的意味について聞き手Qに語らない。作者は怪しい。

S的意味の「罪悪」という言葉の「意味」は、『こころ』の読者にとっても「朦朧として」いなければならない。そうでなければ、Pは漫才のボケであり、Sはその相方で、〈『こころ』は漫才〉ということになる。なってもいいけど。

「少し」の含意は〈何となく〉などか。「不愉快」の原因は不明。

(2320終)

 

 


夏目漱石を読むという虚栄 2310

2021-03-25 16:52:23 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2310 姦通罪

2311 『厭世詩家と女性』

 

NHKの『こころ』の輪読会で、平成の若い女性が〈「恋は罪悪」って凄いですよね〉みたいなことを言っていた。カマトトか? わからん。

角川文庫の『こころ』の帯紙に「しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」という二文が引用されていた。出版社は〈この二文に客寄せ効果がある〉と思ったのだろう。そして、実際に効果はあるのだろう。なぜ? 私にはわからない。

明治には、「恋は罪悪」ではなかったのか。そんなはずはない。

昭和の戦後でも、「恋しちゃならない受験生」(中川五郎作詞・高石智也作曲『受験生ブルース』)と歌われていた。平成でさえ、AKB48のメンバーが恋をして謝罪のために丸坊主になったよね。令和でも、不純かどうか知らないが、男女交際を理由に退学になった高校生がいるそうだ。

 

<凡(およ)そ吾々東洋人の心底に蟠(わだか)ま(ママ)る根本思想を剔抉(てっけつ)してこれを暴露(ばくろ)するとせよ。教育なき者はいざ知らず、前代の訓育の潮流に接せざる現下の少年はいざ知らず、尋常の世の人心には恋に遠慮なく耽(ふけ)ることの快なるを感ずると共に、この快感は一種の罪なりとの観念附随し来ることは免れ難き現象なるべし。吾人は恋愛を重大視すると同時にこれを常に踏みつけんとす、踏みつけ得ざれば己れの受けたる教育に対し面目なしといふ感あり。意馬(いば)心猿(しんえん)の欲するままに従へば、必ず罪悪の感随伴(ずいはん)し来るべし。これ誠に東西両洋思想の一大相違といふて可なり。西洋人は恋を神聖と見立て、これに耽るを得意とする傾向を有すること前諸例によりても明かなるべく、また如(かくの)此(ごと)く重きを置かれたるこの情緒を囲(い)纏(てん)せる文学の多きも勢(いきおい)免るべからざるなり。

(夏目漱石『文学論』「第一編 第二章 文学的内容の基本成分」)>

 

SはPに「恋は最悪ですよ」と告げた。Pは戸惑ったらしい。なぜだろう。Pは、「前代の訓育の潮流に接せざる現下の少年」で、「尋常の世の人の心」を持たなかったのか。

「一種の罪悪」は意味不明。Nは、こういう「一種の」の使い方をよくする。誤用。

「東西両思想の一大相違」は誇張。

「恋を神聖と見立て」に留意。

 

<思想と恋愛とは仇讐なるか、安(いずく)んぞ知らむ、恋愛は思想を高潔ならしむる嬭(じ)母(ぼ)なるを。

(北村透谷『厭世詩家と女性』)>

 

「恋は罪悪」といった類の常識を北村が批判しているわけだ。

 

<恨みわび ほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ

(『後拾遺和歌集』14・恋・4・815・相模)>

 

浮名が立つことは、罪ではなかったか。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2310 姦通罪

2312 不義はご法度

 

青年Pにとって「罪悪という意味は朦朧(もうろう)として」いた。なぜだろう。

 

Ⅰ Pは「恋は罪悪」という考えを知らなかったので、Sの質問に驚いた。

Ⅱ Pは「恋は罪悪」という考えを知っていたが、それは古臭い考えのように思っていたのに、開明的なはずのSがそんな古い考えを信じているような発言をしたので驚いた。

 

どっちが正しい解釈だろう。私にこの問題は解けない。他に選択肢はあるのか。

 

<それまでの日本には「恋」という言葉しかなく、それは性交をともなうものであったが、「恋愛」はプラトニック・ラブを意味した。夫婦一心同体であるような緊密な一夫一婦制もまた、新しいトレンドとして広まっていった。江戸時代までの日本では性は豊饒であり、豊かさであり、祭であり、聖なるものであったが、これ以降、性は邪悪なものとして位置づけられる。同時に、遊女や芸者や妾などの玄人(くろうと)の女性たちは蔑視されるようになった。江戸時代までは普通の女性も恋に積極的であったが、明治以降、女性は性にはまるで興味がないかのようにふるまうことが要求された。

(田中優子『張形と江戸女』)>

 

「それ」は「明治維新」(『張方と江戸女』)だ。「恋愛」という語は「明治三十五年頃から辞典に登録されはじめ、loveの訳語として定着していったことが明らか」(飛田良文『明治生まれの日本語』)という。「聖なるもの」に留意。「邪悪」とSの言う「罪悪」は似ているか。

 

<一般には肉体的感覚的欲望に優越する精神的愛をいい、文字通りプラトンの愛(エロス)に由来する。なおプラトンのエロスは、性愛的段階での対象との合一を超克して、超越的価値との出会いを目的とする。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「プラトニック・ラブ」)>

 

SもPも、また、『こころ』の作者も、「江戸時代までの日本」の習俗を踏まえている様子はない。作者が「恋」についてどんなことをほのめかしたつもりなのか、私にはわからない。

 

<江戸の人々が真摯(しんし)に生きて、麗(うるわ)しく咲かせた「文化」という名の花は、明治の世が進んでいくにしたがって、目に見えて萎(しぼ)んでいった。新たな価値観や文化を創出できたなら、それはそれで結構な話だろう。しかし実状は、まったく、そうではなかった。明治政府は、江戸のすべてを否定したが、異なる新しい文化の花を咲かせられなかった。それでも、社会の紐帯(ちゅうたい)を維持できていたのは、「江戸時代の遺産」があったからに違いない。

(森田健司『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』)>

 

「明治維新という幻想」は〈「明治維新」は日本近代の始まり「という幻想」〉などの略。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2300 「恋は罪悪ですよ」

2310 姦通罪

2313 『みだれ髪』

 

明治において、「恋は罪悪」という考えは、皮肉な意味で新鮮だったのかもしれない。

 

<歌にきけな誰れ野の花に紅(あか)き否(いな)むおもむきあるかな春(はる)罪(つみ)もつ子

(与謝野晶子『みだれ髪』)>

 

あえて「罪(つみ)もつ子」と呼ばれてやろう。そんな感じだ。誇らしげ。

 

<1947年の刑法一部改正以前は183条によって、有夫の婦女が夫以外の男性と性的に関係をもったとき、夫の告訴をまって本罪で処罰された。しかし、有婦の男性は有夫の婦女と性的関係をもったときのみ相姦者として処罰されることになっていたため、憲法14条の法のもとの平等に違反するのではないかが問題とされ、夫の姦通をも処罰するか、両方とも処罰しないか議論が分れ、結局削除された。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「姦通罪」)>

 

与謝野晶子は、北村透谷とは正反対の戦術を採用したようだ。

 

<むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子

(与謝野晶子『みだれ髪』)>

 

「君」は与謝野鉄幹、「我」は未婚の鳳明子。だから、二人とも法的な「罪」は犯していない。柳原白蓮の場合とは違う。『花子とアン』(NHK)参照。

 

<1870年(明治3)の新律綱領は妻妾二等親を復活し妾にも妻と同様の貞操義務を課した。また、妾は妻と同様夫の戸籍に登記され、妾の産んだ子は妻の子と同様公生(ママ)の子とされた。また父の妻と庶子との間には嫡母庶子関係という親子と同一の関係が発生するものとされた。新律綱領にかわって制定された旧刑法(1880年公布)は親属に妾を含まず、ここに法の明文からは妾という文言が消滅し、1898年の明治民法は嫡母庶子関係を残し、家督相続の順位において嫡出女子よりも庶男子を先にしたことは事実上妾の存在を認めたものであった。

(『日本歴史大事典』「めかけ」白石玲子)>

 

〈「罪の子」or妾〉という二者択一を拵え、「罪の子」を選べば、男女平等か。

 

<ああ皐月(さつき)仏(フ)蘭(ラン)西(ス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟

(与謝野晶子『夏より秋へ』)>

 

「罪の子」が成長して「雛罌粟」の花になったらしい。

 

(2310終)