夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2330 「恋」
2331 「たとい慾を離れた恋そのものでも」
〈「恋は」Kを自殺に追い込んだから「罪悪ですよ」〉といった解釈をする人がいそうだ。しかし、そんな解釈が成り立つのなら、〈貧困は窃盗の原因になるから貧困は「罪悪ですよ」〉ということになる。原因と結果が逆だ。ただし、逆でもいいのかもしれない。
<Kは真宗寺に生れた男でした。然し彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんな事をいう資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女(なんにょ)に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十一)>
「傾向」は「思想的に特定の方向」(『明鏡国語辞典』「傾向」)といった意味らしい。
「男女の関係した点」は「肉食妻帯」(『マイぺディア』「浄土真宗」)か。
<道のためには凡てを犠牲にすべきものだと云(ママ)うのが彼の第一信条なのですから、摂(せつ)慾(よく)や禁慾は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害(さまたげ)になるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃から御嬢さんを思っていた私は、勢いどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼は何時でも気の毒そうな顔をしました。其所には同情よりも侮蔑(ぶべつ)の方が余計に現(ママ)われていました。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十一)>
「道」の中身は空っぽ。この「恋」は性行為を伴うか。「恋そのもの」でも快感は伴うはず。Kの「主張」はありふれている。なお、Kが「第一信条」を実践していた証拠はない。
Sに、K以外の人から同種の「主張を聞かされた」という体験はないのか。
「御嬢さんを思って」は怪しい。誰かを「思って」いなければ「反対し」なくてもいいのか。「勢い」は不可解。「彼に」は〈「彼」の「主張」「に」〉の略。「反対しなければならなかった」は〈「反対し」ないではいられ「なかった」〉などが適当。語り手Sは、語られるSの欲求を義務として表現しているわけだ。『こころ』に何度も出てくる混乱。
語り手Sは、〈「彼に反対」したいのに賛成「しなければならなかった」〉という真相を隠蔽しようとして失敗しているらしい。つまり、〈反対したいという欲求〉と〈賛成しなければならないという義務〉の混交だろう。作者は混乱している。
どんなふうに「反対する」のか。このときの青年Sの発言は不明だから、Kの反応の適否は判断できない。「気の毒」は意味不明。「他人の苦痛・難儀についてともに心配すること」(『広辞苑』「気の毒」)のようだが、Kは〈Sは異性に関して「苦痛・難儀」を感じている〉と思ったのか。〈僕に軽蔑される君は「気の毒」〉の略か。だったら、くだらない。
「やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子『みだれ髪』)と歌った人は、男心がわかっていない。男は淋しいから道を説くのだ。
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2330 「恋」
2332 『ロミオとジュリエット』
『こころ』の読者はシェイクスピアを忘れていなければならないのか。
<ロミオ だが、くちびるは聖者にもあり、巡礼にもありましょう。
ジュリエット でもね、巡礼様、それはお祈りに使おうためのくちびるですわ。
ロミオ おお、ではわたしの聖女様、手にお許しになることなら、くちびるにもお許し下さいませんか? 願わくは許したまえ、信仰の、絶望に変わらざらんがために、――わたしのくちびるの祈りです、これが。
ジュリエット いいえ、聖者の心は動きませんわ、たとえ祈りにはほだされても。
ロミオ では、動かないで下さい、祈りの効(しる)しだけをいただく間。(接吻する)さあ、これでわたしのくちびるの罪はきよめられました、あなたのくちびるのおかげで。
ジュリエット では、その拭われた罪とやらは、わたしのくちびるが背負うわけね。
ロミオ わたしのくちびるからの罪? ああ、なんというやさしいおとがめだ、それは! もう一度その罪をお返しください。(ふたたび接吻する)
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』)>
〈「恋」と「本当の愛」(下十四)は違う〉ということにしてみてはどうか。
<恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私の感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合せている際(きわ)どいものだ。恋人同志(ママ)は互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強うるものさえある。それを皆愛の名によってするのだ。愛は相手の運命を興味とする。恋は相手の運命をしあわせにするとは限らない。
(倉田百三『出家とその弟子』)>
『こころ』では、こうした仕分けがされていない。作者は混乱している。
Sは静を幸せにしようとしているのか。不幸せにしたくはなかろう。だが、彼は自分の本心を彼女に打ち明けていない。彼はとんでもない勘違いをしているのかもしれない。
<浮気は許される。それは伊達者の生活のあらゆる制約と両立しうる。恋愛はそうではない。それは情熱のうちで最も非社交的で、最も反社会的で、最も野蛮で残忍なものである。それゆえ、世間はこれを艶事や身持ちのおさまらぬことよりも厳しく批判する。
(アナトール・フランス『赤い百合』)>
いくら考えても、私には「恋は罪悪」のS的意味がわからない。勿論、Pがわからない理由もわからない。語り手Pの意図が不明であるばかりか、作者の意図も不明だ。「恋」の真意を、Nが隠蔽しているのだろう。
2000 不純な「矛盾な人間」
2300 「恋は罪悪ですよ」
2330 「恋」
2333 『男組』
明治から昭和のバブル期の前まで、男が女を愛するのは罪だった。
『宮本武蔵』(吉川英治)の武蔵は、お通から逃げ続ける。武者修行の邪魔になるからというのが表向きの理由だろうが、彼女が武蔵の友人である又八の許嫁だったせいなのが大きいのだろう。又八との友愛をお通との恋よりも重視したわけだ。
『次郎長三国志』(マキノ雅弘監督)シリーズでは、次郎長がお蝶との馴初めを語ると、子分たちが笑いながら親分を殴る。その後、お蝶は死んでしまう。まるで次郎長がのろけたせいで天罰が下ったみたいだ。また、森の石松が恋をすると、無敵だった彼があっさりと殺されてしまう。この出来事も天罰のようだ。男が恋をすると腑抜けになる。
『東京流れ者』(鈴木清順)では、「女と一緒じゃ歩けないんだ」という男の台詞に、観客の男たちは悲鳴のような歓声を上げ、拍手を送ったものだ。フラレタリア同盟。
『第三の男』(リード監督)のパクリである『霧笛が俺を呼んでいる』(山崎徳次郎監督)では、あの有名なラスト・シーンとは正反対に、待っている女を男が無視する。ちなみに、小説の『第三の男』(グリーン)では、男女は仲良くなる。わかりやすい。
『赤いハンカチ』(桝田利雄監督)でも、恋愛より友愛が尊ばれる。主人公は親友の墓前で親友の妻を残して去る。死んだ親友に縛られるのだ。
『カサブランカ』(カーティス監督)のパクリである『夜霧よ今夜もありがとう』(江崎実生監督)でも、友愛が尊重される。原典では、主人公は元カノのために彼女とその夫の亡命を助ける。だが、パクリでは友人になった夫を助けるために主人公は彼女を捨てる。
園まりのそっくりさんと園まり本人の二役を演じた園まりの演技が光る『逢いたくて逢いたくて』(江崎実生監督)は『ローマの休日』(ワイラー監督)のパクリだが、記者が女から去るだけでなく、恋愛すらしない。彼には婚約者がいたことになっている。原典のラスト・シーンでは主人公が独歩する。王女が追いかけてくるのではないか。いや、そんなことはないよな。未練がましい印象が素敵なのに、日本の映画人はそれを嫌悪したらしい。
森繁久弥の社長シリーズの主人公は、恐妻家のくせに女好きで、見栄っ張りのおっちょこちょいだ。ただし、仕事はできる。植木等の無責任男シリーズの主人公も女好きで軽薄だが、彼もビジネスで成功する。男の異性愛者は有能でも笑いものにされた。ちなみに、エッチとスケベは違う。あだち充『みゆき』の「エッチとスケベ」を参照。
『男組』(雁屋哲+池上遼一)で、紅一点のヒロインが振袖に着替える、そのちょっと前、流全次郎は失明し、彼女が普段着に戻ると視力を回復する。しかも心身ともに強くなっている。失明は禁欲の象徴。あるいは、エディプス・コンプレックスの象徴。ちなみに、彼女は流の宿敵である神竜の許嫁だが、未来の夫を諫めるために流と共闘していた。〈王子は悪魔から王女を救う〉という物語ではない。
大正のベストセラー『地上』(島田清次郎)では、稚児にされかけた少年を主人公が救い、少年の知人の少女と恋愛をするようになる。面白くないので、私は最初の部分しか読んでいない。後に、島田は「婦女暴行事件を起こして失墜。翌年〈早発性痴呆〉という診断で精神病院に入院し、そこで没した」(『マイペディア』「島田清次郎」)という。そんな元気すぎる男にしか恋愛小説は書けなかったようだ。
(2330終)