夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5440 小生意気な女
5441 天探女と天邪鬼
「美禰子(みねこ)に愛されるという事実その物」に三四郎が固執するのは、彼が彼女を愛していないからだ。常識的には、愛する人に愛されたいものだ。しかし、三四郎は、美禰子を愛しているのではない。愛されたいだけだ。愛されないことを恐れている。彼女が「あの女」に似ているからだ。「あの女」はお光に似ていて、お光は「母」のお気に入りだ。ただし、「母」の目には、美禰子はお光に似ていないのかもしれない。
三四郎は美禰子とともに生きたいのか。生きたくない。むしろ殺したい。Sは静とともに生きたいのか。生きたくない。むしろ殺したい。この気分を作者は必死になって隠蔽している。だから、作品として竜頭蛇尾になってしまった。
三四郎は、小生意気な女を見かけると「母」を連想し、相手に近づきたくなる。「母」を愛しているからではない。「母」にいじめられた体験が蘇るからだ。彼は、恐ろしい女に向って、防衛のために近づく。被愛願望は被害妄想的気分の裏返しだ。相手は自分が愛されていないことを察し、嫌がる。相手が嫌がれば嫌がるほど、彼は防衛のために近づかなければならなくなる。近づきたいのではない。だが、その仕分けができない。作者にもできない。被害妄想的気分の裏返しとして被愛願望を表現することができない。
<こけこっこうと鶏(にわとり)がまた一声鳴いた。
女はあっと云って、緊(し)めた手綱を一度に緩(ゆる)めた。馬は諸膝(もろひざ)を折る。乗った人と共に真向(まとも)へ前へのめった。岩の下は深い淵(ふち)であった。
蹄の跡(あと)はいまだに岩の上に残っている。鶏(とり)の鳴く真似(まね)をしたものは天探女(あまのじゃく)である。この蹄の痕(あと)の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵(かたき)である。
(夏目漱石『夢十夜』「第五夜」)>
夜の開けるまでに「女」に会わないと、「自分」は殺されることになっている。「天探女(あまのじゃく)である」は憶断。
本来、天探女と天邪鬼は違う。〈あまのさぐめ〉は、「表面には表われていない意味を探り出すのに長じている女神」(『日本国語大辞典』「天探女」)だ。神道系の世界に住む。〈あまのじゃく〉は、「仁王や四天王の足下に踏みつけられている小悪鬼」(『日本国語大辞典』「天邪鬼」)で、仏教系の世界に住む。「自分」が住むのは、この二つのどちらの世界でもない。
<MIYUKI You are my angel
MIYUKI You are my devil
気まぐれは君の魅力の一つさ
(作詞:阿木燿子 作曲:鈴木キサブロー『100%の雨予報』)>
『夢十夜』の「あまのじゃく」は鬼女だろう。一方、「女」は「自分」の気分を察してくれる女神つまり「天探女」のようだ。「自分」は真相を知らないが、語り手は〈「女」は「敵(かたき)」〉という物語を露呈している。
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5440 小生意気な女
5442 女菩薩と女夜叉
「外面(げめん)如菩薩内心如夜叉」という。Nは、女夜叉の「人間の心」が女菩薩であることを願った。女菩薩は永遠の少年と遊んでくれる。だが、玄人ではない。
<御前は僕を北野の天神様へ連れて行くと云って其日断りなしに宇治へ遊びに行つてしまつたぢやないか。あゝいふ無責任な事をすると決していゝむくひは来ないものと思つて御出で。
(夏目漱石 磯田多佳宛て書簡 大正4年五月三日)>
Nは〈「僕を北野の天神様へ連れて行く」か〉と問い、磯田多佳は〈へえ、そら、よろしゅおすな〉とでも応じたのだろう。『漱石悶々』(NHKエンタープライズ)参照。
<手短か(ママ)にいふと、私があなたをそらとぼけてゐるといふのが事実でないとすると私は悪人になるのです。夫からもし夫が事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかへてあやまるのが人格の感化といふのです。然し今私はあなたが忘れたと云つてもさう思へないやつぱりごま化してゐるとしか考へられないのだから、あなたは私をまだ感化する程の徳を私に及ぼしてゐないし、私も亦あなたを感化する丈の力を持つてゐないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点に於て交渉のないのを大変残念に思ひます。是は黒人たる大友の女将の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人としても((の))御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です。女将の料簡で野暮だとか無粋だとか云へば夫迄ですが、私は折角つき合い出したあなたに対してさうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいゝ加減な挨拶をしてゐれば手数が省ける丈で自分の方は楽なのですが私はなぜかあなたに対してさうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでゐるとしか考へられないのです。それで是丈の事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい、又真面目に聞いて下さい。
(夏目漱石 磯田多佳宛て書簡 大正4年五月十六日)>
「そらとぼけてゐるといふのが事実でないとすると」Nは妄想家ということになる。
善悪が問題なのではない。「黒人(〔くろうと〕)」(同書簡)に対する好悪が問題なのだ。
夏目語の「悪人」は〈甘やかしてくれない人〉だろう。「悪人」を許せるのが「徳」だろう。なぜ、許せないのか。愛していないからだ。
「人格の感化」は意味不明。
「ごま化してゐるとしか考へられない」のを相手のせいにするのは、筋違い。
「親愛する人」は〈「親愛」してもらえると信じたから「親愛する人」〉の略。
「善良な好いもの」は買い被りだ。
5000 一も二もない『三四郎』
5400 「ストレイ シープ」
5440 小生意気な女
5443 「ポアンカレの説によると」
美禰子は心変わりをしたのだろうか。怪しい。
<「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時どう変るか分らない。そうしてその変るところを己(おれ)は見たのだ」
(夏目漱石『明暗』二)>
「同じ事」は〈「肉体」(『明暗』二)の「界」と「同じ事」〉の略。
「変る」のは心。「分らない」は「変る」という前提が正しいときにしか意味がない。
〈津田は自分に対する清子の恋心が「変るところ」を「見た」〉という物語はない。
彼の為(ため)に「偶然」の意味を説明して呉(くれ)たその友達は彼に向ってこう云った。
<「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、所謂(いわゆる)偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸(ちょっと)見当が付かない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或(ある)特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得(う)るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見(ママ)ると、殆(ほと)んど想像が付かないだろう」
(夏目漱石『明暗』二)>
「彼」は津田。作者は〈突然〉と「偶然」を混同しているらしい。
<その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だから凡(すべ)ての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。従って彼女の眼は動いても静(しずか)であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権を有(も)って生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
(夏目漱石『明暗』百八十八)>
「その時分」は、清子が結婚する前。彼女は津田を「一人の男」としてではなく、生き字引として「信じていた」のだろう。彼女が利用した男は複数いたろう。だが、津田を利用した女は清子だけだったのだろう。津田は受身。彼女を愛したことがあるのか?
「だから」は不適当。因果関係が逆だ。「すべての知識」は誇張が過ぎる。
「あらゆる疑問の解決」など、あり得ない。「疑問」の実例は示されない。したがって、「解決」の実例も示されていない。
「自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかける」は意味不明。
津田のことを恋人未満と思っていたから「彼女の眼は動いても静(しずか)であった」のだ。
「専有する特権」は津田の妄想の産物。「気がした」というだけのこと。
「とさえ思った」は、被愛妄想の露呈。
(5440終)