ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 5450

2021-11-17 14:22:11 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5451 井上メイサ

 

Nは幼児的な被愛願望を死ぬまで持ち続けた。普通の少年なら、〈女に好かれたい〉とは思わない。〈女を専有したい〉とさえ思わない。ひととき、女を人形のように弄って遊びたいだけだ。相手の気持ちを気遣うようになるのは、弄った女子に叱られてからだろう。

大学を出た頃、Nは、ある女性との結婚を望んだ。彼女が母性的に思えたかららしい。

 

<その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河(するが)台(だい)の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面(ほそおもて)の美しい女(ひと)で――そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました――そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていても本当に気持ちがよかったと後(あと)でも申していたくらいでした。いずれ大学を出て、当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。そんなことからあの女ならもらってもいいと、こう思いつめて独(ひと)りぎめをしていたものと見(ママ)えます。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「その寺」はNの下宿。「やんで」いたのはNだ。

「落ちあう」はNの言葉か。

「そういうふうの」は〈母性的な〉だろう。

「独(ひと)りぎめ」をしたのは、Nが被愛妄想を抱いたからだろう。

 

<ところがそのひとの母というのが芸者あがりの性悪(しょうわる)の見栄坊(みえぼう)で、――どうしてそれがわかったのか、そのところは私にはわかりませんが――始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動をさぐらせた上で、娘をやるのはいいが、そんなに欲(ほ)しいんなら、頭を下げてもらいに来るがいいというふうに言わせます。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「芸者あがり」は女夜叉の比喩。「性悪(しょうわる)の見栄坊(みえぼう)」は、Nの養母の性格。母性的な女を見て被愛願望が生じると、反射的にママゴンの記憶が蘇り、被害妄想的になるわけだ。そして、加害者を妄想的に捏造する。「私」は夏目鏡子。「わかりませんが」は、Nの妄想である可能性の示唆。「尼さん」は女菩薩の比喩であり、「美しい若い方」の別人格だ。「回し者」はNのDだろう。「一挙一動をさぐらせた」事実は誰にも確認できまい。この頃のNは「追跡狂という精神病の一種」(『漱石の思い出』一)に罹っていたとされる。

「娘をやるのはいいが」という台詞は怪しい。「頭を下げて」は、男としての自信のなさを自覚したくなくて、Nが他人の言葉として想像したものだ。

青年Nのこの妄想は〈小説〉と呼べる。この小説はNのほとんどの小説の原典だ。タイトルは『眼医者の女』としよう。ヒロインの名は、〈井上メイサ〉でどうだ。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5452 被愛願望と自惚れ

 

メイサの母は、どうやってNのことを知ったのだろう。メイサが母にNのことを告げたとしか考えられない。ただし、〈メイサとNは交際していた〉とは考えられない。だから、考えられるのは、一つだけだ。〈メイサはNに片思いをしていた〉という物語だ。では、Nは、自分に対するメイサの片思いを、どうやって知ったのだろう。知れるわけがない。

〈好きな人に好かれたい〉とは、誰しも思うことだろう。〈好きな猫に好かれたい〉とも思う。だが、〈愛車に好かれたい〉とは思うまい。いや、思いようがない。無生物に欲情する人はいる。だが、〈無生物に欲情してもらえる〉とは思うまい。思うのかな。

好きな人には好かれたいものだが、逆は常に真ではない。〈好かれたい人のことが好き〉とは限らない。〈好かれたい〉という思いは、〈嫌われたくない〉という思いと裏表の関係にある。嫌われると何をされるか、わからない。怖い。だから、とりあえず、好かれたい。ある種の被愛願望は、被害妄想的気分と裏表の関係にある。〈自分の好きな人には自分は好かれるものだ〉といった自惚れとは違う。自惚れられないからこそ、被愛願望を抱くのだ。

『眼医者の女』の場合、Nはメイサに好感を抱いたが、そのことを自覚できない。彼は、愛する主体として自分を想像することができないのだ。〈Nは彼女を愛する〉という物語を作れない。突然、ロマンスが生まれる。つまり、〈メイサとNは愛しあう〉という物語が浮ぶ。この物語の前段階には、当然、〈メイサはNを愛する〉という物語がある。

 

Ⅰa Nはメイサを愛する。

Ⅰb メイサはNの愛を受け入れる。

Ⅰc メイサとNは愛しあう。

Ⅰd メイサの母はNに試練を与える。

Ⅰe Nは試練を乗り越える。

 

ほとんどのロマンスは、このように作られている。ところが、Nの場合、aとbが入れ替わる。すると、次のようになる。

 

Ⅱa メイサはNを愛する。

Ⅱb Nはメイサの愛を受け入れる。

Ⅱc メイサとNは愛しあう。

Ⅱd Nの母はメイサに試練を与える。

Ⅱe メイサは試練を乗り越える。

 

Nは、この物語を作れなかった。その理由は簡単だ。Nがメイサを愛しているのなら、Nは自分の母と戦わなければならなくなるからだ。自分の母との対決を、Nは恐れた。この恐れがメイサの母を妄想的に作り出したのだ。

言うまでもなく、Ⅰ系の物語とⅡ系の物語は、同時に進行しうる。Nは、二種の物語の世界の綯い交ぜに失敗し続けた。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5400 「ストレイ シープ」

5450 原典『眼医者の女』

5453 メイサと再会

 

後年、Nは井上メイサを見かける。いや、見かけたと思い込んだ。

 

<たしか亡くなる四、五年前のこと、高浜虚子(きょし)さんに誘われて九段にお能を観(み)にまいりますと、その昔の女が来ていたそうです。二十年ぶりに偶然顔を見たわけですが、帰ってまいりましてから、

「今日会って来たよ」とそのことを私に話しますので、

「どんなでした」とたずねますと、

「あまり変わっていなかった」と申しまして、それから、

「こんなことを俺が言っているのを亭主が聞いたら、いやな気がするだろうな」と穏やかに笑っておりました。私にはこの話は実在のようでもあり架空のようでもあって、まことにつかまえどころのない妙な話に響くのですが、兄さんはその女の方の名前を御存知のはずです。私も伺ったのですが忘れてしまいました。とにかく得体(えたい)の知れない変な話でございます。

そんなわけからか急に東京を捨てて松山へゆくことにしたらしいのですが、そうした出しぬけの話をもちだされて、加納(かのう)治五郎(じごろう)さんあたりが引き止め役で、東京に口がないじゃなし、現にその時は高等師範で月給四十円とかもらって教師をしながら大学院で勉強していたことではあり、なにも物好きに松山くんだりまで落ちのびなくともと骨折ってくだすったそうですが、まったくめちゃくちゃな駄々(だだ)っ児(こ)ぶりで、手がつけられなかったとか申すことです。

松山へ行っても、先ほど申しましたとおり、宿の神さんや何かが廻し者にみえていて、あまり愉快ではなかったようです。

この発作はその後数年たってからひどく起こってまいりましたが、いったいにずいぶんと病気の昂(こう)じている時でも、遠い人には案外よくって、近い人ほどいけないのですから、始末におえません。だもんでそれで私が困り話なんかをしましても、知らない方は、あの謹厳な夏目がと本気になさいませんのです。

(夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』「一 松山行」)>

 

「亡くなる四、五年前」のNは「強度の神経衰弱」(新潮文庫『こころ』年譜 大正二年)に悩まされていたという。

「顔を見た」程度で「会って来たよ」は、おかしい。〈パンダに「会って来たよ」〉と同じ用法か。Pが「何処かで先生を見たように思うけれども」(上三)と言ったとき、Sは「どうも君の顔には見覚(みおぼえ)がありませんね」(上三)と答えている。〈見られた人は見た人を見る〉と、Nは信じていたのかもしれない。夏目語の〈会う〉は〈目と目が合う〉の〈合う〉と同じ意味かもしれない。で、〈お見合い〉になる。〈雨に遭う〉の〈遭う〉とも同じか。

「亭主が聞いたら、いやな気がする」というのは、変。Nは、〈メイサに未練があるのはメイサに愛され続けているせいだ〉と勘違いしていたか。ただし、Nが実際に見たのは、記憶の中の若いメイサに似た別人だろう。あるいは、まったくの幻覚だったかもしれない。

(5450終)

(5400終)


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