ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

笑うしかない友 ~違わん

2021-05-26 11:08:11 | ジョーク

   笑うしかない友

       ~違わん

行かないの? 

ない。

何が? 

イカ。

烏賊? 

ない。

ああ。行かない。

ない。

行きたくないの? 

タイ。

鯛? ああ。行きたいんだ。

いけ。

池? 行けないんだ。

ない。

着て行く服がないの? 

ある。

交通費? 

ある。

あるんだ。

ケナイ。

毛がない? あるけど、ない? 

ケナイ。

ああ。歩けないのね。でも、歩いてたよ、さっき。

ない。

ちゃんと言いなさいよ。

ナイ。

何が。

イエ。

家なき子? ああ。言えないんだ。なぜ。

言うなって言われたからだよ。言ったのはあんただよ。「貴様の話は長たらしくていけないから、できるだけ短く言え」って。もっと短く言うの? だったら、もう、犬と一緒だろう。違う?

ワン。

で、どこ、行くんだっけ。

(終)

 


腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 17 昼下りの嗅覚器

2021-05-24 15:16:30 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

      17 昼下りの嗅覚器

雨が上がった。眩い。

交差点で俯く。信号の変わるのを待ちながらずるりと引き出したポケットの底には小さな穴が開いていて、そこから触角のようなものが出ているのを見たとき、「ああ、またか」と悲しい気がしたけれど、「悲しいよ」と呟く相手は思いつかず、信号が変わったのに気づかず、ポケットを元に戻すかどうか、迷いつつ、戻っていく触角に刺される太腿の痛みを思って動けなかった、しばし。

ああ、またか。特に意味はない。傷ついたレコード盤の針飛びのように、同じ音が繰り返し聞こえる。空耳だけど。

指を鼻に近づけ、嗅いでみる。どこかで嗅いだことがある。何の匂いだったか。誰の匂いか。

信号が変わった。でも、動かない。最初の一歩を踏み出せない。

ああ、またか。すでに視線は濡れた横断歩道を燕のように低空で渡りきっているのに。

煉瓦色の銀行の前の街路樹の揺れる葉陰に、ジャンヌが立っている。

(終)


夏目漱石を読むという虚栄 3240 3250

2021-05-22 10:46:18 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3240 「その妻を一所に連れて行く勇気」

3241 「代表者」

 

Sにとって静はどういう対象だったのか。多くの人はこういう疑問を抱かないらしい。

 

<私は歯がゆい。「先生」は自分の苦悩から、あえて妻を遠ざけようとしている。それが「先生」なりの愛なのだとしても、そんな臆病(おくびょう)な愛はお断りだ! 

男同士の恋情(にも似たなにものか)はねっちりと描写するわりに、美しい女性を描くと途端に腰が引けて、「待って、あなたちょっと一人で空回ってるわ」としか言いようのない、珍妙な気遣いを発揮する。

(三浦しをん『百年経(た)ってもそばにいる―夏目漱石のおもしろさ』)>

 

「男同士の恋情(に似たなにものか)」はゲイの暗示だろう。だが、Sは、ゲイではない。

 

<女の代表者として私の知っている御嬢さんを、物の数とも思っていないらしかったからです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十七)>

 

「思って」の主語はKだ。「女の代表者」の真意は〈乳母の代理人〉だろう。静の母が乳母のばあやで、静が子守りのねえやだ。だが、Sにそうした自覚はない。作者にもない。

 

<ローマカトリック教会と絶対王政を念頭に置きつつ「ポリスの一体性」=政治的統一体の秩序原理として考えられたRepräsentationこそが、フランス革命期憲法に「ひき移され」、一七九一年憲法第三篇二条の「フランス憲法(=国制)は代表制である」という文言となった、というシュミットの理解。その意味でのRepräsentationに、どう訳語を与えるか。戦前、宮沢俊義「国民代表の概念」(一九三四年)は、「代表なる表象」が「法律的実在」を持たぬ「全くのイデオロギーにすぎぬ」ことをあばく地点に、自己の位置を定めた。一方で、尾高朝雄、清宮四郎、黒田覚らの知的サークルで「体現」「象徴」という語が議論されていた、という注目に値する最近の指摘がある(市川健治「象徴・代表・機関」全国憲法研究会編『日本国憲法の継承と発展』)が、幸いなことに、この語に正面から相対した大著が、われわれにはすでに与えられている。和仁陽の労作『教会・公法学・国家―初期カール・シュミットの公法学』(一九九〇年)がそれである。和仁は、いくつかの了解を前提とした上で、「やむを得ず」と一歩下る慎重さを示しながら、Repräsentationに「再現前」の訳を与えた。この訳語によって、「代表」という語が同時に歴史的意味連関を豊富に包蔵するものであることが、あぶり出されると言ってよいだろう。

(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況 他一篇』樋口陽一解説)>

 

Sの「代表者」という言葉は、開化の漢語、あるいは江戸時代中期以降の蘭学の訳語に始まる和製漢語の「やむを得ず」的、あるいは〈とりあえず〉的な曖昧さを悪用したものだ。

 

 

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3240 「その妻を一所に連れて行く勇気」

3242 『みれん』

 

「丸くてちっちゃくて三角だ」というCMがあった。〈円であると同時に三角形〉なんて不合理だ。しかし、〈角丸の三角〉や〈3辺が弧の三角〉や〈正面から見たら三角で上から見たら円〉という物はある。厳密に受け取ると不合理な文言でも、常識的に甘く考えると、ありうる場合がある。いや、ありうるように考えるのが常識的だ。

 〈S夫妻は「幸福な一対」だったのに静はSの自殺を止められなかった〉という話は変だ。しかし、〈「幸福な一対」というのはPの買い被りだった〉と考えれば、静がSを助けられなかったのも無理はないことになる。

 

<私は今日(こんにち)に至るまで既に二三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進もうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹かされました。そうしてその妻を一所に連れて行く勇気は無論ないのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十五)>

 

「勇気」のある方が変だ。変なことを否定して普通になっている。無駄話だろう。

〈作者は乃木希典と静子夫人の心中を批判している〉と誤読する人がいる。

 

<病人は兩手で女の顔を挾んだ。昔可哀がつた時にしたやうなし方である。「マリイ。約束の事はどうしてくれるのだ。」

「約束とはなんでせう。」かう云つて、女は病人の手を放(ママ)さうと思つた。

病人は平生の力を悉く恢復し得たやうに、しつかり女の頭を抑へて放さない。「己と一しよに死んでくれる約束ぢやないか」と、忙しい語調で云つて、女の顔の側へ(ママ)ぴつたり顔を寄せた。病人の息が女の口に障(ママ)る。

女は顔を引かうとしても引かれない。

病人は自分の詞を一句一句女の口に注ぎ込むやうに言ふのである。「己は一人で行くのは厭だから、お前を連れて行くよ。己はこんなにお前を愛してゐるのだから、お前を手放して置く事は出来ない。」

女は恐ろしさに麻痺したやうになつてゐる。その咽からは自分にも殆ど聞え(ママ)ない位な、咳(しは)嗄(が)れた叫び聲が出た。顳顬と頬とをしつかりと抑へられてゐて、頭を動かす事が出来ない。

病人は頻りに口説き立てる。濕つぽい、熱い息が女の顔へ觸れる。「一しよだ。一しよだ。お前の意志でさう極めたのぢやないか。一人ではこはくて死なれない。一しよに死んでくれるかい。」

女は足で自分の椅子を押し退けた。そして鐵の箍を脱すやうに、自分の頭を病人の手から引き放(ママ)した。

(アルツウル・シュニッツラー『みれん』五十四)>

 

Sは、あるいは作者は、こうした展開になることを恐れたのに違いない。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3240 「その妻を一所に連れて行く勇気」

3243 教訓の色眼鏡

 

『こころ』の主題を「イゴイストは不可(いけな)いね」(中十五)などと思い込んでしまうと、多くの本文の様々な不整合などを読み落としてしまう。

『浦島太郎』を例に、考えよう。乙姫は、なぜ、危険な玉手箱を太郎に持たせたのか。

 

<異郷と現世との時間の単位の違いが玉手箱の中に込められていたような語り方であるが、本来は、霊魂を身体の外に置くことによって不死身を得るという外魂(がいこん)の信仰を基盤にした話で、おそらく玉手箱は外魂の入れ物であろう。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「玉手箱」)>

 

この程度の説明では、乙姫の意図はわからない。

 

<なかでも、古くから一貫して異郷訪問譚の形式をとるが、登場する乙姫と亀と浦島の関係のあり方からみると、近世の恩義という観念で3者を結合させたことにより、古代にみられた異郷の女性と人界の男との神婚というモチーフが消えており、時代により話の変容がうかがえる。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「浦島伝説」)>

 

「恩義」の着色によって、「神婚」に関する無知は隠蔽された。

ドイツの少年が『浦島太郎』を聞き終えて、〈亀はどうなったの?〉と質問したそうだ。〈さすがはドイツ人。子どものときから理屈っぽい〉という話だが、はたしてそうか。

『御伽草子』では、結末が次のようになっている。

 

<太郎は小船に乗り竜宮に行き、女房と結婚し3年を送るが、望郷の念にかられ暇を乞う。女房は自分が助けられた亀だと明かし、けっして開けないようにといって玉手箱を形見に渡す。帰郷してみると700年がたっており、太郎は悲しみのあまり箱を開けると煙が立ちのぼり、老翁の姿に変貌する。太郎は鶴となり蓬莱山で亀と再会、浦島明神となって現れる。

(『山川 日本史小辞典』「浦島太郎」)>

 

こうなると玉手箱を開けたのが正解みたいだ。

唱歌の『うらしまたろう』(石原和三郎)だと、〈若いときに頑張っとかないと老後は悲惨だよ〉みたいな解釈ができる。この場合も、乙姫が〈玉手箱を開けるな〉と命じた理由は不明。『昔ばなしの謎 あの世とこの世の神話学』(古川のり子)で浦島伝説に関する諸説が紹介されているが、どれも私には納得できない。

同様に、『こころ』は不可解であるはずなのに、『うらしまたろう』のように教訓の色眼鏡をかけてしまうと、何となく意味があるように勘違いしてしまう。

なぜ、Sは、一時的とはいえ、静と心中しようと考えたのか? 

(3240終)

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3250 隠蔽体質

3251 パシリ・メロス

 

ある物語からどんな教訓を読み取ろうと、個人の自由だ。しかし、その前に、表面的な意味ぐらいは万人と共有できていなければならない。

 

<シキリアでは、暴君ディオニューシオスがこの上もなく残虐であり、市民たちを責め殺したので、モエロスは暴君を殺そうとした。衛兵たちが武装している彼を捕らえ、王のもとに連行した。彼は尋問されると、王を殺そうとしたと答えた。王は彼を磔(はりつけ)にするよう命じた。モエロスは姉妹の結婚のために三日の猶予を王に求め、自分が三日目に戻ってくる保証人として、友人であり仲間であるセリーヌーンティオスを王に差し出した。

(ヒューギヌス『ギリシャ神話集』「257 刎頸(ふんけい)の交わりを結んだ者たち」)>

 

この話は不可解だ。次の二点が問題になる。

 

1 シキリアの慣習では、友人の命を危険に晒してまでも親族の結婚式に参列する義務などがあったのか。あるいは、モエロスが変人だったのか。

2 モエロスは、どうして「自分が三日目に戻ってくる」ことを確信できたのか。事故や天災や王の妨害などを考慮しなかったのは、なぜか。モエロスが幼稚だったからか。

 

モエロスが変人でも幼稚でもなかったのなら、〈モエロスは立身出世のために市民派を裏切り、王は、モエロスごと、市民派を抱きこんだ〉というのが真相だろう。〈テロ未遂から権力者との和解へ〉という出来事は茶番なのだ。モエロスは王のパシリだった。

『走れメロス』(太宰治)でも、〈パシリ・メロス〉の可能性が大だ。ところが、「信ずるに足る人間像を提示した」(『日本国語大辞典』「走れメロス」)などと、意味不明の総括がなされている。どんな「人間像」だろう。格好だけ反省してみせる人を喰った暴君像か。反省の色を見せてくれさえしたら暴君の前非を水に流してやれる似非テロリスト像か。二人の茶番劇を真に受ける愚昧な市民像か。そんな像を「提示した」からどうだってんだよ。

『にほんごであそぼう』(ETV)で、『走れメロス』を上演していた。驚くべきことに、ラストで巨大な女神みたいなのが天空に現われ、町全体を覆う。演出家は『走れメロス』の結末に対する不満を露呈しているわけだ。

『忠直卿行状記』(菊池寛)は「暴君と称された忠直の心理に新しい解釈を与えたもの」(『ブリタニカ』「忠直卿行状記」)とされる。一方、『走れメロス』の暴君の告白は薄っぺらで嘘っぽい。しかし、薄っぺらだからこそ俗受けするのだろう。映画の『忠直卿行状記』(森一生監督)の結末は、『走れメロス』のそれと似ている。だから、愚作。

『走れメロス』は尻切れ蜻蛉なのだ。暴君は改心した後、善政を施したのか。人々は幸福になったのか。こうしたことが希望的観測としてさえ話題になっていない。

〈人と人が信じ合うのはいいことだ〉といった薄っぺらな教訓を読み取って小説を理解した気になってしまう人は、詐欺に遭いやすいタイプだろう。逆に、詐欺まがいの商売で飯を食っている人かもしれない。たとえば、そうね、国語科教師とか。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3250 隠蔽体質

3252 「教育相当の良心」

 

桃太郎が鬼退治に出かけたが、卑怯で逃げ帰る。こんな話を誰が聞きたい? 

 

<その時の私はたといKを騙(だま)し打(ママ)ちにしても構わない位に思っていたのです。然し私にも教育相当の良心はありますから、もし誰か私の傍(そば)へ(ママ)来て、御前(おまえ)は卑怯(ひきょう)だと一言(ひとこと)私語(ささや)いてくれるもがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰(ママ)ったかも知(ママ)れません。もしKがその人であったなら、私は恐らく彼の前に(ママ)赤面したでしょう。ただKは私を窘(たしな)めるには余りに善良でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は其所に敬意を払う事を忘れて、却って其所に付け込んだのです。其所を利用して彼を打ち倒そうとしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十二)>

 

要するに、Kがいけないわけね。

「その時」がKにとってどういう「時」なのか、不明。「たといKを騙(だま)し打(ママ)ちにしても構わない位に思っていた」のは、なぜか。「是非御嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされて」(下三十二)いたから、というふうに誤読できる。だが、それとこれとは話が違う。「是非」は唐突。〈静はSとKを天秤に掛けていた〉という話はない。だから、〈Kを排除すればSは静と結婚できる〉ということにはならない。静がSと結婚したがっていたとしても、うまくいかない。Sは「誘(おび)き寄せられるのが厭(いや)」(下十六)だったのだ。青年Sは、静の存在とは無関係に、Kを排除したかったのに違いない。この真相を、語り手Sは執拗に隠蔽し続ける。作者はこの隠蔽工作に加担している。

「教育相当の良心」が怪しい。誰による「教育」だろう。Sの両親によるものとは考えにくい。「誰か」は理性的な、あるいは道義的なDだ。「卑怯(ひきょう)」は〈臆病〉という意味ではなく、〈卑劣〉という意味だ。

Kが「善良」で「単純」だったという事実はない。SはKを買いかぶっていた。

 

<烈火のような怒りと洪水のような情欲が沸き立ったときに、わが心にはそれとはっきり知っていて、また知っていながらつい犯してしまう。このとき、そのはっきりと知る者は誰であるのか、また知っていながら犯してしまうものは誰であるのか。ここで忽然として思い返すことができれば、その邪悪な魔性のものは退散して、忽ち良心が現われて来る。

(洪自誠『菜根譚』前集一一九)>

 

「はっきりと知る者」がDだ。「知っていながら犯してしまう者」だけが自分ではない。

青年Sには、自身の内的葛藤を反省する能力がなかった。「忽然と思い返すこと」ができなかった。つまり、もう一人の自分と会話できなかった。そのことをSは過小評価する。だから、「邪悪な魔性のもの」が生き延びた。そして、それは「不可思議な恐ろしい力」となってSを殺しに来た。ありきたりのしくじりだ。作者は何をしているのだろう。

Nは利いた風な言葉によって軽薄才子の男どもをけむに巻くが、女子供は騙されない。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3200 「近づく程の価値のないもの」

3250 隠蔽体質

3253 「トチメンボー」

 

Sは、「明治の精神」の内容を明示しない。「明治の精神」とは、本音を自他に対して隠蔽する態度のことだろう。隠蔽体質。建前しか語りたくない。しかし、「気取るとか虚栄とかいう意味」の態度を取り続けて自己満足ができるはずがない。いらいらは「継続中」になる。建前の裏に潜む「傷ましい先生」の本音を忖度されたがる。そのために何かを仄めかすふりをする。だが、何をどんなふうに忖度されたいのか、自分でもわかっていない。わからなくなっている。Sの本音がどんなものか、Pには知れていないはずだ。だが、作者は知っているように装う。そして、読者も同様に装う。そうした偽装も「明治の精神」の発露だ。

 

<「それからボイにおいトチメンボーを二人前持って来いというと、ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、先生は益(ますます)真面目(まじめ)な貌(かお)でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました」「なある。そのトチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少し可笑しいとは思いましたが如何にも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました」

(夏目漱石『吾輩は猫である』二)<

 

話者は東風(とうふう)、聞いているのは苦沙弥。「先生」は迷亭。

「トチメンボー」は俳人の名の「橡面坊(とちめんぼう)を種に使ったところが面白かろう」(『吾輩は猫である』二)というのだが、面白いか? 

 

<(「とちめく坊」の意とも、栃麺を造るには、早くしなければよく延びないので、急いで棒を使うことからともいう)あわてること。うろたえること。またあわてもの。

(『広辞苑』「栃麺棒」)>

 

迷亭にとって、「トチメンボー」は謎のつもりだろう。だが、実際には駄洒落でしかない。作者はそのことに気づいていないらしい。

迷亭は、『おそ松くん』のイヤミ同様、「洋行」をしていない。だから、「洋行」帰りのハイカラに対する嫉妬に苛まれ、「ボイ」を相手に憂さ晴らしをしているようだ。そんな彼を、作者は冷笑しているのかもしれない。よくわからない。

迷亭は、言うまでもなく、〈「トチメンボー」=「メンチボ―」+「橡面坊(とちめんぼう)」〉と考えている。一方、「ボイ」は「トチメンボー」=「あわてもの」〉などと仮定しているのだろう。やがて、彼は「料理番」(『吾輩は猫である』二)か誰かに「橡面坊(とちめんぼう)」という名を教わって、〈客の悪ふざけだ〉と確信するらしい。こんな話のどこが面白いのか。この後、「トチメンボー」という言葉が何度も繰り返される。悪ふざけとしか思えない。

Sは「殉死」について悪ふざけをしている。〈「殉死」=贖罪+孤独死〉といったことを考えているおだろうか。一方、Pが何と解釈しているのか、私にはまったくわからない。「橡面坊(とちめんぼう)」に類する媒介のための「殉死」の「新らしい意義」は本当にあるのか。