「麒麟」とは(キリンビールのラベルにあるような)中国の神話、伝説上の霊獣である。
王が仁徳のある政治(支配)を行う時にこの世に現れるというが、
NHKドラマ(麒麟が来る)は、どういう麒麟がどこでどのように現れて物語を終結させようとするかが視聴者には楽しみであった。
<NHK ・本能寺・襲撃場面>
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信長は攻めきたった軍勢が光秀だと分かると
「十兵衛(光秀)、 そなたが … そうか … 」
とつぶやき、笑っているとも泣いているともとれる表情を浮かべた。
「麒麟が来る」は信長と光秀の「心の通い」の物語として作られていた。
討つ方と討たれる方、二人の心は通じ合っていたというのである。
「光秀か、あやつがワシを殺しに来たのであれば、致し方がない」
そうして信長は、有名な「是非もなし」(あれこれ言ってもしかたがない)というセリフを残し、炎の中に消えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
<私の解釈>
信長(49才)は攻め入ってきた敵の軍勢が、秀吉の援軍として備中(びっちゅう)・高松城の毛利征伐の為出撃を命じたばかりの光秀だと分かるや、
「ぬかった」とばかり顔面蒼白となり、無残に殺戮(さつりく)される恐怖でおののいた。
(あるいはションベンまでチビッたかもしれない)
「おのれ、光秀のくそたわけめが、ちきしょう!」
そうわめいたに違いない。
(人間わずか50年、外天(げてん)のうちを比ぶれば、夢 幻(まぼろし)の
如くなり・・ などという余裕などあったはずがない)
ドラマのように「光秀なら致し方がない」とつぶやくならば、謀反(むほん)の相手が秀吉だったらなんと言うか?
光秀なら仕方がなくて、「サル(秀吉)なら 許さん!」と言うのであろうか?
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近時、東大の「史料編さん所」で中世の日本歴史を研究している本郷教授は古文書「乙夜之(いつやの)書物(かきもの)」(加賀藩の前田家に仕えた兵学者、関屋政春)の
“ 光秀は鳥羽(とば)にヒカエテオリ ” の記述により、
「光秀は本能寺へ出撃せず京都の南にある鳥羽という陣屋にいた」
「あり得る事である。光秀自身がなにも戦いの最前線に赴く(おもむく)必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」
「一万三千名というのは光秀軍全体の数であり、たかだか本能寺を包囲するに は二千余騎で充分である」
と言う見解を示しているが、(失礼ながら)いかにも実戦の現場を知らない学者センセイの言われそうなことではある。 そんなことはなかろう。
敵は信長だけでなく、京都には家督(かとく)を継ぐ長男・信忠が「妙覚寺」(二条城)に兵を引き連れて控えていた。
当然この二人を打ち損じてはならないし、この当時、「戦(いくさ)に勝つ」ということは敵の大将の首をあげることにあった。
〔信長に対し、数々の恨み骨髄の光秀〕
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かって丹波(たんば)(京都の北西部)攻めの命令を受けた時、八(や)上城(かみじょう)の波多野秀治に「命の保証をするから降伏せよ」とおのれの実母を人質に出したが、信長が波多野を処刑してしまった為に、あわれにも母は張り付けで殺されてしまった。
『勇将のもとに弱卒(じゃくそつ)なし』と言う。
重なる憤怒(ふんど)で信長を討つ決意を固めた光秀が「信長襲撃の陣頭指揮」をとらなかったはずはない。
信長は「桶(おけ)狭間(はざま)の戦い」で、大敵今川義元の首をあげたことで勇名をとどろかせた。(妹の)お市(いち)を北近江に嫁がせ尾張との同盟を結んだものの、朝倉義景について背かれた浅井長政の首をはねてドクロとして祝勝の酒を注いだ。
それゆえにドラマでも、光秀は本能寺の焼け跡から信長の首を入念に捜させた。
信長の首が上げられなかったことで、秀吉は「信長様は逃げて生きのびておられる」と言いふらし、逆賊(ぎゃくぞく)・光秀討ちの援軍(味方)を次々と増やしていった。
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光秀は、場当たり的に、京都で怨恨(えんこん)の信長親子を討つことに成功しただけで、その後の「政権の構想」を事前になんら立ててはいなかった。
(これでは、はなしにならない。 麒麟もこない)
足利義昭を共に征夷大将軍として擁立(ようりつ)し、光秀の丹波(たんば)攻め(せめ)にも従軍し、嫡男(ちゃくなん)忠(ただ)興(おき)の妻に光秀の娘・玉(ガラシャ)を迎えた盟友「細川藤孝」にも裏切られて逃げられた。
信長に対する最大の敵・(天皇譲位を迫られていた)正親町(おおぎまち)天皇、あるいは信長によって追放され、毛利輝元のもとに身を寄せていた将軍・足利義昭などが、
「信長襲撃の黒幕」とも言われているが、彼らが光秀に加担するようなことは全くなかった。 堺見物に興じていた家康に至っては、「信長襲撃される!」の情報に接し、命からがら三河へ逃げ帰ったのである。
(どなたも、よくぞやったとは思っただろうが、動くことはなかった)
信長襲撃三日後、信長が建てた壮大な「安土城」を占拠したところまでが光秀の絶頂であった。
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天王山「山崎の戦い」で圧倒的兵力の秀吉に敗れ、敗走する山中で「落ち武者狩り」に遭ったといわれるが、つまるところは「十数日の天下取り」一人芝居で終わり、豊臣秀吉にタナボタ的に幸運が転がりこんだだけということになった。
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「麒麟が来る」というネーミングは成功し、視聴者を最終回まで引っ張ることは出来た。
(伝説的)光秀ゆかりの各地は、期待に胸はずませNHK大河ドラマブームに沸いてうるおった。
つまるところ、その程度において、「まぼろしの麒麟」はやってきたようだ。