答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

出稼ぎ哀歌

2022年06月13日 | 土木の仕事

 

「”土木のこころ”を知るために、あなたが薦める本をいくつか紹介してくれないか」という依頼あり。すぐさま、アタマに思い浮かんだ本が数冊。かんたんに推薦理由も、ということなので、あらためて実物を超速で飛ばし読みし、これとこれとこれ・・・あ、もひとつこれもと4冊をピックアップして送ろうとしたが、待てよ、と再考。イノイチバンに思いついたひとつだけに絞ることにした。その一冊とは、『出稼ぎ哀歌~河辺育三写真集~』(ブックショップマイタウン発行)である。

「土木のこころ」と聞いてすぐ思い浮かべるのは、昨年来業界で評判を呼び、わたしもその協力人として巻末に名を連ねさせてもらった復刻版『土木のこころ』(田村喜子、現代書林)。そこに登場する20名の大多数は、明治期から今日までの、わが国を代表する超土木エリートたちだ。

そこで忘れがちなのが、そのエリート技術者たちの想いや考えを形にするのに必要不可欠な無名の労働者たちの存在である。しかし、その無名の者たちに脚光が当たることは、ほとんどない。たとえば「無名性」について語るときも、設計者や施工者の名前を世に出そうとはするが、実際に作業をしている者たちへの考慮は一切といってよいほどない。そりゃそうだ。超のつくエリートでさえ、なぜだか自らの先達について学ぶことがあまりない土木という世界では、知られていない人が少なくない。ましてやそれが一般に、となると推して知るべしだ。そんな現状において、名もない者たちが一顧だにされないのは当然のことである。

しかし、これまた当たり前のことだが、土木とは、それらの人たちも含めたチーム全体でなされる仕事である。超エリートにも、無名の労働者にも、それぞれに役割があって、それぞれがその役割を全うしなければ、目的や目標を達成することができない。そのような構造を有する仕事であるならば、そして、「ふつうの暮らしをささえる」のが土木であるならば、それを底辺で支える者たちのことが語られなくてよいはずがない。

 

アセヲナガシテ ウタウウタ

ドウロコウジデ ウタウウタ

ドカタガウタウ ツチノウタ

ナイテクレルナ フルサトノコヨ

トウチャンイマニ カエッテクルゾ

ユウヒガシズム コウジゲンバデ

キョウノカセギニ カンパイシヨウ

(書中で紹介されている無名労働者の歌)

 

現代日本の快適な暮らしを支えてきたのは、こういった人たちの存在があったからこそ。そこに想いを至らせることができないようでは、また、その人たちを大切に思えないようであれば、土木という世界で生きる資格がないと、わたしは思う。

 

 

 

 

 

 

 

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石橋がある風景

2022年05月30日 | 土木の仕事

 

 

 

たしかにそこに橋がかかっていることはわかっていた。

しかし、それがどのようなものであるかを具体的に確認してみようと思ったこともなかった。

というより、そこにあるのは橋に決まっているのに、その構造や形状がどうであるかについて、まるで気にもとめなかった。

念のため言っておくが、土木屋である。

しかも、アイ・アム・プロフェッショナルと公言している土木屋だ。

それなのに、こんな素敵な橋が、わが家のゆず畑のまんなかを貫くちいさな谷にかかっていたということに、今の今まで無知だったとは。

 

 

 

 

 

 

迂闊といえば、ただただ迂闊。

鈍感といえば、まったくもって鈍感きわまりない。

まだまだやなあ・・

 

おのれの迂闊さに恥じ入りつつ、かつてそこに森林鉄道が走っていたことに今さらながら想いを馳せ、ひっそりと佇むその遺構の橋を、うっとりとながめる土木屋ひとり。次に孫が遊びにきたときには連れてきて、そんな自分のことは棚にあげ、せいいっぱいウンチクを語ってやろうと思うのだ。

 

 

 

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土木ってかっこいいよ!!

2022年05月10日 | 土木の仕事

 

 

土木ってかっこいいよ!!

 

礒部組お絵描きムービー第3作目である。

 

******

わたしの名前は山下エリナ。

現場監督の仕事をしています。

現場監督っていっても

まだまだ見習いみたいなもんですけど・・・

******

 

ドボジョのエリナさんが

「土木のしごと」を紹介する動画だ。

 

御用とお急ぎでない方は

いや

御用とお急ぎである方も

ぜひ

一見あれ。

 

土木ってかっこいいよ!!

 

 

ちなみに前2作はコチラ

 

その1

 ↓↓

ぼくらと一緒に働きませんか?

 

その2

 ↓↓

土木ってどんな仕事?

 

 

 

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土木ってどんな仕事? ~(小学生向け)土木の仕事紹介ムービー

2022年04月19日 | 土木の仕事

 

フェイスブックのなかで、藤絵里加さんという人の絵と、お絵描きムービーという手法に出会ったのは昨年の12月半ば(「お絵描き~」の方はたぶんそれまでもどこかで見たことがあったのだろうが、さしたる印象が残ってはいない)。その絵のタッチと声にビビッとくるものがあり、すぐにフェイスブック・メッセンジャーでダイレクトメッセージを送った。

「求人募集のイラスト動画とかできませんか?」

答えは

「もちろんできますよ」

それから約3ヶ月後にできあがったのが、先日も紹介したこの動画である。

 

 

ぼくらと一緒に働きませんか?

 

 

じつは、彼女と最初のやり取りをしたその日、サンプル動画を送ってもらったあと、こんな内容のメッセージも送っていた。

 

「拝見させてもらいました。いい絵ですね。とてもおもしろかった。小中学生に対して土木の仕事を伝える、みたいなのもおもしろいかなと思いました。ちょっと考えてみますね。」

 

そして、リクルート動画から遅れること約半月。並行して制作してもらっていた「小学生向けに土木の仕事を伝える」ムービーが完成した。

 

土木ってどんな仕事?

 

見てもらうとわかるが、このなかで「宮内おじさん」として登場するオヤジはわたしがモデルであり、ついでに言うと、その声もわたしが担当した。

「ホントにオレでいいのか?」というわたしに、「アンタがよいのだ」と藤さんや会社のスタッフたちがおだてるものだから、「ええい乗りかかった船だ」と腹を決め、齢64にして声優デビュー。彼女が先に録音し、わたしの分はそれに合わせてあとでレコーディングしてくれとの指示にしたがい、会社2階にある非常時宿泊用の和室に閉じこもり、テイク1、2、3・・・・と重ねても重ねても思いどおりにいかない自分の演技力を嘆きつつ、「こんなもんでどうでしょ?」と恐る恐る提出、OKが出たことにほっと胸をなでおろした、という経緯でつくられたもの。

わたし自身のデキはともかく、全体の仕上がりとクオリティーとしてはまずまずではないかと、秘かに自負している。

 

 

土木ってどんな仕事?

 

 

ドボニャンと宮内おじさんによる「(小学生向け)土木の仕事紹介ムービー」。

使えるじゃないかコレ。と感じてくれた方は、どうぞ使ってみてほしい。

 

 

 

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感性力ふたたび

2022年04月18日 | 土木の仕事

 

調べ物をしていて『土木技術Vol.76「特集”信仰と土木”」』に行き当たった。

そのなかに、中島岳志氏の『自然との対話者・空海』という寄稿がある。

そこで展開されてい現代土木論が、じつにおもしろく示唆に富んでいるので紹介したい。

そこで中島氏は、NHKの人気番組『のど自慢』における主役を、「のど自慢」の素人歌手ではなく伴奏者だと定義している。主役に見える素人歌手たちの、イントロ中に歌いだしてしまったり、あっちこっちでキーを外してしまったりという、その統御のきかなさは、まるで「荒ぶる自然」のようなもので、もしその歌い手たちを無視し、ふつうに演奏するバックミュージシャンであったなら、素人歌手たちの個性は死んでしまうが、あの伴奏者たちはそれをせず、「荒ぶる歌い手」に寄り添い臨機応変に合わせていくことで、「のど自慢」という番組を成立させていると解き明かす。

キーワードは「寄り添う」である。

******

「のど自慢」における伴奏者のように、空海は自然から発せられるメッセージを巧みに読み解き、そして自然を統御しようとするのではなく、そこから聞こえてくる声に寄り添うこと土木事業を行い、成功へと導いた。ここが現代の土木とは空海の土木が全く異なる点だと思います。

 現代の土木工学や西洋近代に端を発する近代的科学観は、基本的に私たちにとって脅威となるような自然環境をいかにして「統御」し、封じ込めようとするのかを出発点にして、物事を考えようとしているのではないでしょうか?その考えが「間違っている」とは言いたいわけでは決してありません。数値化され、高度に抽象化していくことで日々進歩し続ける現代の科学技術を応用しながら、私たちの生活が成り立っていることも事実です。しかし一方で、水や波の音を聞き、雲や風の流れに対して鋭敏であること、それは決して、言語化はできないけれども、経験的な知として確かに存在している「具体の科学」が、今もなお近代科学とは別の形で存在しているのではないでしょうか。

******

「具体の科学」とは、レヴィ=ストロースが提唱した概念であり、たとえば、漁師が雲や波の動きを見ることで出漁するかどうかの判断をするといったような、数値化することができない「経験的な知」のことを指す。

この稿の主役である空海は、その「具体の科学」を「繊細かつ鋭敏に身につけて」いた人であり、空海が成した事業のなかで、その代表格として有名な満濃池の改修工事をその一例として挙げている。

氏によれば、堤が決壊し、ため池として機能しなくなっていた満濃池をアーチ型のダムとした空海は、「現代科学による構造力学的な見解からではなく、真言密教的な教えー現代科学とは全く異なるアプローチでもって、円やそれに近い形としてのアーチ型に何らかの有効性があることを把握して」いたというのだ。

稿の締めくくりを引用する。

******

 弘法大師・空海が書き残した様々な書物や残されている神話や伝説から、私たちは自然と寄り添うことで、そこから発せられている声やメッセージなどを読み解こうとする感性力を今一度思い出す必要があるように感じます。現在の土木技術に求められているのは、そういった自然と向き合う「哲学」であり、それを具体化することが、結果的に土木事業が利他的なものとして市民の人々に寄り添う「技術」なり「事業」として認知されるようになるのではないかと私は考えます。

******

 

しびれちゃったぜ。

 

 

 

土木技術2021年11月号

「特集/信仰と土木」

 

 

 

 

 

 

 

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1992年高知県建設訓練校「お化け丁場」発~2022年宮沢賢治「化物丁場」着

2022年03月29日 | 土木の仕事

 

「お化け丁場」という不思議な言葉をはじめて耳にしたのは今から30年前。今は無きわが母校、高知県建設訓練校の授業のなかだった。

当時のノートを見てみると、地盤の支持力という項目の下に、「地盤の変形」と「地盤が破壊」とあり、それぞれ「土の体積変化あり」と「土の体積変化なし」という語句が添えられている。その下には、「地盤の変形」には「弾性変形(即時沈下)」と「圧密沈下」がある旨が記入されており、下手くそな絵とともに、土粒子と土と空気で構成される「土」のうち、空気の部分の体積が変化するのが「弾性沈下」で、水の部分の体積が変化するのが「圧密沈下」だと記されている。

そのあとのメモ書きをそっくり書き写してみる。

「体積変化を伴わない変形=お化け丁場→せん断破壊」

説明する先生の顔とともに、その場面まではっきりくっきりと覚えているのは、よほど「お化け丁場」という語感が印象的だったからだろう。

ふだんはめったに目にも耳にもすることがないその言葉を目にしたのは、『土木のしごと〜(有)礒部組現場情報』の記事を書くために、「丁張り」という言葉の由来を調べていた過程のなかだった。

「丁」とは。「丁場」とは。そして「丁を張る」。

その流れで知ったのが、宮沢賢治による『化物丁場』という作品だ。

さっそく読んでみた。

舞台は岩手。工事中に大きな崩壊が三度、完成後にさらに大きく崩れた鉄道工事現場の様子を、主人公(賢治本人だろうか)と現場で実際に作業にたずさわった鉄道工夫の列車中の会話で再現している短い作品だ。

文中、夜中に崩れた現場を復旧した体験を語る場面がある。

*******

「(略)『起きろ、みんな起きろ、今日のとこ崩れたぞ。早く起きろ、みんな行って呉れ。』って云ふんです。誰も不承不承起きました。まだ眼をさまさないものは監督が起して歩いたんです。なんだ、崩れた、崩れた処へ夜中に行ったって何ぢょするんだ、なんて睡くて腹立ちまぎれに云ふものもありましたが、大抵はみな顔色を変へて、うす暗いランプのあかりで仕度をしたのです。間もなく、私たちは、アセチレンを十ばかりつけて出かけました。水をかけられたやうに寒かったんです。天の川がすっかりまはってしまってゐました。野原や木はまっくろで、山ばかりぼんやり白かったんです。場処へ着いて見ますと、もうすっかり崩れてゐるらしいんです。そのアセチレンの青の中をみんなの見てゐる前でまだ石がコロコロ崩れてころがって行くんです。気味の悪いったら。」その人は一寸話を切りました。私もその盛られた砂利をみんなが来てもまだいたづらに押してゐるすきとほった手のやうなものを考へて、何だか気味が悪く思ひました。

(Kindleの位置No.81)

*******

山が崩れた現場を幾度も体験してきた身にとって、「いたづらに押してゐるすきとほった手のやうなもの」という表現は、やけにリアリティーがある。

本の終わりまじか、崩壊のあとで現場を視察に訪れた鉄道検査官の言葉として紹介しているのは次のようなものだ。

「この化物丁場はよくあちこちにある、山の岩の層が釣合がとれない為に起る」

しかし、それを聞いた工夫たちは、誰も本当にはしなかったという。

崩壊のメカニズムは、土木工学(地盤工学)によって解き明かされる。解明するのが土木工学の役割であり、そのメカニズムにもとづいて対策を立案し、計画を立て、実際に施工するのがわたしたち現場土木技術者の務めである。基本となるのは理論であり理屈だ、すなわち科学である。

とはいえ相手は地球だ。薄皮に過ぎないといえども地球の一部にちがいはない。

人智を超えたものを相手にしているという畏敬。見えざる手があるように感じる心。得体の知れないものを相手にしているという畏怖。そういった心持ちを忘れないのもまた、土木屋にとって必要欠かさざるべきことなのではないか。いつになってもである。それをなくしたとき、土木屋は土木屋とは似て非なるものになってしまうような気がしてならない。

「お化け丁場」という言葉を発端にして、期せずして来し方をふりかえる機会を与えられ、あらためてそう思った。

 

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朝の「牛」

2022年02月28日 | 土木の仕事

 

朝、京都木津川で地元住民などによって「聖牛」が設置されたというニュースが、テレビから流れていた。

「聖牛」と聞いてわたしが思い浮かべるのは、ある本だ。

 

 

 

 

喜田愛子さんが書いた『水のある風景』。その表紙を飾っているのが、彼女の手による「聖牛」の組み立て風景なのである。

******

 川に並んだ「牛」。その姿は壮観でさえある。一体どこに牛がいるのだ?と首をかしげる方もいらっしゃるだろう。「牛」とはいえ、動物ではない。ピラミッド形に組まれた丸太の枠組み、これが「牛」と呼ばれる水制の一種なのだ。

(中略)

私が見た「牛」も水防工法のひとつとして実演された。洪水で水の勢いが強くなった時、守りたい箇所の前面に置く。「牛」によって水流がその箇所に直撃するのを防ぎ、流速を抑えるといった効果がある。

(中略)

 それからというもの「牛」のファンになってしまった。川辺に立った牛を見付けると「お、まだまだ生きてるな」とうれしくなってしまう。洪水と闘う聖牛のように思えてなんとも頼もしく、雄々しく感じる。その誇らしい姿は、洪水から家族や地域を守ってきた男たちの誇りのあらわれにもみえる。

(P.26)

******

喜田さんの師である宮村忠氏が著した『水害~治水と水防の知恵』(昭和60年初版発行)は、「現代水害の実態を紹介しながら、各地に伝わる自主防災の知恵の再考を提唱」した名著だが、そのなかにも、水制工法を説明したくだりがある。

******

 河川の水流が岸や堤防に影響を与えると危険である。また、水が分散して流れてしまうと、舟を通したり取水するのに不都合となる。そこで、さまざまな工夫が古くから実施されてきた。これを護岸・水制という。護岸・水制は、古来、河川の状態に適する方法で独自の発展をしてきた。

(中略)

 水制を構造上から分類すると、代表的なものに牛類がある。形が牛の角に似ていることから、「牛」と呼ばれ、原子形は稲束を乾燥させるときに使う棚木、すなわち「牛」と見なす説もある。

(P.60~61)

******

文とともに、次のような図が添えられている。

 

 

同じ章には、洪水時における氾濫・破堤防止のための水防工法について紹介した図もある。

 

 

(P.90)

 

どれもこれも、ははぁーナルホドね、とうなずかされるもので、実物を想像しながら見ていると飽きない。

かといって、現代においてこれらをそのまま使うことができるかというと、その効果はともかく、実現性は乏しいのかもしれない。

しかし、今を生きる土木屋たちが、ここから学ぶところは大きい。聖牛を含め、かつてあったこれらの工法がもつ説得力は、それらのすべてが理にかなっていることから来るものだろう。大切なのは「理」である。その本質を理解しようと努めるものと、「図面」を錦旗とし、図面どおりにつくることが自らの役割だと信じているもの、あるいは、ただただ与えられた設計図をこなすことに汲々としているものと、どちらにプロフェッショナルへの道がひらけているかというと、わたしは圧倒的に前者だと思う。

やれAIだ、やれi-Conだ、やれホニャララだと、新規なツールや方法手法についつい目をうばわれがち(もちろんわたしもそのなかに含まれます)な近ごろだが、いつの時代においても変わらない「理」という本質を見失ってはならない。

テレビの画面に目をやりながら、あらためてそう思った今朝の食事が、昨夜の残りの「ビーフ」カレーだったのは、ただの偶然でしかないが。

 

 

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Change

2022年02月05日 | 土木の仕事

 

たとえば「丁張り」にこだわる人がいて、「丁張り」なぞ全部なくしてしまえというわたしがいて。「丁張り」の必要性や「丁張り」の長所はアナタたちに教えてもらわなくたってオレがイチバンわかってるんだよ、とココロのなかで毒づくわたしがいて。

たとえば、もうその「位置出し」はキミの仕事じゃないんだよ、そんなの誰でもできるじゃないか、他のやつにやらせてそのあいだに別のことをやれよ、というわたしがいて、誰でもって、と下を向いて笑う人がいて。「誰でも」っていうのはたとえだよ、た・と・え。そんなことはアンタたちに言われなくたってオレがイチバンわかってるんだよ、とココロのなかでディスるわたしがいて。

 

たしかに、方法論としては急進よりも漸進。たいせつなのは急いで壊すことではなく、ゆっくりつくりあげること。それをモットーにしているわたしではあるが、「変わる」あるいは「変えよう」とするときにのぞんでは、いったん「逆に振り切ってみる」という姿勢や心持ちが必要だということもまた、いくたびそれにのぞんで痛感している。

だから折にふれては「極端」を言うのである。

なぜならば、「逆に振り切ってみる」ことからしか得られないことがあるからだ。「既存」や「従来」に身もアタマもココロも束縛されていては、前には進めないことがあるからだ。いつもいつでも、「まずは大胆にやってみる」がなければ前進はできない。「振り切った」そのあとで、やはりフィットしないと思えば、「あらダメだったのね」と笑って戻せばよいだけのこと。三歩進んで二歩下がる。下がった二歩を恥じてはならない。下がったニ歩に怖気づいてはいけない。まずは歩を進めること。進んだ三歩が、やがて血となり肉となる。

「丁張り」や「位置出し」は、ただ今そこにある事象であり、たとえに過ぎない。

わたしが主張しているのは、その皮相の下にある本質だ。

 

積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ

積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ

(by竹原ピストル)

 

「変わる」ということの本質が見えてくれば、「今という時代」が特別にそうなのではないということが理解できる。

これまでもそうだった。今もそうだ。これからもそうである。皮相としての事象がそのたびにちがうだけであって、本質はおなじだ。たしかに、おそろしく速いスピードで変化してゆく「今」が、その意味においてこれまでと異なっていることは認める。そういうわたしにしてからが、青息吐息でついていっている(かどうかも不安だが)。

しかし、本質はおなじだ。ドローンやPCやレーザースキャナ、はたまたスマートフォンやアプリがどうのこうのと、とかくツールや手段に惑わされてしまうが、「変わる」ということの本質はおなじだ。

変わらずに生き残れるのならそれでもよし。しかし、変わらずに生き残るには変わらなければならない。これまでもそうだった。今もそうだ。これからもそうである。それが公共建設工事業という世界だ。つまり、「変わる」を拒絶したとしても「変えられてしまう」、それがイヤならばフェイドアウトするかリタイアするかのどちらかしかないのが、この業界の現実なのである。その道理のなか、「変えられてしまう」を受容し受動的スタイルで生きていくか、「主体的に変わる」を意識して能動的スタイルを採用するか。どちらが辛いかと問われれば、どちらも辛い。主体的に変わろうとすれば、なお辛い。だが、どちらに楽しいことやおもしろいことが内在しているかと問われれば答えはひとつだ。

 

積み上げてきたもので勝負しても勝てねえよ

積み上げてきたものと勝負しなきゃ勝てねえよ

(by竹原ピストル)

 

60半ばのじいさんにしてそうなのだ。

いわんや20も30も、はたまた40も若年の君たちにおいてをや。

 

 

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「不自由があるからこそ、そこを突破口として、思考し想像力を膨らませてものをつくる」(『土木技術』2022年2月号より)

2022年02月02日 | 土木の仕事

 

理工図書が発行している『土木技術』。最新号のテーマは「俳句と土木」だった。いつもながらに、「ほーそうきたか」とほくそ笑みつつページをめくる。

イントロダクションという名の巻頭文がじつによい(というか、きちんと読んだのはまだそこだけで、あとは超速飛ばし読みをしたのみですが)。読むと、「俳句と土木」は「制約」つながりなのだそうだ。

以下、抜粋して引用する。

******

(前略)

「制約」とは一概に表現を不自由にするものではなく、創造性や自由をもたらしてくれる契機でもあるのだ。

 土木事業でも、同じことが言えるのではないだろうか。工期や予算、発注者からの要望といった様々な制約のもとで土木構造物はつくられる。そういった制約があるからこそ技術者らは、その課題=制約をいかにうまくクリアし、その中でどのぐらいのクリエイティビティを発揮できるかが、市民に根ざした構造物をつくれるかどうかの重要なファクターとなる。

 人は恐らく完全なる「自由」の状態から、クリエィティブなものをつくることはできない。不自由があるからこそ、そこを突破口として、思考し想像力を膨らませてものをつくる。

(後略)

******

いかがだろう?

わたしは、心がふるえた。

なぜならそれは、わたしがこの十数年にわたって言いつづけてきたことだからだ。

(いかんせん、これほどの表現力でそれをあらわすことができないのが、わたしの浅学非才さのあらわれですが)

「現場」は「制約」を見つけることからスタートし、その「制約」を克服するプロセスが「現場」であり、その「制約」を克服した結果もまた「現場」である。

「制約」は変わる。過去の「制約」にしがみつくことなく、変わった「制約」を見逃さず、あらたな「制約」を克服すべく創意工夫奮闘努力をする。

そこにこそ「土木という仕事」の醍醐味がある。

業界人がよく口にする土木の魅力のひとつに「達成感」というワードがある。ひと口に「達成感」といっても、その「達成感」は十人十色だろうが、多くの人は、単に「終わったという達成感」を指してその言葉を用いているようにわたしには聞こえる。たしかに、どうでもこうでも「終わり」はやってくるし、「終わりよければすべてよし」とはよく言ったもので、終わってしまえばそれなりの達成感が得られるのは、この仕事のよい部分ではあるのかもしれない。

しかし、本当の達成感とは「制約」を自らの手で克服した結果でしか得られない。たとえ工事評定点などの目に見える評価が思わしくなかったとしても、「制約」を克服するプロセスと「制約」を克服した結果に自分自身が満足できるのであれば、それが「土木という仕事」における真の達成感ではないだろうか。

「不自由があるからこそ、そこを突破口として、思考し想像力を膨らませてものをつくる」

じつによい言葉だ。

これこそが、「土木という仕事」の醍醐味だとわたしは思うのだが、いかが?

 

 

 

 

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喜んでもらう

2022年01月17日 | 土木の仕事

 

この業界人のわるい癖。

すぐに「大義」をもちだすこと。

なにかと言えば「大きな物語」を語りはじめること。

 

わかっている。わたしもそのひとりだ。

しかし、「喜んでもらう」という気持ちや姿勢が欠けていては、そして、それを「顔が見える人」というローカルな対象からスタートさせなければ、たとえそれが業界人的には至極まっとうな「大義」であれ、またたとえその「大きな物語」が清く正しいものであれ、「自らの正当化」という目的を達成するために有用なものとはならない。

極論する。そんなものは屁のつっぱりにもならない。

どころか、むしろマイナスの作用を引き起こす要因となる可能性を内包しているということに自覚的でなければならない。

「大きな土木」の人たちはいざ知らず、少なくとも、ローカルに拠って立つことでその存在意義が保たれる地域中小建設業においてはそうなのだ。

 

という予てよりの持論が、あらためてアタマのなかに浮かんだのは、「新年あけましておめでとうございます」というあいさつのあと、「今年もみなさんに喜んでいただけるような仕事ができるよう努力していきます」とつづられた「工事だより」を見たからだ。

他所さまのものではない。身内が発行したものである。そして、まことに手前味噌で恐縮だが、心の内で褒め称えた。

お、いいじゃねえか。それでなくっちゃいけねえや。

(近ごろすっかり落語にはまってしまったおじさんの、内なる言葉がついつい訛っているのはご愛嬌)

言葉は、繰り返すことで身体に入る。繰り返しを積み重ねなければ身体には入らない。

わたしもまた、忘れないでおくために言葉に出そう。

ということで、まいどまいどクドいようだが書いてみた。

今さらながらではあるが書いてみた。

 

 

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