答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

喜んでもらう

2022年01月17日 | 土木の仕事

 

この業界人のわるい癖。

すぐに「大義」をもちだすこと。

なにかと言えば「大きな物語」を語りはじめること。

 

わかっている。わたしもそのひとりだ。

しかし、「喜んでもらう」という気持ちや姿勢が欠けていては、そして、それを「顔が見える人」というローカルな対象からスタートさせなければ、たとえそれが業界人的には至極まっとうな「大義」であれ、またたとえその「大きな物語」が清く正しいものであれ、「自らの正当化」という目的を達成するために有用なものとはならない。

極論する。そんなものは屁のつっぱりにもならない。

どころか、むしろマイナスの作用を引き起こす要因となる可能性を内包しているということに自覚的でなければならない。

「大きな土木」の人たちはいざ知らず、少なくとも、ローカルに拠って立つことでその存在意義が保たれる地域中小建設業においてはそうなのだ。

 

という予てよりの持論が、あらためてアタマのなかに浮かんだのは、「新年あけましておめでとうございます」というあいさつのあと、「今年もみなさんに喜んでいただけるような仕事ができるよう努力していきます」とつづられた「工事だより」を見たからだ。

他所さまのものではない。身内が発行したものである。そして、まことに手前味噌で恐縮だが、心の内で褒め称えた。

お、いいじゃねえか。それでなくっちゃいけねえや。

(近ごろすっかり落語にはまってしまったおじさんの、内なる言葉がついつい訛っているのはご愛嬌)

言葉は、繰り返すことで身体に入る。繰り返しを積み重ねなければ身体には入らない。

わたしもまた、忘れないでおくために言葉に出そう。

ということで、まいどまいどクドいようだが書いてみた。

今さらながらではあるが書いてみた。

 

 

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『我らイワケン株式会社 第2巻(除雪編)』(そのだつくし、岩手県建設業協会)を読む

2021年11月17日 | 土木の仕事

 

名作『我らイワケン株式会社』が帰ってきた。

 

(岩手県建設業協会HPより)

 

地域建設業者が日常行っている仕事や、最新技術、災害対応について紹介した前作につづく第2巻のテーマは「道路除雪」。

まるっきり個人的な感想だけで言えば、南国高知に住む身ゆえに詳しいことは知らなかった「除雪」という仕事を描いている分、今回の方がインパクトがあり、心に迫ってくるものがあった。

 

 

(同上)

 

 

「知らなかった」と言えば、無知な自分を恥じ入ったことがひとつ。

ちょうど一年ほど前のこと。福島県土木部県北建設事務所が企画した『地域の安全安心を守る「雪みちの守りびと」(除雪作業従事者)へ心温まるエール募集』という取り組みで、エールの例文として『あなたへのエール』と題されたみじかい文があった。

 

 

 

 

その小文に感激したわたしは、勝手に情景を想像し、ブログにつづって独り悦に入った。

******

真夜中、湯気が立ちのぼる台所で大きなにぎり飯をつくる妻。

それを持たされ、出動する夫。

温かかったおにぎりも、除雪車のなかで彼がほおばるころには冷たくなっている。

朝、凍えた身体で帰ってきた彼を、誰もいない家でむかえてくれるのは、熱いお風呂とあたたかい味噌汁。

そのころ妻は、仕事場へと向かっている。

ふと彼女は立ち止まり、心のなかでつぶやく。

「あなた、いつもありがとう」

夫が除雪した道路を、昇りはじめた朝日があかるく照らしていた。

******

 

じつは「除雪車の中は夏並みで、汗だくになるほど暑い」。これは今回このマンガを読んではじめて知ったことだが、考えてみれば容易に想像がつくことではあった。

単純に「北国」→「冬」→「雪」→「夜中」→「寒い」→「凍える」と連想して、極寒の作業だと勘違いしていたわたし。ここに重大な誤認があった。

いやあ、知らぬこととはいえ、恥ずかしいったらありゃしない。

とはいえ、あとの祭りだ。

潔く白状して、『我らイワケン株式会社(除雪編)』へのエールに換えたい。

 

 

ここからPDF版がダウンロードできます。

(一社)岩手県建設業協会『いわけんブログ』

 

 

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『釜石市、ある建設業者の物語「あのとき適当にやった人なんて誰もいなかった...」 ~ 東日本大震災から10年。地域の道と未来を切り拓いた、岩手県釜石市の建設業者の物語』を読む

2021年11月09日 | 土木の仕事

 

Esquire』のコラムコーナーに、『釜石市、ある建設業者の物語「あのとき適当にやった人なんて誰もいなかった...」ー東北見聞録2021ー』というタイトル、副題が『東日本大震災から10年。地域の道と未来を切り拓いた、岩手県釜石市の建設業者の物語』というインタビュー記事が掲載されている。今年の8月はじめに投稿されたものだ。

きのう、青木さんのことを書いたあと、デスクトップに保存しておいたこの記事を再読した。ここで紹介しようと思って、目につくところに置いていたのだが、ラッピングバックホウの件と同様に、これもまた、なんだか機会を逸してそのままになっていた。

ぜひ読んでほしい記事である。特に公共建設業にたずさわる者であれば読むべきだ、という強い表現の方が適切かもしれない。

もちろん、「ある建設業者」とは青木健一さんのことである。

彼の言葉を、文中よりふたつだけ紹介する。あとはぜひ、本文に目を通していただきたい。

 

まず、「震災翌日、更地とガレキの山を見て考えたこと」。

*******

いろいろな仕事があって、それぞれの仕事も当然尊いものだと思うんだけど、このことは僕らにしかできないことだと思ったんです、建設業者にしかね。皆さんが払った税金でさ、安全とか安心とか便利にするために、今まで道路を掘って下水をつくっていろんなことやってきたわけだから。なら今は、瓦礫をよけたりするとか、僕らが貢献できることを必死にやって、なんとかしなければならないって思いました。

******

そして、「震災によって気づかされた自分たちの使命」。

******

本当に突然何もなくなって・・・虚しさとか無力さが、全身に突き刺さるかのように感じました。通信も途絶えて電気も止まって、”自然の前で人は無力だ”ということを嫌なくらい思い知らされた瞬間でしたね。でも同時に真っ暗闇の中、僕らが地域の便利さとか安全のためにつくった”インフラ”というものが、どれだけ重要なものだったのか、痛烈に再確認できたのも事実です。『それをつくり出してきた僕らの建設業という生業は、尊いものであり責任のある仕事なんだな』と思いました。だからこそ、皆さんが早く元どおりの生活に近づくために、『今、誰よりも死に物狂いでやんなきゃいけないのは、自分たちだ』って思ったんです。

******

震災からほぼ1年後。つてを頼りに訪ねていき現地で本人に会って、各地を案内してもらう車中で、さまざまな話を聴いた。

その衝撃は今でも忘れない。というか一生忘れないだろう。

その生身のことばが持つ力も凄かったが、10年が経ち、災害復旧から町づくりへと移行するもろもろに携わり、考え行動するという繰り返しを積み重ねた彼の、活字となったそのことばは重い。

→『釜石市、ある建設業者の物語「あのとき適当にやった人なんて誰もいなかった...」ー東北見聞録2021ー~東日本大震災から10年。地域の道と未来を切り拓いた、岩手県釜石市の建設業者の物語

繰り返すが、公共建設工事構成員ならば必読の記事である。

ぜひ一読あれ。

 

(同サイトより)

 

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(釜石バックホウアートラッピングプロジェクトの)バックホウカードが届いたこと

2021年11月08日 | 土木の仕事

 

釜石バックホウアートラッピングプロジェクトのことを紹介したのは約11ヶ月前だった。

→『釜石バックホウアートラッピングプロジェクト

プロジェクトの内容は青木さんのブログに詳細が書かれている。

→釜石バックホウアートラッピングプロジェクト.1

→釜石バックホウアートラッピングプロジェクト.2

 

紹介したのはいいが、そのプロジェクトがその後どうなったのか、それ以降まったく触れてこなかった。他意はない。願わくば、ラッピングバックホウの実物を見てから、などと実現がいつになるやらおぼつかないような想いを胸に抱いているうちに、ついつい書きそびれてしまった。まったく、言いっぱなしの尻切れトンボで申しわけない。

今日、その試みの主謀者たる青木さんから封筒が届いた。

中にあったのは、バックホウカードだ。

ベースボールカードでもダムカードでもない、バックホウカードである。

 

 

 

 

 

 

それができたのを知ったのは、彼のフェイスブックへの投稿からだ。

「欲しい」

そう思っていた矢先のことだった。

聞くと、この重機のことを「カラフルバックホウ」、彼自身のことは「目立ちたがり屋」などと揶揄されることもあるのだという。

たしかに、まことに失礼だが、その物を一見しただけではそう思えないこともない。

だが、「なぜそれをするのか」という理由については、彼自身がさまざまな媒体を通じて機会があるたびに発信していることであり、同業者からそれが出るとしたらお門違いもよいところである(いかにもありそうなことですけどね)。

同封の手紙があった。

とても素敵な内容だったので、読み終わるとすぐさま、「拙ブログで披露させてもらえないだろうか」という旨のメッセージを送った。

快諾をいただいたので、彼の想いが少しでも多くの人に届く一助になればと、紹介する。

 

******

東日本大震災から10年が経ちました。

津波によって町が破壊され、施工中の現場、社屋、重機ダンプが流される様子を『この世の終わりかと』だと思って見守るしかなかった社員達

社員の半分が自宅を失いました。それでも発災からすぐ駆け付けてくれた社員のお陰で今も会社は続いています。

10年前、がれき撤去・被災した民家の解体のため、町に溢れたバックホウは地域の未来の為に懸命に働きました。

それでも地域の人たちにはどのように映ったのでしょうか?

自分たちの財産を壊し片付けるイヤな機械に見えたのではないかと思います。

以降、1000年に1度の災害によって、新しく安全な町を造る為に弊社も震災前の2倍以上の工事をこなしてきました。

公共工事での売上なので地域に還元してきました。

市では予算がつけることの出来ない箇所などボランティアとして作業してきました。

色々、地域の為にお金を使ってきましたが、10年の区切りにバックホウを利用して地域の未来を創る子供たちと繋がる事は出来ないかと考えました。

震災によって1000名もの尊い命を失ったこの町で生き残った人を大切にする色々な違いを認め合う多様性を受け入れる町になって欲しい

そのメッセージをるんびにい美術館(みやうち注:※1)に所属するアーティストが描いたアートで彩られたバックホウで届けたい・・・

ヘラルボニー(みやうち注:※2)とのコラボを考えました。

自分の好きなアートではなく子供たちが好きなアートを選ぶことで興味も増すのではと思いました。

沢山の皆さまを巻き込んで完成したアウトバックホウですが、現場に来て乗って楽しかっただけでは終わらせたくありませんでした。

バックホウカードを作成する事で『家に帰ってヘラルボニーの話を家族にする』ことによって一人でも多くの方に多様性を考える機会を提供したいと思いました。

(中略)

釜石市の建設予算は一昨年比マイナス87%と大変な事になっていますが社員と知恵を出し合い地域に関わり続けながら何とか建設業を通して地域を下支えしたいと考えています。

******

 

 

※1 るんびにい美術館

 

 

(『るんびにい美術館るん美ってどんなところ?』より)

るんびにい美術館は、知的な障害や精神の障害などのある作者が創造した表現作品を――しばしばアウトサイダーアート、あるいはアール・ブリュットと呼ばれるような作品を――多く展示します。 ですが、アウトサイダーアートやアール・ブリュットの美術館ではありません。

私たちの心は、沢山のものを区別します。
障害者と健常者。おとなとこども。男性と女性。国、人種、人や動物や植物…。この世界は、無数のボーダー(境界)でできています。 もしも、すべてのボーダーを心から消し去って、それらをただ一つのものとして見ることができたなら。もしそんなことができたなら、世界はどんなふうに見えるのでしょうか。

もしかしたら、そこにはただ命の輝きだけがあるのかもしれません。

私たちは、見る人が命を感じるような、あらゆる表現物を紹介したいと考えています。
命は、あらゆる境界線を越えて広がっています。アウトサイドもインサイドもありません。障害者も、そうでない者も。

ボーダレス・アート。私たちがご紹介しようとするものを、気まぐれにそう呼んでみましょうか。
ボーダレスはなぜだか魅力的です。
それは、きっと愛とよく似ているのです。

 

※2 ヘラルボニー

 

 

(『福祉実験ユニット「ヘラルボニー」』より)

異彩を、放て。

知的障害。その、ひとくくりの言葉の中にも、無数の個性がある。

豊かな感性、繊細な手先、大胆な発想、研ぎ澄まされた集中力・・・

”普通”じゃない、ということ。それは同時に、可能性だと思う。

僕らは、この世界を隔てる、先入観や常識という名のボーダーを超える。

そして、さまざまな「異彩」を、さまざまな形で社会に送り届け、

福祉を起点に新たな文化をつくりだしていく。

 

 

 

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『私の未来施工計画』(土田里沙さん)を読んだ

2021年11月03日 | 土木の仕事

 

国土交通省と建設産業人材確保・育成推進協議会が実施している作文コンクールがある。平成20年度からはじまり、今年度で14回目だという。

そのなかの「私たちの主張」(建設産業で働く人対象)部門で国土交通大臣賞を受賞した方と、ひょんなことからつながり、昨夜、その入賞作品を読ませてもらった。

アパレル関係から結婚と出産を経て建設業に転職し、現在は、総合職として務めると同時に、冬には除雪業務のオペレーターをしているその女性は、建設業の魅力をこう書いている。

******

建設業に従事して気付いた事は、モノ造りには人を惹きつける魅力がある。またモノ造りの喜びの中には、人に見せる力があると言う事が分かった。見てくれる人が喜んでくれる、驚いてくれる、褒めてくれる事が嬉しい。建設業には造る喜び以外にも、見てもらって喜んでもらう喜びや、「どうだ!」「凄いでしょ!」と言いたくなるような誇らしい喜びなど沢山の魅力に出会えた。

******

ややもすれば、「つくる」だけに注力し「つくった」らそれで試合終了、となりがちなわたしたちにとって、つくったモノを「見てもらう」「喜んでもらう」にまで視野を広げるその考え方は、「まずは”顔が見える人”に喜んでもらう、そして”多くの人”に喜んでもらう」を、ことあるごとに説きつづけてきたわたしにとって、思わずニンマリとして得たりとうなずくものであることは言うまでもない。

そんな彼女の「未来施工計画」とは、「AI技術の躍進と普及を追い風」にし「AIを即戦力として迎え入れる」ものだという。

たとえばそれは、「土日、祝日は人間に代わってAIがモノ造りをしてくれる」ものであり、それを実現するすべとして、「職人のヘルメットに小型の軽量カメラを搭載する。一日の業務を終えると、充電も兼ねて自動マニュアル化装置にセットする。翌日の業務開始時には、マニュアル化が完了している」という案を提示している。またたとえば、「今、従事している年配の職人さん方が少しでも体を労われる」ために、「バイブレーター等の体に負担のかかる作業をAIが担ってくれる未来」を望みたいという。

数年前のわたしなら、「ちゃんちゃらおかしいや」と一笑に付して否定していただろう。

しかし今はちがう。

そんな近未来が実現するかどうかは、この辺境の土木屋にはわかる由もないし、その構想自体に「どんなもんだろうねそれは」と思いもする。だいいち、わたしが昨今の「AIブーム」に対して懐疑的な眼差しを向けているのは、読者の皆さんなら容易に想像がつくことだろう。しかし、さはさりとてもである。否定から入るべきではないと思う。むしろ、年長者の立場にある者として、まずとらなければならない態度は、「お、おもろそうやんかそれ」とばかりに軽いノリで興味を持ち、激励することではないかと思う。

だから今はちがう。

彼女は書く。

******

今まで無かった物や事を無いで終わらせずに、「ない」を「ある」に変えるチャレンジに挑戦し続ける事が、何も無かった所に大きな構造物を造り上げる建設業の神髄であってほしい。

******

今ほど建設業を取り巻く環境が激変していく時代ではなかったにせよ、まさにそれは、自分が目指してきたことであり、通ってきた道であり、やってきたことであるのだもの、それを否定するということは自分を否定するというに等しいではないか。

そんなふうに思いながら、『私の未来施工計画』という「作文」を読んだ。

以上、その感想文(のようなもの)である。

 

 

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おなごし

2021年10月19日 | 土木の仕事

 

ドボジョという言葉が盛んに使われはじめたのは2010年ごろだというから、今から10年ほど前。いっとき持てはやされたそのネーミングも、今では濁音が3つも並ぶからよくないとかで、「ケンセツコマチ」などというセンスの欠片もない言葉が主流になっている(というのはわたしの独断的認識)。

そもそも濁音がダメなどという輩は、フランス語や日本国東北方言の鼻濁音の優雅さも感じることができないのだろうなと、わたしなぞはついつい思ってしまうのだが、そこは今日の本題ではない。

わが業界に興味がない方は意外に思われるかもしれないが、ドボジョという言葉が出現する十余年前まで、日本全国の土木工事現場には女性がたくさんいた。いかにも「男の仕事」然としている土木工事も、女性の存在なくしては現場が成り立たない、といっても過言ではない時代があったのである。

もちろん、わたしが属する組織も例外ではない。どころか、むしろ他社よりもその数が多かった。

昨夜、「おなごし(女子衆)」と呼ばれていたそのなかで、中心的な存在だった人のお通夜があった。「中心的」といっても、当の本人がそう思っているような気配は微塵もなく、でしゃばらず、控えめで、だが芯があり、ウデが立つ。そんなひとだった。

男が主で女が従、あるいは脇。多くの人は、当時の現場をそのように把握していたはずだ。そして、実際にそれはそうだっただろう。だが、駆け出しのわたしにはそう思えなかった。亡くなった女性について、「でしゃばらず、控えめ」と思わず書いたが、それはあくまでもそのひとの美質であって、その逆の女性もいた。そのどちらもがチームにとっては欠かさざるべきピースであり、そんなこんなを含めて、彼女たちの存在は、ぴかぴかと輝いて現場を支えていた。

先日、地元高校の中学生体験入学という催しに助っ人としてかりだされ、「土木」について20分ほど語ったわたしは、その話を、こんなふうな言葉で締めくくった。

一般的に土木は男の職場だと思われているが、女性ができることはたくさんある。いや、むしろ、女性の方が適しているという仕事がたくさんある。だから、女性のみなさんも、ぜひ選択肢の一つとして土木科というのを入れてほしい。「土木」は女性を待ってます。

多くの女性が現場で輝いていたころのことを思い浮かべながら。

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3K考

2021年07月27日 | 土木の仕事

きつい

きたない

きけん

言わずと知れた「建設業の3K」である。

そして、これを打破するべく国土交通省が打ち出したのが「建設業の新3K」。

給与

休暇

希望

うん、最後の「希望」を除けばわるくはない。

「希望」のどこがわるいの?

というそこのアナタの疑問はごもっともだ。しかし、正真正銘業界の構成員かつ生来ひねくれ者のわたしなぞは、そこに正面切って「希望」と入れられると、ただいま現在のところがまったく希望を持てない業界なのだよ、と捉えてしまい存在価値を全否定されたようで、いささか悲しくなってきてしまう。

だがそれはそれ、「新3K」の内容そのものは置いておこう。ことはその内容の是非ではない。そもそも、わざわざ「新」という前置きをつけて「現3K」に対抗させようという前提には、「現」がよろしくない状況であるという認識がなければならない。

そうだろうか?

いつもいつもわたしは思ってきた。

「きつい」のが「きたない」のが「きけん」なのが、それほどわるいことだろうか。

もちろんのこと、わたしはそう思っていない。

 

まず「きつい」とは何を指して「きつい」のか。

たぶんこの場合の「きつい」は、身体的なそれを指しているのだろうと想像する。だが、肉体的に「きつい」にせよ精神的に「きつい」にせよ、それは「仕事」というものにはある程度つきものである。たしかに「きつい」か「きつくない」か、どちらが好ましいかと言われれば、わたしとて「(どちらかといえば)きつくない」方に軍配をあげるが、好むと好まざるとにかかわらず「きつい」は仕事につきものである。いや、いわゆる「ビジネス」あるいは「仕事」であるとないとにかかわらず、生きていくというのはそういうものだ。そんななか、「きつくない」という道を選択したいのは理解できないでもないが、どの道、「きつい」が身の上にふりかかってくることを避けることはできない。

そうそうそういえば、東京オリンピックもたけなわである。あそこに立っているアスリートたちの「きつい」を克服した肉体や精神の強さを、それを見た人たちはどう言うだろう。褒め称えこそすれ、蔑む人はおそらくいないはずだ。それなのになぜ、「きつい」を一方的に悪者あつかいするのか。その思考回路は、あまりにも短絡的にすぎている。

「危険」はどうだろう。

それはもちろん、できる限り勘弁願いたいものとしてある。その思いはわたしとて変わりはない。

たしかに、そこらかしこに潜在的に危険があるのが建設現場というものだ。危険に遭遇することは現実として多くある。だが、どんなに危険な現場でも、でき得る限りのリスク回避策をとって仕事をするのは常識だ。

身近な例で恐縮だが、いつのまにか危険をかえりみない男と認知されている(らしい)わたしがそうだ。結果として「命がかかった」ことは幾度もあったが、「命をかけて」仕事をしたことは一度たりともない。いついかなる場合でも、危険は回避しなければならない。それが、わたしたちの職業である。さらに言うと、業種別の年千人率(1年間の労働者1,000人当たりに発生した死傷者数の割合を示すもの)を見ても、建設業より高い位置にある業種は一つやふたつではない。つまり、一般に思われているほどに現在の建設業は危険ではないのである。

「汚い」という表現には確とした悪意がある。

ではそれを、同じ意味である「汚れる」という語彙に言い換えてみたらどうだろう。「汚れる」ことがわるいことだろうか。たしかによろしくないと考える人はたくさんいるかもしれない。では、高校球児のユニフォームがヘッドスライディングで汚れた姿を想像してみてほしい。あれを見て「汚い」と表現する人はそう多くはいないだろう。あれは賛美の対象でこそあれ、侮蔑のそれとして存在することはない。

「汚れる」イコール「汚い」という悪意の言い換えに、無自覚のうち呑みこまれてはならない。

とはいえ、今そこにある深刻な人材不足を打開するためには、それを改善していくことが必要なのは百も承知二百もガッテン。ただただ「3K上等」と居直るつもりは毛頭ない。ただ、それを否定しきってしまうのは、わたしたちの大切な部分を捨て去ることと同義ではないかとわたしは思うのである。

以上、わたしの「3K考」。

折にふれぼんやりと考えていたこのことを、あらためて言語化してみなければいけないと思ったのには、あるキッカケがあった。今日、Facebookに知人が投稿した写真とそれについていたキャプションが、とても素敵だったからである。

 

 

 

 

株式会社九建さんより許可を得て掲載)

 

******

毎日毎日泥まみれ。

人のために、街のために、未来のために。

******

 

わたしたちが拠って立つのはどこなのか。どういうスタンスをとらなければならないのか。それがこのキャッチコピーにあらわれている。

なにより格好いいのは、それを肩肘はらずにさりげなく表現していることだ。

 

「3K上等」

などと言いながら、ややもすれば行政が主導する「脱3K」に軽いノリで追随してしまうわたしの肩を軽く叩いてウィンクひとつ。

「あかんやないか」

そんなふうに言われた気がして、スキンヘッドをぼりぼりと搔く辺境の土木屋63歳と7ヶ月。まだまだである。

 

 

 

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災害対応の現場を思う

2021年07月07日 | 土木の仕事

熱海の土石流災害の件について。

まずもって、ありきたりの言葉で申しわけないが、亡くなった方のご冥福を祈るとともに、被害にあわれた方々にお見舞いを申し上げたい。

衝撃的な映像ではあった。

なぜそうなったのか?

なにが原因なのか?

その疑問は、この仕事にたずさわる人間として当然持つものであり、ましてや、わたしのような「土」や「山」にかかわることを多くしてきた技術屋であれば、土石流、頂部に盛土、とくれば、その原因を知りたい探りたいのはやまやま。いわば土木屋の性(さが)である。早急にそれを調べようとすることを否定することはできない。

一方、なにをさておき「わかろうとする」指向を持つマスメディアは、それと同時に、「わかった」ことを「伝える」ことを商売としている。その矛先が、ほぼ例外なしに犯人探しに向かうのは、現代日本のマスコミが持つ病理ではあるにせよ、「わかろうとする」そして「わかった」ことを「伝える」ことは、情報社会の根幹をなしているといっても差し支えはないだろう。そしてそれもまた、早急に行おうとするのは、あたりまえすぎるぐらいにあたりまえのことである。

しかし、そこで考えなければならないことがある。

それは「今」なのか。

なにをさておいても「今」でなければいけないのか。

起こったことの原因解明とその対案の策定は、将来に向けて必ずなされなければならない。

しかし、まずフォーカスするべきは、その原因たる上流ではなく、結果である下流であり、何より行わなければならないのは、そこでの、さしあたっての問題を解決することである。

余人はいざ知らず。わたしたち土木屋の多くは、そこにある現実の質感を体感として知っている。そのことが真価を発揮するのが、ああいった現場であることを、わたしもまたささやかな体験を積み重ねてきたおかげで、体感として理解している。だからこそ戦力になるのだし、だからこそ価値がある。

ややもすれば、先端技術などの華々しさにだけスポットライトがあたりがちな昨今ではある。たしかに、テクノロジーが解決してくれることは少なくない。だが、本当に尊いのは、その奮闘の真ん中にいる人たちだとわたしは思う。

奮闘中の同業者の姿は、あいも変わらずマスコミの報道からはうかがい知ることができない。だが、これもまた余人は知らず。私たち土木屋は、われと我が身に置き換えると、その姿が当たり前のように目に浮かぶ。

名もない土木屋たちの名前は残らなくてもよい。とはいえ、なにがそこで起こり、どういった人たちがそれをしているかが知られないままでよいはずはない。

マスメディアにそれを期待するのが無理なのであれば、自ら発信するしか道はない。

修羅場にある人たちが、そのまっただなかの今この時に、そんな場合ではないのは百も承知。また、たとえ同業者であろうと、遠く離れた土地で傍観している身がエラそうなことを言う資格は、たぶんない。

そんなこんなをないまぜに、あすはわが身と思いつつ、同業諸氏の健闘を祈っている。

 

 

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料理する人

2021年05月20日 | 土木の仕事

新潟のハムさんが、フェイスブックで玉村富男『料理の四面体』に記されている一文を紹介していた。

又引きしてみる。

 

******

“料理“とは、料(はか)り理(おさ)めるという意味の言葉だそうである。“調理“ともいうが、この調という字も料とほぼ同じ意味だという。つまり、ものごとをはかりおさめるのが料理であり調理なのだ。
ことは食物にかぎらない。
与えられた条件の下で、なにをどうすればいちばんいいかをバランスよく判断し、その判断に基いて合理的に行動し、最善の結果を得て一件を落着させる、というのが、
「料理する」
ということの意味なのである。

******

 

まさに、これをなりわいとするのが、わたしたち土木(現場)技術者である。

ためしに、次のような文章を考えてみた。

一流の土木(現場)技術者たらんとするのであれば、「与えられた条件の下で、なにをどうすればいちばんいいかをバランスよく判断し、その判断に基いて合理的に行動し、最善の結果を得て一件を落着させる」ことを心がけること。

ぴたりと当てはまった。

してみると、わたしたちは「料理する人」ということになる。

「土木(現場)技術者=料理する人」

よいではないか。

思いつきにひとり悦に入る辺境の土木屋、63歳ともうすぐ5ヶ月。

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続々・土木作業員〈考〉

2021年05月15日 | 土木の仕事

マスメディアにおける「土木作業員」という呼称について考えていた過程で、おそらく根はおなじなのだろうと推察したことがある。以下、「****」にはさまれている部分は、「土木作業員」という「肩書き」がマスコミの恣意的なものでもなんでもなく、単に警察発表のコピペだったという事実がわかる前に書いた一文である。

******

わたしを含めたわたしたち業界人は、ややもすれば、自分たちは特別に白眼視されていると思いがちだ。「土木作業員」という呼称に敏感に反応するのも、そのあらわれである。しかし、考えてみれば、それは「土木作業員」だけではない。

こう言うと意外だろうが、そして、それはちがうだろうと反論されるだろうが、わたしは、それが顕著にあらわれた一例を、いわゆる「池袋暴走事故」に対する報道にみる。

思い起こしてみてほしい。あの事故で過失致死傷の罪に問われている被告の姓名の前には、必ずといってよいほど、「旧通産省工業技術院の元院長」といった肩書がつけられている。こう書くにあたり、あらためて過去のニュース記事を検索してみたが、実際にほとんどそうだった。思わず肩書と書いてしまったが、正しくいえば肩書ではない。元肩書である。なぜ元肩書なのだろう。本来ならば「無職」とつけるのが筋ではないだろうか。わたしはあれに、作為的なものを感じてならない。

誤解しないでもらいたいが、ここでわたしが言いたいのは、あの事故の本質ではなく、被告の善悪でもない。「土木作業員」と「旧通産省工業技術院の元院長」は、一見なんのつながりもなく、むしろ対極にあるようだけれど、マスメディアが犯罪の容疑者や被告につける肩書や職種の恣意性という一点においてその本質は同じだと指摘したいだけである。

そこには、きのう公開した数ヶ月前の拙考のように「空気」というぼんやりしたものではなく、なんらかのはっきりとした意図が存在していると考えるのがふつうだろう。わたしはしかし、やはりそれは積極的な意図ではないと推測している。「空気」が書かせた、というほどおぼろげなものではないが、意図的ではあるが、積極的な悪意を含んだものではない。そのようなものであるという気がしてならない。

忖度とでも言おうか。

といっても、いわゆるモリカケ事件以来、巷間よく使われるところとなった用い方とは異なり、世間一般はこういう表現を欲しているだろうという憶測にもとづいた、世間一般への忖度である。「空気」への忖度と言い換えてもいい。

もちろん、その「空気」や、そういうものがあるかないかすら実際のところは判別しかねるいわゆる「世間一般」、というものをつくっている代表格が、新聞をはじめとするマスメディアであることはあきらかだ。そうであれば、十分に意図的だと言ってよいのだが、実はそうでもないような感じがしてたまらない。つまり、そこまで深く考えてはいないのではない、わたしはそう推察するのだ。

断っておくが、それだからよいというのではない。

むしろ、そちらのほうがタチがわるいのかもしれない。

とはいえ「そういうもの」である以上、肩書や職種の表現にこだわって、そこにのみ論点を集中するのは得策ではない。ことは、「土木」に向けられた謂れなき中傷であるというよりも、(わが国の)現代マスコミがもつ病理かもしれないからである。

ではどうすればよいのか。

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ここから先、わたしが「土木作業員」問題に対して、うんうんうなりながらだした解決案につづくのだが、きのう記したとおり、そして本文の冒頭にも書いているように、「土木作業員」についてはわたしの憶測に過ぎなかったというのが事実である。ゆえに、その結論はお蔵入りだ。

 

ところで、じつは例の記者さんには「元院長」の件も質問していた。前述しているように、問題の「根っこはおなじ」だと感じていたからだ。

そして、「土木作業員」についてとおなじように、用語担当者からの回答も添えられていた。「土木作業員」とは異なる答えだった。読者の関心が「旧通産省工業技術院の元院長」という肩書きにあるからそうしているという。

となると、「空気への忖度」というわたしの指摘も案外的を射ていたのかもしれない。「空気」。しかもそれは誰あろう、それに忖度するマスメディアそのものが、自らの行為によって増幅し醸成させているものである。

「土木作業員」という呼称を作為的で悪意に満ちたものだと受け取るわたしを含めたわたしたち業界人は、それとおなじ土俵で「旧通産省工業技術院の元院長」にも異を唱えなければならない。かたやいわゆる「上級国民」だからよくて、こなたは謂れなく貶められている職種だからわるいというのでは片手落ちである。「謂れなく貶められている」という認識があるのであればなおさら、そういうことに敏感でありたい。その感性を抜きにしては、「わたしとわたしの環境」は救えない。

 

 

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