答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

ふりかえり

2017年06月05日 | 三方良しの公共事業

沖縄のカンファレンスで一席をつとめた翌週、一昨年以来2年ぶりの鹿児島遠征に向かう。

いろいろなやり取りをしているなかで、主催者さんが送ってくれた拙稿の引用がこれだ。

 

中小公共建設業は長い間、戦後の日本経済の根幹ともいうべき部分を支えてきました。その役割とは、国の富を地方の津々浦々まで再配分するシステムの末端、いわば「毛細血管」としてシステムの重要な部分を担うことでした。

 そのシステムの構成員としての中小公共建設業の一員である私たちが、「お客さんは誰か」などという問いを自分に発することなどは、まったく必要のないことでした。私たちは良くも悪くも、「政策」で生み出され、「政策」を頼り、「政策」のなかで生きてきたからです。

 そして今、この業界はその役割を終えようとしています。いやもうすでに役割を終えてしまっているという見解もあるでしょう。

(略)

 しかし私は、この業界に存在意義がなくなったなどとは、これっぽっちも思っていません。中小公共建設業という業種そのものが消滅することはないと信じていますし、相変わらず住民の暮らしにとって(立場を変えれば私たち自身がそうなのですが)、なくてはならない仕事だと思っています。

(2010年2月9日鹿児島建設新聞『未来への地図・きばれ建設業4』より)

 

 仕事がないのを「政治」のせいにするのも、仕事が進まないのを「役所」のせいにするのも、成長しないのを「若い人」のせいにするのも、全て思考の根本は同じです。それならば、「他人のせい」にせず「自分から変わる」こと、そして「常に変わり続ける」ことが必要なことなのだと考えたのです。

 先人たちが営々と積み重ねてきた過去のおかげで、今の私たちがあります。かといって、その延長線上に未来があるわけではありません。

 「今という時代」の中小公共建設業が、信頼を再構築するにはどうしたらいいのか。過去の延長線上に未来を見ることなく自分から変わること。そして動きながら考え抜く。そのことから問題解決の可能性を見つけたいと、私は思うのです。

(2010年6月15日『同20』より)

 

「あのころはよかった」と過去におぼれるのは厳に戒めるべきだが、「ふりかえり」は「あしたのために」必要かつ不可欠な行為だ。

そういえば、今月末行く宮城県で主催者としてわたしを待ち受けるヒゲブチョーは、6年前、東日本大震災の約1ヶ月前に聴いた拙話が(念のため言っときますが説話ではありません)、いまだに忘れられないと言う。

7年前、鹿児島建設新聞に書いた連載を読み返し、6年前、仙台で話した際に使ったPPTを見返し、忘れていたこと、ブレずにつづけて持ちつづけていること、などなどを再確認した。「ふりかえり」の結果としての「気づき」である。

そして、その「気づき」を最後のピースとし、PPTの作成が完了。

いざ、沖縄へ。

(と言いながら、いつものように直前まで修正するんですケド)

 

 

ちなみに、鹿児島建設新聞連載『未来への地図・きばれ建設業』はここで読めます。

↓↓

http://www.sanpouyoshi.jp/torikumi/torikumisiryo.html

 

興味がある人はどうぞ。

 

 

 

 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『三方良しの公共事業推進カンファレンス2017沖縄』で使うパワポを作成中

2017年06月03日 | 三方良しの公共事業

6月9日に開かれる『三方良しの公共事業推進カンファレンス2017沖縄』で使うパワポを作成中。

なにせ生まれて初めての基調講演なもんだから、格調高いプレゼンテーションを、と意気込んでいる。

というのは真っ赤なウソ。

いつもの泥臭い一席になるしかない。


そのスライドの一部。

 

 

 

名作『泣いた赤鬼』(浜田廣介)のラストだ。

ウケねらい、でも、笑いとり、でもない。

本人は大まじめでつくっている。

題して『信頼をつくる「三方よし」のモノづくり』、いかが相成ることとなりますか。



 

 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『三方良しの公共事業推進カンファレンス2017沖縄』で基調講演を仰せつかっていること

2017年05月17日 | 三方良しの公共事業

 

11回目を迎える「三方良しの公共事業推進カンファレンス」。今年は沖縄での開催だ。

第一部の基調講演には、ナ、ナント、不肖辺境の土木屋59歳の名が。

そう、今年は大役を仰せつかってしまったのだ。

 

とかナントカ言いつつ、結局のところはいつもと同じ熱苦しいプレゼンテーションしかすることができない。

であれば、セーブすることがない熱いやつを。

しかも、沖縄の暑さに負けないくらい熱いやつを。

やれたらいいが・・・

やれるかな・・・

(と、徐々に弱気になってくる)

 

ともあれ、乞うご期待。

 

 

 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自利」が転じて「利他」となる

2017年04月07日 | 三方良しの公共事業

近ごろは本を読む気がしない。読み始めてもすぐ飽きてしまう、と表現したほうが適切だろうか。「アタリにめぐり合わない」というか「ハズレがつづく」というか。そうなるとストレスがたまってきて、「読む」のがひとつもおもしろくない。

言うまでもなく、本のチョイスが悪いのだ。たぶんそういう気分(根気がない、あるいは持続力がない)であるにもかかわらず、興味と好奇心だけでなんでもかでもに手を出すからこうなる。

こんなときは気分が落ち着くジャンルを読もう、ということでマイKindleライブラリーから選んだのが『般若心経』(佐々木閑)。いや正しくは、落ち着くかどうかはわからんけれどなんとなく落ち着きそうな雰囲気がしたからチョイスした『般若心経』を読む。

 

NHK「100分de名著」ブックス 般若心経
佐々木閑
NHK出版

 

このなかで興味をひかれたのは、本題の般若心経そのものの解説ではなく、「自利」と「利他」について書かれている部分。佐々木さんは、釈迦の教えの最大の特徴を「自利」、つまり、自分の心の苦しみを自分の力で解決する「自己救済」にあると解説し、「自利(自己の救済)」が「利他(他人の救済)」に転じるという。それに対して、多くの大乗仏教(ちなみに日本はほぼ完全な大乗仏教国です)の特徴は、「利他」=「他者のため」にあり、その差異が生まれた原因を「釈迦の仏教」が持つ峻厳さにあると書いている。

そして、わたしの蛍光灯がピカッと光ったのは、そこからまだ脇道へそれたこの一文だ。

 

 余談ですが、「自利」と「利他」は最近いろいろな分野で注目されていて、科学の世界でも、この言葉を用いていろいろな議論がなされています。ところが、日本人は利他というと「自己犠牲」の利他ばかり考えてしまい、「釈迦の仏教」のような「自利の産物としての利他」はなかなか思いつかないようです。たとえば自然界の生物は一般に他を押しのけても自分が生き残ろうとすると考えられがちですが、なかには働きバチや兵隊アリのように女王のために自分の身を粉にして働くものがあります。それを即座に「利他的な遺伝子プログラムが存在する」と表現したりするのですが、果たして本当にそうでしょうか。私は、その行為は必ずしも自己犠牲の利他ではなく、「本来は自分のためにそうする」という「釈迦の仏教」的な「利他」が働いているのではないかと思うのですが、まだ概念が熟していなくて混乱があるようです。(位置No.1058~1066)

 

「自利が利他に転ずる」

「自利の産物としての利他」

まず「利他」があるのではなく、まず「自利」があり、「自利」としての行為が「利他」を産み出す。もちろんそれは偶然で産みだされたものであってはなんにもならず、「自利」の向こうにある「利他」は、いつもいつでも視野に入ってなければいけない。

「般若心経」という本筋からいえば文字どおり余談ではあるが、わたしにとっては大きなヒントとなった。

もちろん、「(わたしの)三方良しの公共事業」にとってである。

 

 

ということで、今回は正しいチョイスなり。

しばらくは「仏教」で攻めてみようか、などと考えている。

 

 


  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸の肥やし

2017年03月08日 | 三方良しの公共事業
NHK落語名人選100 61 初代 三笑亭夢楽 「三方一両損」
 
ユニバーサル ミュージック

 

5日前、「三方一両損」について利いた風なことを書いたが(コチラ→『三方一両損でもいいじゃないの』)、よくよく考えてみるとその元となる落語はきちんと聴いたことがない。

ということで、三笑亭夢楽演ずるところの「三方一両損」をAmazonに注文。届くとさっそく繰り返し聴いてみた。

ん?ちょっと待てよ。たしかYoutubeには落語の動画がたくさんあるはず。

と思いつき、のぞいてみると、あるわあるわ。アリャアリャこりゃわざわざ買わなくてもよかったんじゃないか、と気づいたがあとの祭り。

けどまあいいと気を取り直し、「三方一両損」を聴き比べてみるとしよう。

 

柳家小三治 三方一両損

 

立川志の輔「三方一両損」

 

立川談志 三方一両損

 

古今亭志ん朝 「三方一両損 」

 

八代目 三笑亭可楽 「三方一両損」

 

いったい何をするつもりか?といぶかしがるそこのアナタには、

「芸の肥やし」

とだけ答えておく。

聴き比べ「三方一両損」なのである。



  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三方一両損でもいいじゃないの

2017年03月03日 | 三方良しの公共事業

メモ帳がわりの測量野帳に殴り書きされていた短い言葉。

「三方一両ぞんでもいいじゃないの」

見るなり苦笑を禁じ得ない。ただでさえ悪筆なのが酔って書いたときた日には、とても見られたもんではない。ミミズが這ったような字とはこのことだ。だがまあいい、誰に見せるもんでもないさ、と気を取り直し、そのときの会話の内容を思い出してみた。

とその前に、三方一両損について説明しなければならない。三方一両損、ご存知「大岡裁き」のひとつである。

念のため、ご存じない方に『落語の舞台を歩く』(第37話)を参考にあらすじを紹介する。

 

白壁町の左官の金太郎が、あるところで財布を拾う。なかには印形と書き付けと金三両が入っていた。

書き付けから神田竪大工町、大工の吉五郎と分かり届けてやると、吉五郎、鰯の塩焼きで一杯呑んでいた。

「勝負!」

と言いながら中に入る金太郎。

「落とした財布を届けてやった」

「書き付けと印形は俺の物だから貰うが、三両はもう俺のものじゃない。テメエにやるから持って帰ぇれ」

「金を届けてけんかを売られりゃ~世話がねぇや。」

「よけいなことをしやがる」

「なんだと~!」

けんかになり、大家が仲裁に入るが、吉五郎は受け取るどころか大家にも毒ずきはじめる。言われた大家も我慢がならず、

「大岡越前守さまに訴えて、白州の上で謝らせるのでお引き取りください」

ということで金太郎、帰ってくる。

今度はその話を聞いた金太郎の大家、

「おまえの顔は立ったが、俺の顔が立たない。こちらからも訴え出てやる」

双方から訴えが出て、御白州の場へ。

吉五郎も金太郎も三両はどうしても受け取らないと言う。

そこでご存知大岡裁き。

 「ならば、この三両を越前が預かり、両名に褒美として金ニ両ずつ下げつかわす」

「金太郎がそのまま拾っておけば三両、吉五郎がそのまま受け取れば三両、越前守そのまま預かれば三両であるが、越前が一両を出して双方にニ両ずつ渡したから、三方一両損である」

これにて一件落着・・・


大岡越前 第一部 [DVD]
クリエーター情報なし
竹書房

 

という話である。

さて、検証してみよう。まず大岡越前。この場合、お奉行さまが一両損をしたのは明確だ。3-(2+2)=-1である。次に大工の吉五郎。彼にはふた通りの解釈ができる。三両あったものが二両に減ったので一両損という解釈と、三両をなくなったものと考えれば二両返ってきただけでも御の字、一両損というのは過剰評価だという解釈だ。つづいて左官の金太郎。拾った三両を丸々もらうことができず、それが二両になったからといって一両損とまで言えるだろうか。彼については純然と二両の儲けと考えるほうが自然のような気がする。

なんて、訳知り顔で解説する、こういう輩を野暮という。

それを承知であえて書いてみたのは、純然とした一両損は大岡越前守ただひとりで、なおかつ彼は自らそれを発案し自分自身でそれを選択したということを際立たせてみたかったからである。

メモをしたあのときの酒場に戻ろう。

 

「あなたたちが提唱する”三方一両損”がさあ」

「いや”三方一両損”じゃないよ、”三方よし”」

「おんなじようなもんじゃない」

「いやいや全然違うし。”三方よし”は損しないの。みんなが良くなるところを目指すから”三方よし”」

「別にいいじゃない、”三方一両損”でも」

 

「ははあなるほどネ」。目から鱗がボロボロっと剥がれ落ちたわたしはすぐさまメモをした。

「三方一両ぞんでもいいじゃないの」

損という漢字が出てこなかったのはご愛嬌である。

目指すところとしての「三方よし」はそれでいい。しかし、「売り手よし買い手よし世間よし」と三方を区分した場合の「売り手」は、時として損をするものだ。いや、「三方よし」の場合は、むしろ選択的に損をするところから始まると言ってもかまわない。自分に転がり込んでくるであろう儲けを独り占めせずに世間に還元するという選択は、一時的に見れば、利益の損失を選んでいるということである。ただそれが、長期的に見た場合にどうか、持続可能かどうかとなれば話は別だ。信頼や信用という目には見えない利益が、そうすることによって生み出され、ストックされながら持続していく。「三方よし」という商売理念は、そういうものだとわたしは考えている。

ひるがえってわたしたち公共建設工事の構成員はどうか。「住民よし企業よし行政よし」あるいは「地域よし施工者よし発注者よし」と三方を区分した場合の「企業(施工者)」は、もちろん利益がなければ成り立たない。自らの利益を生み出すことを第一義として存在している。だが、だからといってすべてにおいて損をしてはならないかといえば、そうでもなかろうとわたしは思うのだ。「売り手」が時として損をするものならば、「企業」もまた同じである。自ら進んで損を選択することも、ある局所ある局面では必要な一手だ。現場で生まれた信頼を現場でストックしていくためならば、あえて目先の損を選ぶのも重要なのだ。

ここでひとつ断っておく。その損は、強いられたものであってはならない。自ら選択した損でなければならない。だからこそ、その損は明日へつながる。自ら一両損を選択した大岡越前が名奉行たり得たように(って、ちょっとこじつけかな ^^;)。

なんて回りくどい説明をしたが、なにもそれは「三方よし」の専売特許ではない。ジャパニーズ・ビジネスにおいては昔からよくあるモデルだ。そこには、「企業の目的は極大利潤の追及」という今という時代の常識は当てはまらない。利潤を追求するのは当たり前だとしても、その利潤は、少なくとも「極大利潤」ではない。


たとえば、

損して得とれ

あるいは、

情けは人のためならず


なにより、昨今流行りの「ウィン・ウィン」というやつが、どうにも胡散臭く感じられるひねくれ者のわたしだもの、どこかで損してどこかで得して、誰かが損して誰かが得して、という営みのなかで落としどころを探りつつ、結局はみんながより良くなっていこうという筋立てのほうが性に合っている。そしてそのほうが、日本人の性にも合っているとわたしは思うのだ。


であれば・・・・

「三方一両損でもいいじゃないの」

(いやいや、住民の損だけは避けるべきだけど)


あのとき、あの酒場で、瞬時にここまで考えが至ったわけではもちろんない。メモ帳がわりの測量野帳にミミズが這ったような文字で殴り書きされていた短い言葉をもとに、現在の考えをまとめてみただけのことである。この先この考えが、自分のなかでどう展開していくか。

書き連ねているうちに、こんな展開を考えついた。大岡越前のとった解決方法はヒエラルキー・ソリューションで、三方良しの公共事業が目指すのはそれとは逆のコミュニティー・ソリューション、だから「三方一両損」と「三方よし」は似て非なるもの、根源的なところで異なっているのだ、という切り口からスタートし、とはいえ結局「三方一両損でもいいんじゃないの」(いやいや住民の損だけは避けるべきだけど)というフレキシブルな結論に至る、なんて展開だ。しかし、うまく論考がまとまらない。まとまらないうちではあるけれど、とりあえずリリースしてみるべきだと思い本日アップする。

つづきは・・・

いつかまた。

 

 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして「石工の話」アゲイン

2017年02月19日 | 三方良しの公共事業

「より早く」

「より安く」

について書いた。

書いているあいだじゅう、ずっと頭から離れなかった話がある。先日紹介した「石工の話」だ。

土木における「良く」「早く」「安く」を語るとき、この話はとても示唆に富んでいる。

ふたたび(みたびかな?)『庶民の発見』(宮本常一)より引用する。

 

庶民の発見 (講談社学術文庫)

宮本常一

講談社

 

 「しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような・・・・・。そしてそのことだけ考える。つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁はきれる。が、いい仕事をしておくとたのしい。あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末なことはできないものである。まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。また親方どりの請負仕事なら経費の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬかと夜もねむれぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふるときにはわいてくるものだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」。(P.25)

 

じつに正直だ。百万言の美辞麗句やレトリックをもってしても、この石工の独白にはかなわないとわたしは思う。

白状してしまうと、「より良いモノをより早く」などとカッコをつけているわたしも、いつだってこの葛藤のなかにある。

 

ついザツな仕事をする。

経費の関係で手をぬくこともある。

やっぱりいい仕事をしておくのがいい。

結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ。

と思いつつ、

ついザツな仕事をする。

経費の関係で手をぬくこともある。

やっぱりいい仕事をしておくのがいい。

結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ。

 

そんな循環のなかで辺境の土木屋という生業をつづけているのが現実だ。エラそうなことを言えた義理ではない。しかし、そんな自分を棚に上げ、まっとうな台詞を並べ立て威勢のいい啖呵を切ることもしばしばである。まったくナニヲカイワンヤという気がしないでもない。

だが、だからこそわたしは、宮本常一が拾い上げ残してくれた「ある石工のモノローグ」をいつもいつでも心に持ち、「土木のしごと」という営みをつづけていきたいと思うのだ。

やっぱりいい仕事をしておくのがいい。




  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「より安く」について

2017年02月18日 | 三方良しの公共事業

次に「より安く」(きのうの続編です→『「より早く」について』)。

今という時代の消費者マインドを前提として考えれば、これはじつにやっかいな問題である。

ひょっとしたら勘違いされているかもしれないが、わたしはこれまでひと言も「より安く」を是としたことはない。いつの間にか「良く早く安く」が3点セットであるかのような空気が世の中に蔓延してしまったがゆえに、「より良いモノをより早く」を提唱するわたしもまた、その3点セットの信者かのように思われているのかもしれないが、「より良く」と「より安く」は共存し得ないとわたしは思っている。少なくとも、わたしが生業とする公共土木の世界では、共存させてはいけないものだと思っている。

「それはオマエ、矛盾だろう?」と思ったそこのアナタ。その疑問はもっともだ。なぜならわたしは昨日、「より早く」についてこう書いた。

 

公共事業の執行に関わる無駄を省けば自ずから「早く」なるだろう?ということだ。平たく言うと、施工者のわたしや発注者のアナタがテメエらの都合でチンタラやるのを止めて、本当の「お客さん」である地域住民のためを考え、公共事業の最前線たる現場を回していこう、ということだ。


この文脈においては、「早く」と「安く」を置き換えても何ら不都合はない。積極的に無駄を省いて「安く」を追求するべきだ、という筋立ても成り立つ。だがやはりわたしは、公共土木において「より安く」を追い求めるのは危険だと言い切ってしまう。

「賢い消費者」とは、「最少の貨幣で、価値ある商品を手に入れることのできた者」(内田樹)だ。「賢いお買い物」とは、「5円玉1個で自動車を買う」ようなことを言う。極端なことではない。「価値ある商品を最少の貨幣で買う」という行為はどこまでも行っても許されるのが「今という時代」で、むしろそのことが賞賛されてしまうのが、「今という時代の消費者マインド」が醸し出している空気なのである。「良いモノ」は「安く」手に入れることができない、という常識が都合よく置き去りにされている。そんななかで、公共土木において「より安く」を追い求めるのは、とても危険なことなのだ。


「わたしたちのお客さんは住民です」

皆さんご存知のとおり、十年来唱えてきたわたしの決まり文句だ。

「やっかいな問題」はじつはそこ、「住民がお客さん」という考え方のなかにある。「わたしたちのお客さんは住民です」というその住民が「今という時代の消費者マインド」を持った消費者として振る舞うとき、「賢い住民」と「賢い消費者」は同義になるからだ。「賢い消費者」とは、すなわち「より良い」モノを「より安く」買うことができる存在のことを言う。「安く」は「賢い消費者=賢い住民」にとっての至上命題なのである。もう一度言う。そんななかで、公共土木において「より安く」を追い求めるのは、とても危険なことなのだ。

 

そういった風潮のなかで「わたしたちのお客さんは住民です」と言ってしまっていいのか?自分の首を自分で絞めているようなものではないか?わたしが「やっかいな問題」と感じるのはそこである。それに対してわたし自身が出した答えは、「お客さまは神さま」ではないということ。迎合しないこと。わたしをとりまく現実がそんな威勢のいいものではないのは承知で、けれど、いつもどこかに「迎合しないこと」というマインドを隠し持っているという姿勢。そしてその道しるべとして、わが女房殿の師匠であるS先生の言葉、

私はお客さんに媚びないよ、だって私は技術を売っているんだもん

(この文句、気負って言うとカッコ悪いですね、あくまでサラリと言うところがミソ)

を持ちつづけて「辺境の土木屋」を生きることだった。

 

なんだか取りとめがない内容になってしまったような気がしないでもない。じつはこれ、生のプレゼンテーションでは何度も繰り返して話していたことだ。幾度かここでも書いたことがある。しかし、思い起こしてみれば、最近ちょっと端折り気味だった。現実の多くに対しては、笑ってごまかすか、切歯扼腕しつつ涙をこらえて沈黙するしかないヘタレなオジさんではあるが、わたし自身の考えは折りにふれ確認しておくことが大切だと思いたち書いてみた。

我ながら唐突なような気がしないでもない。尾上一哉さんの『地域建設業ーある建設業者の遺書』に触発されたことは間違いがない。感謝したい。

 

 

地域建設業―ある建設業者の遺書
尾上一哉
熊日出版


と、ヤットコサの思いで書いた尻から続編が思い浮かんだ。

ということでつづきは明日、『「石工の話」アゲイン』のココロだあ

(にならなかったらゴメンね)



  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「より早く」について

2017年02月17日 | 三方良しの公共事業

「良く早く安く」は、間に合わせの安物に対しての掛け声である。半永久の寿命が必要な社会資本には、絶対に適用してはならない。(P.87)

尾上一哉さんはその著書『地域建設業ーある建設業者の遺書』のなかで、同様のことを繰り返し書いている。


地域建設業―ある建設業者の遺書
尾上一哉
熊日出版


そして、わが社のモットーは「より良いモノをより早く」。

折にふれて書き、言ってきたつもりだが、ひょっとしたらあまり説明してこなかったかもしれないなと思わないでもない。ということで、「より早く」について書いておくことにした。思いつきついでに、なぜ「より安く」がないかについても書く。

まずは「より早く」。

わたしが提唱するところの「より早く」には2つの意味がある。

一つ目は、「三方良しの公共事業」の旗振り役としてのわたしが考える「早く」。公共事業の執行に関わる無駄を省けば自ずから「早く」なるだろう?ということである。平たく言うと、施工者のわたしや発注者のアナタがテメエらの都合でチンタラやるのを止めて、本当の「お客さん」である地域住民のためを考え、公共事業の最前線たる現場を回していこう、ということだ。

二つ目は、会社の番頭としてのわたしが考える「早く」。プロジェクト遂行における人間の行動特性は、往々にして「より早く」とは逆の方向で表出する。つまりこんな現象だ。

作業日数の見積もりは水増しされる。

ギリギリまで手をつけないことで、せっかく見込んだ安全余裕は結局全部吐き出すはめになる。

そんな最悪のタイミングで最悪の事態が発生する(じつは、当人が「最悪」だと感じてるだけで余裕があれば対処できることが多い)。

優先順位をつけられず、悪いマルチタスキングを行うことによって時間がかかる。

予算と時間はあるだけ使う。

早く終わっても報告しないので遅れだけが伝わる。

などなど・・・

これらの行動特性を排除していけば、おのずから「早く」が実現され、その実現が利益の向上に直結する(ちょっと回りくどい表現だな。つまり「早く」終わらせれりゃあ儲ける、だ)。

しかし、ここで肝要なことがひとつある。「早く」を念頭に置きすぎたり、「早く」だけに固執するあまり、品質をおろそかにしていては、「信頼」や「信用」という、目には見えないけれど長期的にはとても大切な利益(いち企業だけの利益にとどまりませんネ)を得ることはできないということだ。この意味において、わたしのなかで2つの「早く」は同等となる。そして、「より早く」と「より良く」も共存できる(ただ、オーバースペックは必要ないというのがわたしの考え)。むしろ共存しなければいけないと言ったほうが適切かもしれない。


次に「より安く」。

今という時代の消費者マインドを前提として考えると、これは少々やっかいな問題である。


とここまで書いたが、あいにくと今日は時間がない。

ということで、つづきはまた明日。『「より安く」についてのココロだあ

(にならなかったらゴメンね)



 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身体性を伴った行為としての「三方良しの公共事業」

2017年01月26日 | 三方良しの公共事業

ちょっとした気づきがあったので備忘録として書き留めておく。

昨年11月25日、『「接待」というマインドから「三方良しの公共事業」を考える』というお題でテクストを書いた。わたしにしては、かなり長文のテクストだが、意味がつながらないので全文に近いものを引く。再掲、と表現してもいいようなものになるが読んでほしい。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

我々は、公共事業を通じて国民の安心と国土の安全を守り、より良い社会を築くことに貢献するという重責を、改めて強く心に刻む。

発注者と施工者が、社会に最大の利益をもたらすために、「良いもの」を「より早く」提供することを目指して、一致協力し、全力を挙げて公共事業に取り組む。これによって、住民、発注者、施工者の三方に利益をもたらし、ひいては財政の健全化にも貢献する。

我々は、この「三方良しの公共事業」を力強く推進していくことを、ここに宣言する。

 

2007年、「三方良しの公共事業改革フォーラム」で以上の宣言が出された(じつはわたし自身も事例発表者として末席におりました)。これだけでは、なぜ「財政の健全化にも貢献する」のかわからない。

岸良裕司氏の『新版三方良しの公共事業改革』(日刊建設通信新聞社)に、Future Reality Tree の手法を用いて分析したその因果関係ロジックが書かれているので引用する。やや長いが我慢して読んでほしい。

 

新版・三方良しの公共事業改革

岸良裕司

三方良しの公共事業推進研究会

日刊建設通信新聞社

 

もしも、One Day Response プロジェクトを行い、発注者が迅速に建設業者に対して問題解決策を実行するなら、公共事業の成果物がより早く完成する。また、建設業者も無駄な手待ちがなくなり、厳しいなかでもより利益を出せる方向になる。さらには、1日で返事するためには、発注者の担当の監督官が迅速に対応しなければならず、これが行政に携わるものとしての実務能力向上につながる。さらに、より早く成果物としてのインフラが完成すれば、納税者・住民も喜ぶ。納税者・住民が喜べば、建設業者も喜び、行政マンとしてのやりがい・はりあいが増す。さらにより早くインフラが完成すれば、経済効果が早くあらわれ、地場の経済も活性化する。One Day Response プロジェクトによって発注者と建設業者の連携が強くなれば、成果物の品質が高まり、また建設業者の施工品質が上がる。建設業者の施工品質が上がれば、質の高い工事を行うことによって、実績が積み重ねられ、『公共工事の品質確保の促進に関する法律』(略称『品確法』)時代の新しい入札方法に対応できるようになる。建設業者が新しい入札方法への対応について問題がなくなれば、提案力と実績で発注者が建設業者を選択できるようになる。良質なインフラがより早く提供され、より早く経済効果を発現し、かつ建設業者が利益を上げられるようになれば、税収が増え、良質なインフラを提供しながら、財政再建が実現されるということになる。(P.106~108)

 

ふ~っ。

ちなみに2007年にわたしが初読したときの感想は「そんなウマイ話はないやろ~」だったが、ともあれこれが「三方良しの公共事業」の、いわば原点である。つまり、その成立時点で「三方良しの公共事業」と近江商人の「三方よし」との関連性は直接その理念で結びついたわけではなく、このロジックを、近江商人の「売り手よし買い手よし世間よし」に習い「住民よし企業よし行政よし」と呼び「三方良しの公共事業」と名づけたということだろう。

いずれにせよ画期的なことには違いない。

何より、発注者と受注者という二項対立的関係に「住民」を登場させたことは特筆すべきだ。

だが、いささかこのロジックは我田引水的だ。「望ましい未来」なのだからそれでも構わないのかもしれないが、それではわかりにくい。

ということでわたしが一貫して引用してきたのはこっち。

 

工事目標をしっかりと「すり合わせ」をして、

「住民の安心・安全」のために、

みんなの知恵を使って「段取り八分」の工程表をつくり、

「責任感」を共有し、

発注者と建設業者が「チームワーク」で、

手遅れになる前に、早めはやめに手を打つ「先手管理」で、

「お互いに助け合い」ながら、

「良いモノをより早く」つくっていく。

(同、P.129)

 

「住民よし行政よし企業よし」の三方の最上位に公共事業の真の発注者たる住民を位置づけている。その上でわたしは、「わたしたちのお客さんは住民です」と宣言することによって、「何のため誰のため」という対象を明確にして公共工事をしていこうと呼びかけてきた。

だが、具体的に落とし込んだつもりでも、まだまだそれは理念にすぎない。理念はたいせつだが、このわたしでさえが、日々それを意識しつづけて公共土木という仕事をしているわけではない。三方良しの公共事業をさらに広く展開していくためには、もっとくだけた具体的な落とし込みが必要だ。

「どうしたもんじゃろの~」とぼんやり考えていたとき、こんな話を聴いた。「三方良しの公共事業推進カンファレンスin四国2016」での寿建設森崎社長の発表だ。当時、わたしが当ブログに記した見聞記の一部を引っ張り出してみる。

 

 

森崎さんいわく、

発注者や住民のみなさんを「喜ばせる」という考え方が結果的に「三方良し」につながる。

わたしは、この言葉に「凄み」を感じたのだ。

そしてその社内展開としては、たとえば毎月実施する幹部パトロールで現場の取り組みを喜んであげる、それをイントラネット上の掲示板にアップして社内で共有する、その繰り返しが習慣となり訓練となり、「発注者や住民のみなさんを喜ばせる発想を養う」。

もちろんそういうわたしとて、

 

 

こんなふうなことを繰り返し言ってきた。

だがこれはあくまでも、本業であるモノづくりを通じて「たくさんの人に喜んでもらう」であって、「泣かす笑かすびっくりさせる」挙句に「喜んでもらう」などという発想は毛の先ほどもない(毛もない)。

ご本人はそのキャラクターそのままに、笑みを浮かべながらひょうひょうとそれを語るが、聴いているわたしは背筋にぞくぞくっという感覚が走るのを感じていた。

 

 

そしてこの発想をもっと具体的にさせるのが、きのうの話。

「接待」である。

 

「ない仕事」の作り方
みうらじゅん
文藝春秋


文中何度か「接待」について書かれている。

いわく、

 

雑誌の仕事の場合、編集者に気に入らなければ、仕事はきません。

最初に単発の仕事を頼んでくれた編集者がいたとします。当然、自分の何かを面白がってくれたから依頼がくるわけです。だとしたら、自分のやりたいことはとりあえずさておき、その編集者が喜ぶような仕事をしなければなりません。

仕事は読者や大衆のためにやると思う人もいるかもしれませんが、前述した通りそれでは、逆に仕事の本質がぼやけます。

そして編集者が最初の仕事を面白がってくれれば、やがてそれが連載へと繋がるかもしれません。

そのためにも必要なのが接待なのです。(P.85~86) 

 

みうらさん言うところの「接待」は、飲ませる食わせるを含んだ実際の行為であると同時に、「接待」という概念でもあるとわたしは読む。

それは例えば、こういうセンテンスに表れている。


余談ですが、このとき、面接は「接待」だと思い、面接官を気持ちよくさせることを考えながらしゃべったことを、覚えています。もしこれから就職や転職の面接を受けるという方は、「面接=接待」だと思って挑んでみてください。(P.154) 

 

現場監督の山岸さんは、現場の近所の森崎さんや◯◯土木事務所監督職員の阿部さんを喜ばせる(気持ちよくさせる)。

◯◯土木事務所監督職員の阿部さんは、現場の近所の森崎さんや現場監督の山岸さんを喜ばせる(気持ちよくさせる)。

「なんでわざわざそんな面倒くさいことを考えて仕事をしなきゃいかんのよ」とお思いのそこのアナタ。日々の業務多忙のおり、ご腹立ちはごもっともだが、それが君やアナタや彼や彼女の仕事をうまく進めていく基となる。

まずは、他人を喜ばせることを考える。他人とは姿かたちを持った個人としての森崎さんや阿部さんや山岸さんだ。そしてそのことによって自分もよくなる。

「誰のため」と問われたら「自分のため」

「何のため」と問われても「自分のため」

と答えても何らかまわない。


もちろんわたし自身はこうありたい。

近江商人の「三方よし」も、まさに「まず、人を喜ばせよう」なのです。初めての土地で商売をさせてもらうときに、まず、自分の利益を優先していたら信用してもらうことはできません。それより、“先に”お客様を、世間を喜ばせることを考え、実行する。これが大事なのです。(『他助論』清水克衛、Kindle版位置No.1218)

 

他助論
清水克衛
サンマーク出版

 

だが、「自分のため?うん、そんなんもアリですよ」という鷹揚な問題提起も、三方良しの公共事業に広がりを持たせていくためには重要なことなのではないだろうか。

まずは具体的な姿かたちと具体的な名前をもった目の前の人に気持ちよくなってもらう(喜んでもらう)。その先に「住民のため」があり、「住民よし行政よし企業よし」がある。

 

きのうの最後、

「接待」という言葉の含意を読み解いて行き、自分自身の行動に落とし込む。

その先に新たな展開が開けてくる(かもしれない)。

と書いたその「新たな展開」を書き留めておこうと、朝もはよから起きて勢い込んで書き、夕方になってまた書き、けっこう力を込めて書いたつもりが、結局ごくごく当たり前の結論になってしまったような気もする。すでに到達していた考え方でもある。似たようなことは今までも言ってきたし書いてきた。今までと異なるのは、

現場監督の山岸さん

現場の近所の森崎さん

◯◯土木事務所監督職員の阿部さん

という具体的な姿かたちを伴った人を喜ばせる(気持ちよくさせる)。

というところだ。そこがわたしの考え方に欠けていた部分だということに気がついたのだ。

繰り返すが、ごくごく当たり前の結論なのかもしれない。だが、ない頭で考え、それを出力し、ときには堂々めぐりをしながらそれを何年も繰り返してきた上での、今現在のこの結論がわたしにとっては有用だ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

具体的に落とし込んだつもりでも、まだまだそれは理念にすぎない。理念はたいせつだが、このわたしでさえが、日々それを意識しつづけて公共土木という仕事をしているわけではない。三方良しの公共事業をさらに広く展開していくためには、もっとくだけた具体的な落とし込みが必要だ。

とわたしが言う場合の「理念」は、身体性を伴っていないものだ。「理念」、というもののすべてが身体性を失っているとまでは言わないが、身体性を失いがちになるものだ。そして、身体性を失った理念は広がりも説得力も持ち得ない。平たく言えば「ピンとこない」のである。

それに対して、「具体的な落とし込み」という言葉で表現しようとしたものは、身体性を伴った行為である。

その具現化が、現場監督の山岸さん、現場の近所の森崎さん、◯◯土木事務所監督職員の阿部さん、という具体的な姿かたちと具体的な名前をもった目の前の人であり、その人たちに気持ちよくなってもらう(喜んでもらう)その先に「住民のため」があり、「住民よし行政よし企業よし」がある。

 

う~ん・・・

「ちょっとした気づき」とは、「身体性を伴う(失う)」という言葉の発見だった。あることがキッカケで降りてきたこの言葉に、喜び勇んで書いてみたはいいが、別にあってもなくてもイイような、ないほうがより平易でいいような、そんな気もしてきた。

だがこれもまた、ない頭で考え、それを出力し、ときには堂々めぐりをしながらそれを何年も繰り返してきた上での、ただ今現在の到達点。一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。堂々めぐりで終わってしまっては何にもならないが、俯瞰すればきっと螺旋で上がっているのだろうとオジさんは信じている。

以上、ちょっとした気づきがあったので備忘録として書き留めておいた、の巻。



 

  ↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします

 

           

            有限会社礒部組が現場情報を発信中です

 

     

   発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。

 

 

 高知県情報ブログランキング参加用リンク一覧  

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする