思うに今のぼくの「書けない」は、思考したことを綴り、あるいは綴りながら思考をするうちに、論理の筋が外れたりつながらなかったりすることに思い悩み、どうすりゃいいのさと思案したまま脳が立ち往生してしまうことにその多くの要因があるようです。
といっても、なにも飛んだり跳ねたりするわけではないのですが、横っちょに行ったりループしたり、あるいは地下へ潜ってしまったりと、まともに行くことはほぼありません。
推測するに、その直接的な要因は、「書きながら考える」というぼくのスタイルにあるようです。結論ありきで書くのならば、そこに向けてまっすぐ歩みを進めればよいだけなのですが、ぼくの場合はそうではありません。
総じて書き始めはよいのです。しかし、「書きながら考える」うちに、ついていく枝葉に、「ありゃ、これはどうなんだろう」と思い始めたときは既に遅し。当初脳内で描いていた結論には戻れなくなっていることがほとんどです。
結論がまちがっていた場合しかり、結論に向けた推論が、その結論には相応しくなかった場合しかり。いずれにしても、そこでまず立ち往生してしまいます。幸いにして、七転八倒してそこを突破することができたとしても、時としてそれは、さらなる深みへといざなう罠だったりもします。
いや、それがわるいと言っているわけではないのです。ただ、展開に追いついていけない自らの思考と、その主体であるぼくの脳が至らないだけのことなのですから。
そもそも「ものを書く」というのは、考えを整理することにつながる行為です。考えを整理することそのものだと言っても過言ではないでしょう。
このブログをはじめてから十数年。それは、「書く」の訓練であると同時に、「考える」トレーニングでもありました。「書く」に「考える」が追いつかないから「書けない」。「考える」に「書く」がついていけないから「書けない」。どちらがニワトリでどちらが卵かはその時々で変わるにしても、その現状を打開するためには「考える」と「書く」、もしくは「書く」と「考える」をセットとして、もがきつづけるしかありませんでした。
今となっては、たしかにその甲斐はあったと断言することができます。その成果のひとつとして、そこそこ長い文章が書けるようにもなったし、それはすなわち、思考を深め論理を展開することができるようになったということでもあります。ぼくの内では、あきらかにフェーズが変わりました。
ところが、そうなればなったで、また次元の異なる問題が待ち受けていました。
思うにたぶんそこまでは、誰でもが到達できるようなレベルなのでしょう。しかし、何をやるにつけても、どこかで必ず能力不足が露呈する局面がでてくるものです。はたしてそれが、ヤル気と気合、あるいは努力次第でどうにかなるものなのか、それとも、そのようなものでは不足している能力を埋めることができないのか、その判断はちょいとばかりむずかしく、それを打破しようとするのは、なおさら困難なことです。
あきらめるという手はあります。
「大人」というのは、正しくあきらめることができる人のことを差して言うのかもしれません。
目の前に立ちふさがった壁の厚さや高さを確かめもしない内にあきらめるのは論外ですが、それを越えようと足掻いた結果、乗り越えるのは無理、あるいは困難極まりないと判断すれば、正しく撤退し、別の方策を考え実行するひとを、ぼくは「大人」と呼びます。
であれば当然のこと、あきらめきれない自分自身を、そう呼ぶことはできません。少なくともそれは、成熟した大人のすることではないと断じます。
未練だよぉ。
さっさとあきらめなよ。
別の自分がそう声をかけてきます。
しかし、「書く」と「考える」の相互扶助による数々の成功体験を内に抱えてしまったぼくは、それをあっさりと手放すことができません。
かくしてぼくの「下書き」は増殖しつづけていきます。
とはいえ、この稿もまた、その一群のなかから陽の目を見せることができたのですから、やはりあきらめきれないのですよねぇ。