今朝、ブログ編集画面を開くなりまっ先に、左上隅にあるブログ開設からの日数を表示する箇所に目がとまりました。ふだんなら気にも留めないところです。だなのになぜ・・・
理由は、考えるまでもなくすぐに判明しました。
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ブログ開設から6000日。
たまさかの、きれいに丸まった数字にふと思いつき、365で割ってみました。
答えは、16.43835616。
かつてのように「ほぼ毎日」となることは二度と再びないでしょうが、もう少しつづけようと思っています。
以上とりあえず、ご報告まで。
「快男児」「酒豪」「頑固で気骨のある男」など。異骨相(いごっそう)。ならびに高知県男性の県民性を指す言葉。
このタイプの人の性格快男児で頑固で気骨のある男で酒豪=いごっそう。あなたはまさに高知県男性の特長そのものです。自分を大きく見せてしまう傾向があるため時に誤解されることもありますが、弱きを助け強きをくじくシンプルな価値判断と、物怖じしないのびのびとしたその性格のおかげで、結局「憎めない奴だなぁ」で済んでしまうのは、あなたが周囲から愛されている証拠です。
いごっそう(異骨相)とは、「快男児」「進歩主義」「頑固で気骨のある男」などを意味する土佐弁。ならびに高知県男性の県民性。
津軽じょっぱり、肥後もっこすと共に、日本三大頑固のひとつに数えられている。肥後もっこすがやや否定的な意味合いを持つのに対し、いごっそうは、そのように称される本人が威勢を張ることのできる呼称とされる。但し高知市内では想像以上に侮蔑的でネガティブなニュアンスで使われる事が多いため使用には注意を要する。
弱者に対して優しく、行動は大胆不敵にして豪快で、己の主義信念を貫くためには時として、自己より優位の権力を持つ者とも係争する反骨精神を有する一方で、気乗りしないことは行動に移さない。周囲の意見に傾聴せず独断専行し、自説が間違っているとされても考えを改めず議論のための機会を探るといった、議論のための議論を好む傾向にある。自分が考えるように他人が考えたり行動しないと気が済まず、目上の者への気配り、配慮に欠けるという。些末なことは気にせず物事を大きく捉えるため、人間の度量が大きく常識に囚われることもない反面、自分を実際よりもよく見せようとする傾向があると考えられている。物事を曖昧なままにしておくことを嫌い、白黒をはっきりさせたがる傾向にあり、祖父江孝男著『県民性 - 文化人類学的考察』には、その性質は明治維新における過激な尊皇攘夷運動などにつながったといった指摘がある。
高知県の県民性は、男性がいごっそう、女性がはちきんという言葉でよく表される。いごっそうが表す県民性をまとめてみると、行動は大胆不敵にして豪快。はなはだしく頑固、強情で妥協しない。物事を曖昧なままにしておくことを嫌い、白黒をはっきりつけたがる。このような気質が昔からよく言われている。『新・人国記』(朝日新聞社)によると、「がんこで、一徹で、一度こう思いこんだら、はたからなんと言われようとも、金輪際耳をかそうとしない。土佐人の代表的な性格」とある。他に思いつくままに挙げると、わがまま、負けず嫌い、つむじ曲がり、片意地、偏屈、傲岸不遜、大酒飲みなどの特徴がある。
******たとえば、かつて編集者のみなさんと会食中に、お定まりのダイエット談義となり、ついつい話の流れで「デブ」という言葉の語源に及んだことがあった。(中略)しかし、このごろではどうなるかというと、考える間もなく一斉に、ロボットの知識を頼るのである。つまり、考える前に調べてしまう。デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが、どうやら進化を遂げたロボットは、世の中の疑問のたいていをたちまち解いてくれるらしい。はっきり言って、つまらん。それではまるで、ろくに考えもせずにクイズの解答を見てしまうようなものではないか。あるいは卑近なたとえをするなら、翌日の新聞でレース結果を見て、同時にあっけなく散財を知るようなものではないか。科学者はどうか知らぬが、文科系の思考回路を持つ人々は、結論に重きを置かないものである。むしろ、前述のごとく議論の経緯を楽しみ、結論を見ることは何につけても虚しいとさえ思う。しかし、文明の利器は誰彼かまわず結論を提示してしまうのである。むろん便利にはちがいないが、その便利さによって社会が一元的に使用すれば、人間は考える楽しみを失ってしまう。そしてもうひとつ、これは私たちにとって肝心なことだが、世界中の人々が一元的にこの方法をとれば、伝統的な教養主義に支えられてきた日本は、まっさきに脱落し、堕落してしまうと思うのである。札幌からの帰り途、窓側の席でぼんやりと雲海を眺めながら、何を調べるでもなく誰に訊ねるでもなく、そんなことを考えた。人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である。(『見果てぬ花』浅田次郎、小学館文庫、P.046~048)******
******私が「development」の略語説を唱えると、ある編集者は江戸時代の文献にも「でっぷりと肥えた」などの表現はある、と反論した。またある人は、「double chin」すなわち「二重アゴ」だろうと主張した。さらには、「出不精」を略して「デブ」だという説も現れた。議論を戦わすこと数時間、結論は出なかったのだが、たいそう充実したひとときであったと記憶する。もっとも、結論を見る必要はない。想像に満ちた時間は楽しく、なおかつ十数年もの時を経て、本稿の創造にもこうして益するのである。
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******「デブ」という言葉の語源については、確定した由来がはっきりと示されているわけではありませんが、いくつかの説があります。主な説としては以下のようなものがあります。
擬音語からの派生
太っている様子やどっしりとした動きを表現する擬音語「でぶでぶ」「どぶどぶ」などから「デブ」が派生したという説があります。体が重く、動作がゆっくりになる様子を擬音で表現し、それが「デブ」という言葉に転じたと考えられています。 子ども言葉の影響
日本では、子どもが使いやすい簡単な言葉が愛称のように広まることがあります。「デブ」という言葉も、そのような音の響きから自然と使われ始めた可能性が指摘されています。音の響きが軽く、覚えやすいため、口語として広まったと考えられます。 フランス語からの影響
一説には、フランス語の「デブ(debu)」が由来とも言われています。「debu」は「重い」や「重量がある」といった意味があり、太った様子を表す言葉として日本に取り入れられた可能性がありますが、この説には確証がありません。いずれにしても、「デブ」という言葉は口語として定着しやすく、音の響きやリズム感が印象に残りやすいことから広まったと考えられます。******
孔子の時代ですら50才で天命を知るくらいですから、いまの長寿時代なら60才くらいで不惑、70過ぎてからようやく天命を知るのかもしれません。わたしも70代に向けて迷走、道草を楽しみたいと思います。
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(みみした)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず
わたしは15歳で学問を志し、30歳になると、独立した立場を得た。40歳になると、迷うことがなくなり、50歳で天から与えられた使命を知り、60歳になると他人の言葉を謙虚に受けとめられるようになり、70歳になると、思ったように振舞っても道を外れるということはなくなった。
酒債尋常有行處
(しゅさいじんじょうゆくところにあり)
人生七十古来稀
(じんせいしちじゅうこらいまれなり)
道を走りながら どこへ向かうのか
自分でもわからないけど まぁいいさ君も知ってるだろう? 急いで生きる必要はない
だから深呼吸して 気楽にいこう
気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよ街で出会うのは 色とりどりの顔
けど僕はまだ 道に迷ってるそれでも大丈夫さ まだまだ先はある
だから肩の力抜いて 気楽にいこう
気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよいつかどこかで 辿り着けるだろう
それまで僕は ただ走り続けるだけさだから自分を信じて 心軽く
そうさ 気楽に生きていこう
気楽にいこうよ
背中に重荷を背負わずに
そう 流れに身をまかせて
気楽に生きていこうよ
******上海屋唐右衛門(とうえもん)は唐土のとある横町で異国相手に手広く商売をしている大店。新年の祝いには各国の出店から人が集まり、余興を楽しむ。珍しい芸を探せとの命を受けて番頭の金兵衛が旅に出たが山中で仙境に迷い込み、鉄拐と名乗る仙人に遭遇。一息吹けば分身が口から出る一身分体の術を持つと聞いて連れ帰る。宴当日、豆粒大の鉄拐が現れるとやんやの喝采。大評判になり、あちこちからお座敷が掛ると、俺も一山当てたいという御仁が出て来る。見つかったのが、いくら飲んでも酒が出るという瓢から馬を出せる張果老。人気が下火になり、妬んだ鉄拐は張果老の宿に忍び込んで瓢から馬を吸い取った。ところが馬を腹から出す術を知らず「馬上の鉄拐」を吐き出せない。それならと見物を吸い込んで胎内興行に切り替えたところ、「痛い!中で酔っ払いが喧嘩だ」。大きく咳払いをしたら酔っいた二人がころっと出た。誰かと思えば酒豪の双璧李白と阿淵明だったとさ。(東京のイベント情報『古典落語演目「鉄拐(てっかい)」』より)******
******人の心を動かすには、その人がその人自身になるしかない。欠点も、弱点も背負った上で、「私は私です」と、開き直ったその人自身を、見せていくしかないのだと思う。(雨宮まみ期間限定ブログ『東京を生きる』より)******