答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

2020初ライブ

2020年10月15日 | オヤジの情報発信修業

本日は、黒潮町で高知県土木施工管理技士会主催のセミナー講師を務めさせてもらった。

オンラインではない。

ライブだ。

ナント、2020年初である。

ホントか?

にわかには信じられず、いくどか記憶をたどってみたが、やはり「生」でやるのは今年はじめてだ。

と、それがわかったとたん、にわかに緊張しはじめた。

さらに、演壇に立ち、生身の人間が前にいるのを確認すると、よりいっそう緊張感がました。

久々の、といっても一年ちょっとしかあいだは空いてない。

その間、いくつかの「オンライン」もこなしている。

なのに。

ざまあないことこの上ない。

しかし、よくよく考えてみると、「緊張しい」はこれにはじまったことではない。

慣れたとはいえ、毎回毎回、それなりには緊張するのだ。

いつもにはなく、努めてゆっくりとしゃべりながら、久方ぶりの感触を味わっていた。

つごう1時間15分。

よかったのかわるかったのか。

わたし自身が判断することではないだろう。

ただひとつだけ確実に失敗だと言えることは、昼メシ前のひとコマだというのに、時間をほぼ目いっぱい使ってしまったことだ。

そこは、せめて最低5分ぐらいは早めに終わる。

これが暗黙のルールだ(たぶん)。

「コイツわかってないなぁ」

そんな声が聞こえたような気がした。

わたしとしたことが・・・

 

申しわけありません。

もういちど勉強しなおしてまいります (^^;;

 

 

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立つ人 2

2020年10月09日 | オヤジの情報発信修業

撮影:ST

 

きのう、社内情報共有サイトにアップロードされた写真。

期せずして連日手に入った手ごろな教材だ。

調子に乗って今日も講釈をたれてみたい。

 

よいシーンである。

しかし、撮影者にはわるいが、よい写真とは言えない。

とはいえ、よいシーンを切り撮っていることにまちがいはない。

ややこしい表現をしてもうしわけない。

基本的にはナイスショットだと思う。

なによりここには、現場人でなければ撮れない「愛」があるからだ。

だからなおさら、残念だなと思ってしまう。

まずはきのうの例と同様に、「横長」というところがよろしくない。

ここで撮りたいのは、ダウンザホールハンマーそのものと、それを操るクレーンオペレーター、そしてそれを見つめる人だろう。

いずれも、縦、縦、縦である。

縦長にしてやると対象がギュッと引きしまるはずだ。

そして、きのうと異なるのは、ダウンザホールハンマーの役割が単なる額縁ではなく、メインとなる対象のひとつだということである。

したがって、ハンマーの存在はしっかりと主張させなければならない。

とともに額縁効果も担っていただこう。

ということで、編集してみた。

 

 

 

 

全体的に引きしまった写真になったのではないだろうか。

しかし、オリジナルのよい部分がひとつ消えている。

ハンマーから噴きだす水しぶきは、オリジナルの方がよく表現されているからだ。

もう少しハンマーの位置を右に寄せてみるか?

そう思ったが、となると真の主役たる右の人物が切れてしまう。

(あ、あくまでも3:4という縦横比の上では、という括弧つきですが)

と、ある考えがアタマに浮かび、そっちを試してみることにした。

 

 

 

 

モノクロにすることで、上の写真よりは水しぶき感が増している。

そして、台風が接近する気配を感じながらの現場の厳しさ感が、白黒写真にすることで、そこはかとなく醸しだされているのではないか(これはまさにわたしの感覚でしかないんですが)。

とはいえ、1枚目と2枚目と3枚目、それぞれに長所と短所、そして異なる雰囲気があり。そのなかからどれを選ぶかは、きのうも書いたように、あくまでも好みだ。「写真を撮る」という行為は「写真を選ぶ」という行為でもある、とわたしが主張する所以のひとつがそこにある。

再度繰り返すが、エラそうにも「よい写真とは言えない」と評したオリジナルには、なによりもたいせつな「現場人の感性」があることで、けっして「わるい写真」となってはいない。それがわたしが言うところの「愛」である。

これに類する「感性」や「愛」は多くの現場人がもちあわせているはずだ。

 

だからなおさら思う。

現場人自らがそれをしないことは、あまりにももったいないと。

他者に頼むのもいい。

プロに頼むのも否定しない。

むしろ、そちらの方がよいものが残る確率は圧倒的に高いだろう。

しかし、だからといって、現場に身をおく人間ひとり一人がなにもしなくてよいというものではない。

他人まかせからでは、なにも生まれないのだから。

 

「そんな余計なことを」

と思うあなたは、たいせつなことに気づいていない。

なにより、そういった行為を繰り返すことが、土木という仕事にとってもっとも必要な「感性」を磨くことにつながり、それがあなたとあなたの環境を好転させていく力となり得ることを。

構造物という物をつくることだけがわたしたちの仕事ではない。

わたしたちの「モノづくり」は、いわば、「場づくり」のようなものである。

それが「土木」だ。

そんな「土木という道」を選択して歩いているのだもの、(狭義の)技術だけを追求する土木屋でいてもつまらない。

 

あらあら、いつものわるい癖で、ついつい論を大げさにしすぎてしまったようだ。

ま、そんなふうに考えながら「土木」という仕事をするのもたのしいよ、ということである。

騙されたと思って、いっちょ乗ってみてはどうだろうか。

 

 

 

 

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立つ人

2020年10月08日 | オヤジの情報発信修業

撮影:RG

 

社内用現場報告サイトにアップされた写真。

発電機の上に乗って排気の熱で雨合羽をかわかしているの図、なのだそうだ。

ナイスショットである。

なにより、バックホウの運転席にいて、その一瞬をただニヤニヤと笑うだけでなく、カメラへ収めたことがすばらしい。

よくぞ見のがさなかったな、と拍手したい。

だが、そうなるとそうなったで、さらなるグレードアップをのぞんでしまうのだから、おじさんはチト欲ばりだ。

欠点は、人物が対象であるにもかかわらず、全体が散漫になっているところだろう。

「発電機の上に立ち雨合羽をかわかす人」というテーマなら、ここはやはり、人をクローズアップしたい。となると、バックホウのシリンダーが主張しすぎている。そして、「立つ人」を強調するために縦長サイズを採用したほうがよい。

ということで、トリミングで構図を変えてみた。

 

 

 

 

人物がシュッとなり「立つ」という印象が強くなった。

バックホウの黒いシリンダーを残したのは、額縁効果を期待したからだ。

さらにその効果を強調してみたらどうなるだろうか。

もひとつ試してみた。

 

 

 

左上隅に少しだけ写っていた黄色いアームがあると、さらに効果があったと思われるが、縦長だと残すことができない。

ではスクエアにしてみたらどうなるか。

 

 

 

 

それほどの効果はなく、オリジナルと同様に、右側に広がった空間によって人物の印象がぼやけている。

 

さて、どうだろうか。

1枚目と2枚目と3枚目と4枚目、同じ場面を写したものなのに、構図しだいで印象が変わってくる。

どれがよいのか。

好みではある。

わたしはというと・・・

2枚目を採用する。

 

写真というやつは、たぶんに偶然が左右するものだ。

ただ、その偶然に遭遇したとき、シャッターを押せるかどうかまでもが偶然ではつまらない。いついかなる時でも「漫然と撮るべからず」。意識をもって意思をこめて対象にのぞみたい。

とはいえ、動きをもった人や機械を対象とする場合は、花や風景などの静物を撮影するのとは異なり、じっくりかまえて料理するということはできないことがほとんどだ。ましてやわたしたちは、それをするためにそこにいるわけではない。

しかし、その偶然を切り撮るという行為のさなかにおいても、構図を決めるという意識は常にもっていなければいけない。

「そんな悠長なことを」

「ここは現場だぜ」

そうおっしゃりたい気持ちはよくわかる。

なに、そんなときは、この例のように、あとでじっくり加工修正をすればよいだけのことだ。

もちろん、公共工事における記録写真というやつは、加工修正御法度の世界だ。トリミングさえNGというのはいかがなものかと思うが、それをすると大きなペナルティーが生じてくるため、けっして手を加えてはならない。

しかし、そこはそれ、工事写真とは別の写真があってもよいではないか。

いや、なければならないとわたしは思う。

もしこれを読んでいるあなたが、工事記録写真だけが現場の写真だと思っているとしたら、それは大きなまちがいだ。

 

目は口ほどにものをいう。

写真という表現方法には、はかりしれないパワーがある。

活かすも殺すもあなた(わたし)しだい。

かんたんな知識やテクニックぐらいは身につけておいて損はない。

「撮る」から「発表する」というプロセスのどの段階においても、もっとも重要なのが「感性」であるのは言うまでもないが。

 

 

 

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失敗をみとめて晒す

2020年10月06日 | オヤジの情報発信修業

おとなりの馬路村にある「うまじのパン屋」については、3年前に紹介したことがある。

→『うまじのパン屋』(2017.07.11)

総人口724人(2020年8月1日推計)、県内34市町村のなかで2番目に人口が少ない村に、パン専門のいわゆる「パン屋さん」が存在するということだけでもすばらしいのだが、さらに、この店のよさを象徴するようなできごとがあったので紹介したい。

 

 

 

日曜日の朝、「うまじのパン屋」のフェイスブックページに、上の画像とともにこんな告知が掲載された。

******

‼️重大なお知らせ‼️

本日
パン
失敗
しました❗️

リカバリー出来ないので
臨時休業とさせて頂きます。

大変申し訳ございません🙇

次の営業日は
7日水曜日です。

本当に申し訳ございません🙇🙇‍♀️🙇‍♂️🐕

******

見るなり思わず目をみはり、そのあとすぐ、「ほー」と感心してしまった。

失敗をみとめ、さらにそれを晒す。

それがどの程度の「失敗」なのか、店主の自己判断なのだから、この告知からは読みとれない。

それはさておき、こんな場合、「ふつう」ならどうするだろう。

「諸事情により臨時休業します」とかなんとかと取りつくろい、休業に至った核心部分は隠すのではないだろうか。

わたしなら、たぶんそうする。

そうせずに、あえてミスを公表するということについては、賛否両論あるだろう。

「プロにあるまじき行為」だと批判する人もいるだろう。

わたしのようにパチパチと拍手をする人は、ひょっとしたら少ないのかもしれない。

おかれている立場によっては、このように失敗を公表することが許されない場合もあるかもしれない。

少なくともわたしは、失敗を晒すことによって失うものを考え、どうにかこうにか取り繕うという道を選択する方の人間だ。

たぶん、だから、だろう。

そんなこんなを勘案してもなお、わたしはすばらしいと思う。

 

その投稿を確認したあと、

「それを晒すいさぎよさが素敵ですね」

とコメントを入れたわたしに対する店主(たぶん)の返信はこうだった。

「お客様との信頼関係にヒビが入るのも嫌なんです」

 

小さな村の小さなパン屋のこの行動に、「今という時代」の情報発信にとって必要なエッセンスがあると言ったら大仰にすぎるだろうか。

と自問したあと、

「うん、大げさだな」

と自答し、とりあえず、失敗をみとめて晒すそのいさぎよさを称え、隣村の方角に向かって拍手した。

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumi

 

   

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「ツタワルドボクオンライン全国大会2020〜伝える、伝わる、変人土木技術者の未来」に参加したこと

2020年10月04日 | オヤジの情報発信修業

 

「ツタワルドボクオンライン全国大会2020」に参加。

 

いや待てよ。

この場合、ツタワルドボクとオンラインを区切らずに書くと、知らない人はひと息で読んでしまうのではないか?

などという余計な疑念がわき起こる。

「ツタワルドボクオンライン」。

これではなんのことかよくわからない。

「ツタワルド」+「ボクオンライン」

そんなふうに読まれても困る。

「ツタワル」+「ドボクオンライン」

そこはかとなく雰囲気はただよっているが、そう読まれてもまた困る。

うーん。

腕組みをしてしばし考える。

おもむろに、主催者のホームページをのぞいて確認してみた。

「ツタワルドボクオンライン全国大会2020」

主催者がそう言っているのだもの、ま、いいか。

ということで採用。

元へ戻る。

 

「ツタワルドボクオンライン全国大会2020」に参加。

つまり、オンラインで開催された一般社団法人ツタワルドボクの2020年全国大会に参加した。

桃知さんの「中小建設業は自ら情報を発信しなければならない」という呼びかけを、自分自身に向けられたメッセージだと「勘違い」したのが2008年。

あれから12年。

なぜだかその「勘違い」は、すこぶる強力な「勘違い」で、自らで受けとめそれを実践することにとどめておけばよいものを、「伝えなければならないのだオレは」と、これまた強烈に「勘違い」をしてしまい、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、日本全国津々浦々、場所も時も選ばずに、「現場人による現場からの情報発信」を説いてきた。

そんなわたしだもの。

「ツタワルドボク」の存在を知らなかったはずはない。

しかし、これまで接点を持つことはなかった。

理由は、ない。

それが今回参加しようと思った。

理由は、ある。

10年の歳月は長い。

自らが「勘違い」をして自らに与えた役割が、これからも同じである必要はない。

十年一日のごとく、「情報を発信せよ」と唱えてきたが(そこには当然具体的な処方箋の提示はあったにせよ)、それが「今という時代」にそぐうものであるかどうか、という自身に対しての問いかけは、常になされつづけなければならない。アップデートすることなしにつづけるのがよかろうはずはない。思いきってリライトすることも必要だろう。

しかし・・

わかっちゃいるけど・・・

自分自身に対して限界を感じたことは、これまでも一度や二度ではないけれど、これまでにないほど、大きくそれを感じていた今日このごろなのである。

そんなときは・・・

そう、外の力だ。

しかも、自分にとっては未知の人たちへと、つながりを広げていくにかぎる。

そう、「広くて薄い紐帯」だ。

それが理由だ。

 

******

つまり、この「広くて薄い紐帯」の特徴は、クラスターを基底にしながらも、そのクラスターを越え、ノード(個)が自らをハブ的に機能させ、自らのネットワークを広げていくことにある。

ここでは、ノード(個)はクラスターを基にしながらも、自らのハブ的能力を問われることになるだろう(このハブ的能力のことを私は「適応度」-環境変化適応能力-だと考えている)。

このような関係性から「広くて薄い紐帯」とは、スケールフリー・ネットワークとランダム・ネットワークのハイブリッドとして捉えることもできよう。

『ももちどっとこむ 店主戯言』2004.11.25より)

******

ここにおいて、「クラスター」とは「 集団、群れ」であり、「スケールフリー・ネットワーク」とは「一部のノードが膨大なリンクを持つ一方で、ほとんどはごくわずかなノードとしか繋がっていないようなネットワーク構造」であり、また、「ランダム・ネットワーク」とは、「ノードとノードの間のリンクが志向性もなく、規則性もなく、ランダムに張られているネットワーク」のことである。

わたしがこの「広くて薄い紐帯」を意識し、努めてこの身を置くようにしはじめたのは、例の「勘違い」の所産だ。

おかげさまで、そこからどれほどの恩恵を受けたか、はかりしれないものがある。そして、わたしもまた、相互リンクのなかでいくばくかの役割と影響を与えたことがある(たぶん)。

もちろん、それは必ずしもあるグループや集団に限られるものではない。そして、「ここからここまでだからね」とか「誰かはそうで誰かはちがうからね」とかいうものでもない。どこからどこまでが「帯」であるかは判別できないし、そのようなことを明らかにする必要もないものだろう。それが「広くて薄い紐帯」のよいところだ。

 

さて、端緒についたこのつながりがどのようになっていくか。

先のことはわからない。

ただ、片山会長がその講演の最後に言ったように、

「ツタワルドボクがプラットフォームになって全国の変人たちが、共に学び、共に刺激し合い、悩みを共有し、呼応した変人たちがつきぬけてゆく」

のだとしたら、そこにこの「辺境の土木変人(土木偉人じゃないよ、土木変人)62歳と9ヶ月」が参加する理由は大いにある。

 

ということで、

どうかよろしくお願いします、

なのだ。

 

 

 

 

↑↑ インスタグラム ーisobegumi

 

  

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にんげんだもの

2020年09月10日 | オヤジの情報発信修業

夏の盛りに、なんということがない出来事がきっかけで、いっとき休んでいたインスタグラムだが、どうにか再開することができ、あいかわらずの試行錯誤で続行中だ。

さてそのインスタグラム、わたしはもっぱら iPad (ときどき iPhone)から投稿するようにしている。

理由は、編集加工が簡単にできるからだ。

加工、といっても大層なことをするわけではない。

かるく手を加える、という程度だ。

なかで、もっとも使う頻度が高いのがトリミングだが、そのたびにチトひっかかってしまうことがある。

たとえばこれは iPhone上の画面だが・・・

 

 

 

編集しようとすると、まずまっ先に iPad あるいは iPhone が、たぶん人物や建築物の垂直水平を判断しているのだろう、こちらがなにも手を加えないうちに、「まっすぐ」となるように補正をしてしまうのだ。

ほっといてくれ。

腹立たしいと言えばやや大げさだが、「いらぬお世話だ」とは思う。

その大方は、カメラをまっすぐ構えることができていないのだろう。

もちろん、意図的に斜めに撮っていることもある。

どちらにしてもそれは、撮り手の個性という範疇に属するものだ。

「補正」という名でそれを強制的に「直す」のは、(少なくともわたしにとって)お節介以外の何ものでもない。

「イチイチ目くじらをたてずに元に戻せばいいだけじゃないか」

と言われればそのとおり。

現に、そういうわたしも、そのたびに元に戻してはいる。

そうであったとしてもやはり、少々間に障ってしまうのだ。

そんななか、たまに、

「お、コッチの方がイケるじゃないか」

と気づくことがある。

そんな場合はどうするか。

もちろん、マシンの指示には従わない。

そうは問屋がおろさない。

 

有機械者必有機事

有機事者必有機心

(『荘子』外篇)

 

機械はたしかに便利だが、便利なことに味をしめると、万事が機械的となり機械にふり回されてしまう。

斜めだっていいではないか。

曲がっていたっていいではないか。

にんげんだもの。

 

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ウケねらい

2020年08月29日 | オヤジの情報発信修業

先日、県のトップとの意見交換会というやつに出席した。

村民のひとりとしてだ。

しかも、土木関係者ではなく教育関係者としてだ。

「オマエでよいのか」

という疑念と指摘はごもっともだが、「頼む」という人がいて、そして、「ハイな」というわたしがいてそうなった。それ以上でも以下でもない。

内容はさておく。

「あ~ぁ、まったくどうも困ったもんだね、このオヤジも」

席上、そんな感情が、いくどか自分自身に対してわきあがってきたので書きとめておくことにした。

 

失言癖をもつ政治家がいる。

正真正銘のバカは論外として、よく見受けられるのが、支持者の前での「ウケねらい」だろう。体裁よく言えばリップサービス。有り体は軽口だ。

「やめといたらええのに」

その手の報に接するたび、同情の念を禁じえない。

そういうわたし自身に同様の傾向があるからだ。

事前に用意しているわけではないのだが、ついつい「ウケねらい」の軽口を叩いてしまう。

よく言えばサービス精神の発露なのだろうと自己判断をしているが、誰に頼まれたわけでもなく、誰がそれを期待しているわけでもない。

なのに、ついつい「ウケねらい」の軽口を叩いてしまう。

なおかつそれは、ほとんどの場合「大ウケ」するわけでもなく、冷笑に近い反応が返ってきたりもするのだが、それでいてもやめない。のみならず、「場がなごんだ」などと勘違いし満足することもあるのだから、いやはやまったくこりゃどうもだ。

その意見交換会でも、ご多分にもれずそれがあった。

「あちゃーまた出てもうた」

言葉に出したそのたびに軽く後悔するのだが、発言のたびに、冒頭、軽口から入る。

けっしてよいことだとは思わない。

しかし、その反面、こうも思っている。

潤滑油だ。わるくない(わるいとすればオレの芸が練れてないからだ)。

思うに、ギャラリーが多くなればなるほどその傾向が強く出てしまうようだ。

きっとまたやるのだろう。

止める手立てはない。

止める必要もない。

なにかが必要だとすれば、きちんとウケるように「芸を磨く」ことだろう。

 

「そんなわけあれへんやろ」

別のわたしが頭上斜め30度の線上40cmほどのところで嗤った。

「うん、そんなわけあれへんわな」

スキンヘッドを掻く。

ぼりぼりと掻く。

 

 

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情報発信はかくあるべき

2020年08月24日 | オヤジの情報発信修業

村で人気の・・・

というよりは全県的な人気を博し、平日にかかわらず営業日には必ず行列ができる「いごっそラーメン店長」に、次のような張り紙が。

 

 

太字の箇所を先に書き、張り出したのだろう。

お客さんにとって必要な情報はそこに含まれている。

その告知をながめてみた「おっちゃん」は、「はて?」と考えた。

「ワシの想いが入っちゃあせんじゃないか」と。

そこで、しばし沈思黙考したあと、おもむろにマジックをとり出し、つけ加えてみた。

『あつくてがまんができません ごめんなさい』

「よし!しかし・・・、肝心な何かが欠けている」

そして、またつけ加えてみた。

『しばらくまって下さいね ごめんなさい』

 

以上は、すべてわたしの憶測。つくり話。フィクションだ。

しかし、当たらずといえども遠からずだろうと、まことに勝手ながら、そう思っている。

そして、そんなストーリーを想像したと同時に、こんなことを考えさせられた。

 

情報発信をやるかやらないか。そこにはとてつもなく大きな差があり、まず「やる」ことが何をさておいても尊いのだが、今日はそこは「在りき」で話を進める。

情報発信において、ただ情報を羅列するだけではコチラが伝えたい情報が相手に届くことは困難だ。

そこには、その発信者の「人となり」が表出するような何ものかがなければならない。

具体的にそれが何であるかは、それぞれ個別のスタイルがあってよい。しかし、千差万別のそのなかで、必ずほしいのは自らの想いだ。

この張り紙にはそれがある。

したがって、わたしは感心し、惹きつけられた。

 

『あつくてがまんができません ごめんなさい』

『しばらくまって下さいね ごめんなさい』

 

かわいい文句に思わずほっこりさせられたあと、

「情報発信はかくあるべき」

ひとりうなずく辺境の土木屋62歳。

 

いやぁー、勉強になるなあ。

 

 

 

 

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オヤジの文章修業

2020年08月11日 | オヤジの情報発信修業

近ごろ、なんというかその、わるくないのだ。

なにが「わるくない」かといえば、自分の文章がである。

「あらあらどうしましょ、このオヤジ、言っちゃったよー」

と笑わないでほしい。

さすがに毎度毎度そう思うわけではないが、以前に比べて、そう感じる度合いは確実に増えている。

自分好みの文章が書けるようになってきたという表現のほうが適切だろうか。

もちろんそれは、あくまで「自分好み」であって、他人さまがどう感じるかは、その人それぞれにゆだねられている。それは、ブログをはじめた12年前も、「わるくなくなってきた」今も変わらない。

しかし、昔と今を比べると、あきらかにちがうところがある。それは、書きたいことが書けない、表現したいことを表現できない、どのようにすればよいのかわからない、という類のもどかしさや葛藤が少なくなったということだ。

 

てなことを書き、「下書き」で保存して、「つづきはまた」とゆったり構えていたら、なんと、翌日からとたんに書けなくなってしまった先週末。

そういえば、ついこの前も、「書きたいのに書けない」、トカナントカ言ってアタマをかきむしっていた(たとえ掻いたとしても、わたしの頭部には毟るような毛が存在していないにもかかわらず)。

たとえ、「書く」という行為に慣れ親しんできても、あるいは少しばかり作文技術が上達したとしても、「書きたいことが書けない、表現したいことを表現できない、どのようにすればよいのかわからない、という類のもどかしさや葛藤」が、消えてしまうことなどはあり得ない。あるとすれば、その場やその時点での調子の良し悪しだけでしかない。

そんなことも忘れ、「わるくない」とは・・・

まことに、バカにつける薬はないとはよう言うた。

それならばいっそのこと・・・リリースをして晒すことにした。

あゝ、かくしてオヤジの文章修業は、つづく。

 

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「オンライン」のあとで

2020年08月05日 | オヤジの情報発信修業

新潟県のとある建設業協会支部で開かれた「意見交換会」という名の催しで、「1時間ほどしゃべってくれないか」という依頼があったのがひと月ほど前。

すわ、久方の新潟行きか?

と勇んで、思わず腰が浮きかけたが、「Zoom使用のオンラインで」と主催者さんは言う。

ふむふむ、さもありなん。

「2020」という、後世にまで語りつがれるであろう年の事情を鑑みれば、当然のことではある。

「どんな参加者?」と聞くと、その支部所属の建設会社と(土木系)県出先機関の幹部だという。提示されたお題は「三方良しの公共事業」。わたしの数少ない持ちネタでも本丸中の本丸、天守閣のようなものだ。その人員構成といいテーマといい、ことわる理由はない。もちろん、ふたつ返事で引き受けた。

そんな経緯で今年(=生涯)4度目のオンラインセミナーが、きのうあった。これまで3度とは形態がチト変わり、同じ会場にいる50名ほどを前に、わたしの姿カタチとスライドを映し出したスクリーンがあってというスタイル。それをしてパブリックビューイングというのかサテライトスタイルというのか、よくはわからないが、いわば準従来型とでもいうような形が、聴講者の雰囲気や場内の空気がそこはかとなく感じられ、わたしには好ましかった。

主催者さんから届いた「お礼」のメールによれば、「次回はぜひ、実物の皆さんを目の前にして話し、そのあと一杯やりたいもんです」という締めくくりで拙話を終えたあと、たぶんそれが本番なのだろう、三班に分かれた「本音トーク」の意見交換会が行われ、「活発な意見」が「ガンガン」飛び交っていたという。

そういえば・・・

新潟では、これまでにも何度か、そんな場面に遭遇したことがある。

基調講演(のようなもの)があって、それをベースにした意見のやり取り、あるいは「では実践をどうすればよいのか」についての議論を、いくつかのグループ分けをして行い、各グループの代表者が最後にそれを発表する。

そして、私見ではそのあと、つまり、その夜が本番だ。

2020年夏という今、こと「コロナ」に限れば、その存在が冷遇され、その実施が白い眼で見られている「会食」である。

あゝやはりアレがないと・・・

「あそこまでがセットで、はじめてあのシステムが成り立つんだよなぁ」

そう独りごちながら、これまで見聞きした熱い議論と、熱心に聴いてくれた、これまでそしてこのたびの参加者さんたちに感謝しつつ、彼の地を想う。

 

「ただ呑みたいだけなんぢゃないか?」

悪しからず。

そんな指摘は受けつけない。

 

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