答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

カメラおじさん、ちょっとばかり反省する。

2021年04月28日 | オヤジの情報発信修業

 

山崎エリナさんと話しをした。

といっても、リアルではない。

いわゆるオンラインというやつだ。

かねてより聞きたかったことをふたつみっつ質問してみた。

そのうちのひとつを紹介したい。

 

Q:

たとえば100枚の写真を撮ったとする。

そのうち1枚を選ぶ。

ちなみにわたしは、「写真を撮る」ということはこの選択という行為までを含んでいると思っている。

これだ、と思った一枚が、たとえばピントが微妙だったり、たとえばブレていたりして、上手に撮れていなかったりすると、泣く泣くそれはあきらめて、きちんと撮れたものを選ぶことになる。

ところが貴女の写真集を見ると、どうもそうではないぞ、というのが見受けられる。

どういう基準で選んでいるのか。

 

それに対する彼女の答えはこうだ。

A:

きちんと撮れた写真ではなく、わたしがなにを撮りたかった、を基準とするようにしている。

わたしにとっては、なにを撮ろうとしていたかが大切で、上手く撮れたものがよい写真というわけではない。

どれをセレクトしようか迷ったときは、その現場で、いちばん最初に撮ったものにすることも多い。

 

「うまく撮れた写真」だからよいというものではない。

「上手に撮ろう」「きれいに撮ろう」としているがゆえに「上手に撮れた」写真や「きれいに撮れた」写真がベストであるわたしには、衝撃的な答えだった。

小賢しい理屈や小手先のテクニックばかりが先に立って撮影にのぞみがちな近ごろの自分が、なんだかやけにちっぽけに思えてしかたがなかった。

よもや、天下のエリナさんと自分を比べるつもりもないが、それにしても・・・・・ちいさすぎる。

 

ともあれ、よい言葉をもらった。

現場の人たちを撮るという行為をつづけるうえで、肝に命じておかなければならない言葉である。

 

 

 

 

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しゅんせつ

2021年04月20日 | オヤジの情報発信修業

しゅんせつ。

ローマ字表記にすると”Shunsetsu"。

音だけを聴いて、また、平仮名の字面だけを見て、どのような漢字を想像するのだろうか。

土木屋であることを、できるだけ差っ引いて考えてみるとそれは、「春節」だろうか。春雪ではあるまい。それほど多くの漢字は当てはまりそうにない語句である。

土木的には言わずと知れた「浚渫」だ。

浚渫という土木専門用語をめぐって平成29年に話題となったTwitter記事のことは、このブログでも書いた。のみならず、ある時期においては、中小建設業の情報発信というテーマでわたしが語るときに欠かせないネタとしていた。

2017年2月16日の拙稿を全文再掲してみよう。

 

******

 

地域を守る建設産業というフェイスブックページで教えてもらった、”grape-『心』に響く動画メディア”というサイトに載っていた工事看板の画像。ツイッターに投稿され、ちょっとばかり話題になっているらしい。

話題になっているのは「濠を浚渫しています」という言葉。「皆さんは読めますか?」という問いかけから始まっている。

 

正解は「ほりをしゅんせつしています」。

わたしはなんなく読める。読者の皆さんはどうだっただろうか。文中、「土木関係の仕事をしている人にとっては読めて当たり前」という解説がある。たしかに「濠」という構造物は土木そのものといって差しつかえないが、「濠」という漢字は読めて当たり前の部類には入らないだろう。土木工事の工種としてはポピュラーな「浚渫」も、同業とはいえその手の仕事に関わりがない人たちにとっては難解なのではないだろうか。

同業のよしみ、「いくらなんでもそこまで晒すのはネ」と思い、わたしは画像から削ったが、元ネタには下の端に発注者と工事名がはっきりと写りこんでいる。一見してわかるとおり、舞台は北国。城下町たる市が発注したその名前には「濠浚渫工事」という文字が見える。

「ああネ」と得心するわたし。

よくやるのである。

陥りがちなのだ。

意識が工事名に拘泥してしまい、そこから抜けだせない。つまりこの場合は「濠」と「浚渫」である。ちょっとがんばれば何ということはないのだが、ついつい安易なところで手を打ってしまう。ではどうすればいいのか。

よく採用される方法として、

1.漢字はそのままでルビを振る。

2.平仮名にする。

3.言い換えをする。

1と2もまたてっとり早いが、本質的な解決にはならない。つまり「伝える」という目的のもとでは、「どうもイマイチだネ」ということだ。だからわたしは、極力3の線でいこうと努めている。この場合でいうと、「浚渫する」は「土砂を取り除く」に言い換えることで工事の概念がストレートに伝わる。では「濠」をどうするか。これはルビを振ることで一目瞭然だ。

「濠(ほり)の土砂を取り除いています」

意味は伝わるが、ルビだと平仮名が小さく目につきにくい。広報紙ならそれでもいいが、看板にはできるだけ大きな文字を使いたい。

平仮名を採用してみる。

「ほりの土砂を取り除いています」

これだと、習ってない漢字が平仮名になっている小学校低学年の国語教科書のようで(ちなみにわたしはアレがキライ)、なんだかバカにされているような気がしないでもない。

同じ意味の違う漢字に変えてみる。

「堀の土砂を取り除いています」

なぜ取り除かなければならないのだろうか、という方向から、もうひとひねりしてみる。

「堀にたまった土砂を取り除いています」

城は多くの人から「おしろ」と呼ばれる。濠もまた、「おほり」と呼ぶのが一般的だろう。ということで、わたしならこうする。

「お堀にたまった土砂を取り除いています」

浚渫を「さらえる」と言い換えるのもアリかもしれない。

とかナントカえらそうなことを書いたが、あくまで他人さまがつくったものに結果論でイチャモンをつけたに過ぎない。そういうわたしとて、いつもいつでも同様のことをやらかす可能性を持っているし、実際に思いあたるフシがいくつもある。

この場合、最悪なのは「濠浚渫工事をしています」という書き方だろう。がっかりである。しかしわたしは笑えない。たしかにがっかりではあるが、そんな「がっかりさん」になったことがないかと問われれば、「ない」と断言できる自信がないからだ。「わたしとわたしの環境」からその類が発信されてないかといえば、「ない」と即答できる自信がないからだ。

「◯◯をつくっています」あるいは「◯◯をしています」。

日本全国にあふれている、あの工事看板をあだやおろそかに考えてはならない。ささやかではあるけれど、あれもまた重要な情報発信なのだ。「情報を発信する」ということは「伝える」ということである。伝わらない情報は、情報を発信していないと同義である。誤解を恐れず言う。「伝える」ためには「相手はバカかもしれない」ぐらいの心持ちでいることが必要だ。伝わらないのは「相手がバカ」だからではなく、バカにも伝わる伝え方ができない自分が悪かったのかも、という省み方をすることが肝要だ。

「じゃあ全部平仮名にしてしまえばいいじゃないか」というそこのアナタ、ことはそれほど簡単ではない。

世の中すべからく、落としどころというものがある。そこが難しいところである。

悩んだあげく、面倒くさくなる。

そしてついつい安易なほうへ・・・

気をつけようっと ^^;

******

 

さて、それから4年後のわたしはというと、当時とは異なる感想を抱いている。

「濠を浚渫しています」でもわるくないのではないか。また、当時最悪だと断定した「濠浚渫工事をしています」も、それほどわるくない選択肢ではないのではないかと思えるようになってきたのだ。

とはいえそれは、「ただし」という括弧つきである。

説明しよう。

まず、「濠」にも「浚渫」にもルビをふる。

そのうえで、「浚渫」とはどういったものか、そして、その浚渫工事をここで行うのはどのような理由があってなのか、その工事の目的はなんであるかを、たとえば横に併記する。

浚渫工事の歴史は古い。港の底をさらえる。あるいは、川底をさらえる。そして、川や港を深くする。港浚えや川浚えは、古くから、土木工事として代表的なものだったはずだ。

「浚(さら)う」と「渫(さら)う」をドッキングさせた浚渫という文字が、その工事をあらわす言葉として使われだしたのはいつのころからか。少し調べてみたが、はっきりとはしない。しかし、少なくともきのう今日ではないことは確かだ。

そのような専門用語に対して、「言い換え」という手法を採用し、「使わない」という選択をすることが、必ずしも正しいとは言えないのではないか。「言い換え」が、相手に伝えることを第一義に考えた場合に採用する方法としてもっとも有効なもののひとつであるのは疑いようがないにしても、専門用語を安易に使ってはいけないのと同様に、安易な「言い換え」もまた戒めるべきだろう。

ではどうしたらよいのか。

使う言葉と使わない言葉を決めておく、というのはひとつの手である。

たとえば切羽は使う。

たとえば高欄は使う。

たとえば釜場は使う。

たとえば客土は使わない。

たとえば暗渠は使わない。

たとえば防舷材は使わない。

以上は思いつくまま列挙したので少し乱暴だが、たとえば、「語句自体に意味があっておもしろい表現」であるか、「ただ漢字を羅列しただけのつまらない表現」という仕分け方を採用するのもよいのかもしれない。

いずれにしても、道はひとつではない。そして、そういった思考や試みが土木関係者以外の人たちに「伝える」という行為をするうえにおいて役に立たないはずはない。

 

以上、某日某夜、テレビ画面から流れてきた「しゅんせつ」という言葉に反応し、考えたことである。

 

 

 

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続・どぼくかるた

2021年04月16日 | オヤジの情報発信修業

 

知り合いの教員から電話があった。

おとといの拙ブログで紹介した「どぼくかるた」に興味を抱いたらしい。

「市販はしてないのですか」と言う。

「問い合わせてあげる」と返事をし、「どうするのか?」とたずねると、教材に使いたいのだと言う。

よいではないか、じつによい、ところで・・

あれにはまだ説明していなかった部分があって、とおもむろにわたしが切り出すと、

「そんなのはちゃんと紹介してもらわないと片手落ちです」

と文句を言われた。

ということで、「どぼくかるた」続編である。

 

たとえば、

「ち」

読み札に書かれている語句は

「近くにあるかな地すべり防ぐグラウンドアンカー」

絵札はこれだ。

 

 

絵札の裏にはこう書いてある。

******

グラウンドアンカー

道路の脇にある斜面に、白い「ばってん」が並んでいるのを見たことがありませんか?それがグラウンドアンカーです。

地面を安定させ、斜面の地すべりを防ぐ役割を果たしています。

******

「読み札」を読み上げる人のみなが皆、土木関係者だとは限らないし、たとえ業界の人であったとしても、数多ある「土木のしごと」のすべてについて知悉しているわけではない。そのような人はまず存在しないと言っても過言ではないだろう。

そこでこの短い説明文が効果を発揮する、という仕掛けである(たぶん)。

そう考えると、「絵札」と「読み札」だけを紹介した一昨日の稿は、たしかに片手落ちである。

「絵札」と「読み札」、そして説明文。これがセットとなって「どぼくかるた」という試みが成立している。

ほほ~、よいではないか。

とココロのうちで拍手しながら、すぐにそこへ考えを至らせることができなかったわが身の迂闊さが、ちょいと恥ずかしくなってきた。

 

 

「か」

かるたで土木のお勉強

******

\\土木って?//

土木は、私たちの暮らしと安全を支える様々な仕事です。

まちづくり、道づくり、川づくり、鉄道、海岸整備、環境保全、電気、ガス、上下水道、通信、防災、空港、港、ダム、橋、公園など、すべて『土木』です。

******

 

 

こちらこそ

勉強になりました!

いや

勉強させていただきます!!

m(_ _)m

 

 

 

 

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どぼくかるた

2021年04月14日 | オヤジの情報発信修業

 

 

 

「どぼくかるた」をいただいた。

公益社団法人土木学会発行の「どぼくかるた」である。

1000部しか発行されていないというレアものだ。

さっそくひととおり目をとおしてみた。

これはよいな、と思った点をふたつ挙げてみたいと思う。

まずひとつめ。

 

「そ」

空につづくよ滑走路

 

「わ」

わたしたちの飲み水はこぶ水道管

 

「も」

盛土して堤防つくってみんなを守る

 

「せ」

線路はねいろんな街につながるよ

 

「す」

水門は津波や洪水防いでくれる

 

「め」

目に見えない土の中にも土木のちから

 

 

こうやって並べてみると、土木という仕事をなりわいとしているわたしでさえ、色々さまざまなモノが土木なのだということにあらためて感じ入ってしまう。

ましてや、それらのほとんどが、「今そこにあってあたりまえ」のモノばかりならばなおさらだ。

その「あたりまえ」が、一般の人、とりわけ子どもたちにとっては「あたりまえ」ではない事実を思えば、こうやって伝えていくことは、とても大切なことである。

 

次にふたつめ。

 

ナトムで掘ります山のトンネル

 

海の下掘ってすすむよシールドトンネル

 

近くにあるかな地すべり防ぐグラウンドアンカー

 

キャットウォーク歩いて橋の点検だ

 

 

「専門用語を(できるだけ)使うな」

土木という仕事の情報を発信するという行為をするにおいて、もっとも気をつけるべきこととして、口をすっぱくして言ってきたことだし、自らもそう戒めてきたことだ。

その趣旨から言えば、工法や施設の名前をそのまま使うのはNGである。

しかし、近ごろでは、こと子どもを対象にした場合、それはどうもそうでもないのではないかと思うようになった。

ここに挙げたもの、つまり、キャットウォーク、グラウンドアンカー、シールドトンネル、ナトムなどは、ほんの一例にすぎない。土木という仕事には、一般の人ならばほとんど耳にしないような言葉が数多くある。

それを噛んで砕いて伝えるのではなく、そのまま発語する。

「?」

となればシメたもの。そこからがスタートである。

「?」からスタートした言葉は脳に響く。

興味をもてば、それがなにかを覚えようとする。

覚えれば誰かに自慢したくなる。

「キャットウォークって知ってる?ぼくは知ってるもんね」

てなもんである。

「(あえて)専門用語を使う」

じつは、これが子どもに対する「広報」においては、ひとつのキーポイントとなる。

なんて、訳知り顔のことを言ってしまったが、じつはこれ、わたしオリジナルの知見ではない。昨夏、大分で松永さんに教わったことである。

「ほほ~ナルホドね」

目からウロコが落ちたのを覚えている。

 

なんてことなどを考えながら、「どぼくかるた」を見ていた。

さて今日は、「モネの庭」で地元小学校の春の遠足だ。

じつは、わたしがかかわり昨春オープンした「ボルディゲラの庭」の説明をしてくれと頼まれている。

 

 

 

 

「こ」

公園はみんなが集まるまちのオアシス

 

これもまた「土木の仕事」なのだと、胸を張って言おうと思う。

 

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ケータイで書く

2021年01月22日 | オヤジの情報発信修業

休みをいただいて病院にいる。

定期検査だ。

心臓と膵臓と、2箇所に疾患をかかえた身なれば(ひとつは治癒後の事後観察らしいが)、おおよそ2ヶ月に一度ほどの病院通いだ。

大きな病院というやつは、総じて待合が長い。いつも書く時間の捻出にアタマを悩ます身であれば、この時間、ムダにしてはなるものかと、iPad持参で待機するのだが、あいにくと今日は忘れてきてしまった。

ということで、iPhoneで書きはじめた。

書きかけの稿のつづきをふたつほど、書いてはやめ、やめては書きを繰り返したが、やはり、どうにもいけない。

聞くところによると、「書く道具」としてケータイを採用している人は、若い世代を中心としてかなりの数いるらしい。論文を書いたり、小説の執筆を行ったりするというのだから驚いてしまう。おじさんには、未だに信じられないようなことなのだが、まぎれもない事実だという。

わたしはといえば、フリック入力にもかなり慣れたつもりだったが、やはりダメだ。とてもじゃないが、そのレベルに達する見込みはなさそうだ(努力もしないけど)。

 

と、がんばって書いてはみたが、早くもここらで限界が。

お、順番がきたようだ。

というのを口実にして指をおく。

では。

 

(あぁーー、肩こった)

 

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芸の道?

2020年12月11日 | オヤジの情報発信修業

とある人からオンラインのCPDS講習を受けたことがあるかとの問い合わせあり。受講したことはないが講師なら何度か勤めたと返事をすると、それはそれはと話が盛り上がり、見知ったことを伝えた。

折りもおり、別件で届いた森崎さんからのメッセージには、ただいまオンライン講習会をスピーカーとして体験中だと書いてあった。そこには、生の反応が返ってこないことへの戸惑いが記されていた。

ならばと、さっそく体験から得たコツ(のようなもの)をつづって送る。

 

ラジオのディスクジョッキーになったつもりでやる。
もしくは
ネタを録音する落語家のつもりになってやる。
両者ともに共通するのは、自分のベストパフォーマンスを出すのみ。

 

ほどなくして、終わった彼から、「ぐったりしたー」という書き出しではじまる返事が届いた。そこには、「日ごろいかに人の反応を気にしているか」ということなどが書かれていた。

またまた私見をしたため返信する。

 

わたしもまた人一倍反応を気にする人間だということ。

したがって、「オンライン」をやってみた当初は、自分には向いてないと思ったこと。

そのあとで、相手の反応がないと気分が乗らないから向いてない、というのは甘えにすぎないと考えなおしたこと。

そしてこう問うたこと。

では、録音にのぞむミュージシャンはどうなのか。

ラジオのDJはどうなのか。

テレビ番組の収録にしても、昔は観客を入れてなかった。

では、映画俳優はどうだ。

結局たどりついた先は、「オンライン」という形態では、聴者の反応うんぬんではなく自分のパフォーマンスだけを意識したらよいのではなかろうか、という考えだったということ。

 

そして、何度かメッセージをやりとりした最後にこう記して送った。

 

世阿弥いわく

是非の初心忘るべからず

時々の初心忘るべからず

老後の初心忘るべからず

芸の道は果てしない

意味は調べてね

 

今朝早く、彼のブログをのぞいてみると、わたしのメッセージがほとんどそのまま掲載されていて思わず笑う。『オンライン講演』と題されたその稿は、こんな言葉で締めくくられていた。

 

「これは芸の道なのか」

 

となれば、わたしはわたしの土俵で返信することにしよう。

「伝える人」として自らを立てたそのときから、それは「芸の道」(のようなもの)と呼んでも差しつかえがないようなものなのである(たぶん)。

であれば、もちろんのこととして、修業はつづくよいつまでも。

健闘を祈る。

 

 



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Apple 純正 iPad 用キーボード

2020年12月08日 | オヤジの情報発信修業

iPadでブログを書くことが多い。

iPadがよくてではない。

Apple純正のキーボードが気に入って、である。

高さ10センチに幅が25センチ。わたしの、男にしては小さい手と短い指をもってしても窮屈なそのスペースが、文字を打つのにちょうどよい按配なのだ。

40年近く前に日本語ワードプロセッサーというやつに出会って以来、多くのキーボードを使ってきたが、これほど手にフィットするものはなかった。というぐらい気に入っている。

そのお気に入り度に反して、iPadデフォルトの日本語入力は使いづらい。

その相反するどちらが勝つかというと、圧倒的にキーボードのフィット感の方が上である。

これで打っていると、すらすらと文章が湧いて出てきそうな、そんな気分になることも少なくない。

とはいえそれは、あくまで気分の問題であって、実際にそうであるかどうかはまた別の問題だ。

そりゃそうだ。キーボードが書かせてくれるわけではない。

「弘法筆を選ばず」と言う。

達人ともなれば道具のよしあしなどは問題にならないらしい。

しかし、凡夫であるわたしにとって、道具の存在は重要だ。

重要なのは、「よしあし」というよりも「気にいるいらない」である。

気分はたいせつだ。

それが仕事にせよ遊びにせよ、気が乗る乗らないは、ことの成否を大きく分ける。

だから、道具の存在は重要だ。

気に入らない道具を使っていても気は乗らない。

たまに、アタマが考えて文字が出てくるのか、指が勝手に文字を打っているのか、判然としないときがある。人馬一体ならぬ、指キーボード一体みたいな錯覚をおぼえるときがあるのだ。

してみると、「キーボードが書かせてくれる」こともないわけではないのかもしれない。

Apple純正のiPad用キーボード。

ことほど左様に、わたしがこれまで使ってきたキーボードのなかでは、文句なしにナンバーワンである。

もちろん、「好み」でしかないのだけれど。

 

 

 

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宮崎県日向市で鳥インフルエンザ対応に奮闘する建設業者さんの情報発信から考えた

2020年12月04日 | オヤジの情報発信修業

きのう、フェイスブックを見ていて、青木さんがシェアした投稿に思わず目が止まった。

******

地域の建設業者は「縁の下の力持ち」である事に誇りを持っています。

ただ皆さんの目に触れない所で何をどう頑張っているのかは正しく知って頂きたいと思います

(後略)

******

シェアした元は、宮崎県日向市の地場建設業者さんだった。

ご本人(寺原多加広さん)の許可を得て、写真とともに全文転載する。

(太字注釈は宮内)

 

******

 

宮崎県日向市東郷町での鳥インフル発生で思った事

まずは鳥インフルが発生してしまった養鶏場のオーナーはじめ従業員の方々は大変な思いをされていると思います。

11月30日から12月3にかけて東郷町では

養鶏場オーナー含め皆で協力し合い殺処分を迅速に遂行しました。

私達、建設業協会も、いの一番に駆けつけ掘削埋設を行いました。

ただ新聞、NHKのテレビ放送では自衛隊が埋設作業を行ったとの報道はしますが、建設業についてはケの字も出ませんでした。

東郷町には自衛隊は来ていません。

前回の鳥インフル、口蹄疫発生時も地元建設業の活動についてメディアはほぼ取り上げてくれませんでした。

私達は何も名声を得ようという気持ちも、無理に報道してほしいという気持ちもありません。

ただ最前線で夜通し頑張って作業している者は、現実と違う報道をされると、少し寂しい気持ちになってしまうと思います。

少しは声を上げないといけないと思い投稿しました。

全国の鳥インフルやコロナの早い終息を心から願います。

******

 

「そこに存在する」ものが、まるでないものであるかのように扱われることは、その主体である人間にとって耐えがたい。なぜならば、人にとってもっとも辛いのは無視をされることだからである。それは、劇薬のように即効性ではないが、じわじわと心をむしばんでいく分、効いてきたときのダメージは深刻だ。

そのたびに、心のうちで叫ぶ。

「なぜこんな扱いを受けなければならないのか!」

あるいは、酒を飲んでクダをまく。

「誰もわかっちゃくれねえか!」

 

しかし、わたしたちの方に非がなかったかといえば、そうでもない。

今そこにある問題は、過去の結果としてある。つまり、自ら情報を発信することを放棄してきたがゆえの結果として、「わかってくれない」今がある。そういう意味で、「少しは声を上げないと思い投稿しました」という寺原さんの行動は正しい。

「声を上げる」「声を上げない」というのは圧倒的な自由のなかにある。たぶん誰に頼まれるでもなく、自分でそうしなければと考え、実際に「声を上げた」ことは、その自由のなかにあるからこそ尊いとわたしは思う。彼の文章がわたしの心を打ったのは、その行動のうちにある切実さゆえだろう。

マスメディアがしている無視が、どこいらへんを根拠としているかについて、わたしは確とした答えを持ち合わせていない。そして、それに対抗できる力も持ち合わせていない。まことに残念なことではあるが、わたしたち一人ひとりにできることなど、たかが知れているのだ。

しかし、そこでよく考えてみてほしい。

人にとってもっとも辛いのは無視をされることである。

では、誰に無視をされるのがいちばん辛いのか。

それは、近所のおじさんであり、現場の近くのおばさんであり、自分の身内であり、知り合いでありの、つまり「顔が見える」人たちであって、けっしてマスメディアという「顔がない」存在ではないはずだ。

たしかに、そこにある現実を、まるでなかったかのようにされることは、ときとして耐えがたいほど悔しい。しかし、だからといって、「それでいいのだ我らの仕事は」と独りよがりの無名性に浸っていても、問題はなにも解決しない。だいいち、それでは、一所懸命にがんばる現場の人たちは、いつになっても報われることがない。

かといって、マス(大衆)に向かって訴えかけ、マスメディアを動かし、大きなムーブメントをつくることは、生易しくできることではない。わたしとて、「ひとりひとりの力が集まれば不本意な現実を動かすことができるのだ」と主張してもみたいが、それほど初(うぶ)な心はとうの昔になくなった。まことに残念なことではあるが、一人ひとりの力ではどうにもならないことが現実にはある。

しかし、少なくとも、自分のまわりに伝えることはできるはずだ。

「顔が見える人」へ伝える。

それは、意思とほんの少しのヤル気さえあれば、誰にでもできることである。

それをすらしてこなかったことが、「今そこにある現実」を産み出している(かもしれない)ということを肝に命じ、エブリバディ、一人ひとりが自分の持ち場で、えがおでたたかおう。

微力にはちがいないが、けっして無力ではないのだもの。

 

 
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小休止

2020年11月30日 | オヤジの情報発信修業

土曜日曜とブログ更新をしなかった。

意識をして休んだ。

つまり、自らで休もうと決めて休んだ。

「書けない」あるいは「書く時間がない」という理由で連休となったことはあっても、意識的に「書かない」と決めて書かなかったことは、母が亡くなった前後の数日以外、記憶にはない。

と書くと、なんだか「秘めた決意」みたいのものがあったようで、いかにも思わせぶりだが、そんなものは欠片もない。

ただ、「休もう」と決めた。

「(ほぼ)毎日更新」を目標として10年以上(近ごろでは、土曜か日曜のどちらか一日は休むようにしているが)。そうやって自らに重荷を課さないと、そしてそれを広言しないと、どこかで必ず止まってしまうだろうという懸念があったゆえの「(ほぼ)毎日更新」だった。今となっては、そこにこだわらなければならない理由は、どこにもない。かといって、もう少しつづけてみようと思う身であれば、風の向くまま気の向くままといった体では、すぐになし崩しになってしまうのは目に見えている。だったら、これを機会に週休二日制にするか、などという考えがチラとアタマをかすめた。

それもわるくはない。

わるくはないがしかし・・

らしくはないような気がする。

とはいえ、その「らしい」にしてからが、不変のものではない。

現に、このブログの内容たるや、はじめたころと今では、まったくといってよいほどちがうものになってしまっている(たぶん)。いつも繰り返しているように、歳歳年年人同じからずだ。これまでどおりである必要はなにもない。

いずれにしても、もう少しつづけようと思っている。

そのためには、変わらなければならない。

なんのことはない。

わたしが、変わらなければつづけられない人だからである。

ということで、よかったら、これからもおつき合いのほどを。

 

 

 

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濃厚なブログの主より

2020年10月16日 | オヤジの情報発信修業

きのう、「現場人による現場からの情報発信」について、生身の聴衆を相手に講を演じたあと、森崎さんのブログをのぞくと、『5年』というタイトルで書かれたそのテクストには、わたしのことが記されていた。

『寿建設社長のブログ』2020.10.15

「5年」という数字は、彼がブログをはじめてからの年月をあらわしているようだ。そして、そのキッカケをつくったのは、不詳辺境の土木屋なのだという。そのことについては、かねてより当の本人の口から聞かされており、わたしにとっては旧知の事実なのだが、あらためて文章でそう告げられると、(自称)「種をまく人」としては、そのありがたさが身にしみる。

おりしも、当日の一席では、彼の会社の事例をふたつほど、かなりの時間を割いて紹介している。しかもその内ひとつは大トリだ。これをしてかつてのわたしなら、「なんという偶然。このめぐり合わせは必然だ」とかナントカと舞いあがって調子に乗るところだが、近ごろではそのように考えず、こう思うようにしている。

偶然はあくまで偶然であって、偶然起こった事象やめぐり合わせ自体に特段の意味はない。意味のないものに意味を与えるのは人間だし、それになにかしら啓示めいたものを感じたとしても、それは心の内で事後的に起こったものでしかない。

しかし、もともと必然性などはない偶然を必然にするのもまた人間である。好機ととらえた「たまたま」を、自分自身が「めぐり合うべくしてあったもの」として昇華させるのもまた人間である。モティベーションアップ術としてそれを使うのもわるい手ではない。

などと屁理屈をひとつ。

アタマのなかでこねくり回したあと、独りごちる。

 

「なんという偶然や!」

「オレらやっぱり見えない糸で結ばれちゅうぜよ!」

(^^;;)

 

そして、こう思った。

このうえは、「いいかげんにもうやめろよオマエ」と誰かが言わないかぎり・・・いやちがうな、「いいかげんにもうやめろよオマエ」と自分で自分に見切りをつけるそのときまでしゃべりつづけてやろうじゃないよ。

まったくもってこのオヤジ、あいかわらず、調子がいいことこの上ない。

ついこの前まで、「オレの役割はもう終わってしまったんぢゃないか」などなどと考え、たそがれていたというのにだ。

さて・・

森崎さんのくだんの稿。

その締めくくりはこうだ。

 

******

すでに8年間ブログを続けている宮内部長の遠い背中を追いかけて、ゆっくりスタートしてみたい。

 

と書いた気持ちは変わらないが、宮内さんも変わらず濃厚な内容のブログを継続されているので、8年の差はまったく埋まらないのが悔しい(あたり前だが)

******

 

「濃厚」とはまた、褒められているのか冷やかされているのか、にわかにどちらかは判別しかねるような言葉だが、その文脈からいくと、やはり褒めてくれているのだろう。

それにしても・・・

「濃厚か?」

自分自身にそう問いかけ、それを検証するために、きのう、おととい、その前・・・と、あらためて十数日分の文章を読み返してみた。

 

う〜ん

濃いか

やはり ^^;

 

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