答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

詰める〈考〉その4/6 ~指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ、自分の失敗。~

2024年08月29日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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本来、物事をよい方向にみちびき、問題解決を図るための「なぜ?」の使用が、どうしてわるい方向へと行ってしまうのでしょうか。
その要因のひとつに、「なぜ?」を受け取る人それぞれのマインドセットのちがいがあります。

人は失敗を隠します。正しくは、隠そうとするタイプと、オープンにして次へ活かそうとするタイプとがあるのですが、基本的性質は「隠す」だと考えて差し支えないでしょう。理由は、自分の身を守るためです。

人は失敗をします。失敗をしやすい人とそうでない人がいますが、失敗をしない人間なぞは、誰ひとりとして存在しません。
失敗は自分の力を伸ばすうえで欠かせないものとしてごく自然に受け止めることができるマインドセットであればよいのですが、その一方で、失敗は自分の無能力の証拠であり恥であるという思考傾向をもつ人は、失敗を隠そうとします。
ぼくが「基本的性質は隠す」だと断定するのは、後者、つまり「失敗=恥」だと捉える人の方が圧倒的に多いからです。

いや待てよ。ひょっとしたら「基本的性質=生来の質」ではないのかもしれません。
「これをあきらかにすれば責められる」から「包んで隠す」。
この心理と行動は、何も生まれついてから備わっているものではなく、幼少のころからの苦い経験から身についたものかもしれません。さらに言えば、そういう風土がこの国にはある。
そしてそれを身につけた人たちにとっては、親であれ教員であれ先輩であれ上司であれ、「責める側」に立つ人間が発する「なぜ?」は、自分が「責められる」ための言葉としてしか存在しない。そういう場合が多々あるのではないでしょうか。

ここにおいて、「なぜ?」を肯定的に用いているつもりのぼくと、問いかけられている相手のあいだに重大な齟齬が生じます。どころか、ぼくの目論見の対極に位置する「隠す」という行為は、心中に芽ばえたその食い違いさえ外には表出させません(少なくとも言葉としては)。

それが最良の選択だと考え、「隠す」を実行している人は数少ないはずです。繰り返しますが、それは苦い経験の積み重ねから得た行動パターンなのであり、それゆえにそれを突破するのには困難が伴います。

「指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ自分の失敗」

これはぼくが若い時分に「モットー」だとうそぶいて多用していたギャグですが、これが例外なくウケたのは、誰しもが自分の失敗は認め難く、ましてや他者にそれをさらけ出すなど、耐え難いほどの苦痛だからでしょう。
それはことの軽重にかかわりません。ほんの些細な失敗でもそうです。人生にかかわるほどの重要なことならなおさら、それはもう別次元といってもよいほどの難しさになります。

しかし、失敗に対する人の姿勢は矛盾しています。
調子に乗ってふたたび言います。

「指差し非難、他人の失敗。笑って誤魔化せ自分の失敗」

人は、自分の失敗は隠したり言い訳をしたりするくせに、他者が犯したミステイクは、すぐに責め立てようとする傾向があるようです。そして、犯人を探し出して、それをスケープゴートにしようとします。
その時点ではすでに、多くの人が複雑な背景や原因に想いを至らせようともしません。帰結するのは「失敗隠し」です。

むしろ非難するべきは自分の失敗です。それに対して他人の失敗は、笑って誤魔化すぐらいの方が程よいバランスなのかもしれません。

それなのに、人は自分の失敗は隠します。オープンにして自分や他者が批判する対象とすることは多くありません。自ら進んで、となると、さらに数少なくなってしまいます。隠す理由は自分の身を守るためです。それは何も、他者から守るばかりではなく、ひょっとしたら、自分自身からも守っているのかもしれません。

「なぜ?」は諸刃の剣です。それを承知せずに「善かれの思い込み」にもとづいて能天気に発していると、薬になるよりも毒になる方が多いのです。

 ~つづく~

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