答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

劣化と付き合う

2024年11月02日 | ちょっと考えたこと
自信家でした。
もちろん人というものは、ある一面だけで成り立っているものではなく、ましてやぼくは、たぶん他人よりも多面性があると自認しているのですから、自信をもてない自分というものを内に抱えながらではあったものの、基本的には自信家でした。

その最たるものは記憶力です。
誰にも負けない、というほど世間知らずではありませんが、そんじょそこらの連中が束になってかかってきても、おいそれと勝ちは譲らないほどには自信がありました。

しかし、すでにお気づきのように、すべて過去形。近ごろのぼくときたら、往時をしのばせる欠片もなく、「認知症になりかけているのでは?」と感じることもしばしばです。

といってもそれは、高齢者となればたぶん大方の身の上に起こるものの範疇を出てはいないでしょう。しかし、かつてのぼくを知るぼくだからこそ、その落差に対するショックは大きく、その現実に打ちのめされ、そのたびに落ちこむことも多いのです。

ぼくにとって、そんな記憶にまつわる事柄は、昔と今のその落差ゆえに、加齢が主たる原因で、それまでできていたことができなくなっていくその他諸々の代表格であり象徴です。
たぶん大きな転機を迎えているのでしょう。
かといってそれは、ドラスティックなものではありません。ゆるゆると進行しているものが突如として現実化するという表出の仕方をするゆえに、急激な変化だと感じがちですが、けっしてそうではありません。

できていた機能や能力を回復させる。それができれば万々歳ですが、たぶんそれは見果てぬ夢、無理な相談です。
ならば、そのできなくなったことを、これまで採用していなかった手法や、実行していなかった方法によって補完する。道はそれしかないような気がしています。

記憶力を例にとれば、劣化したそれを補完するのは記録でしょう。
もちろん、これまでも記録をしてこなかったわけではありません。しかし、それはあくまでも、いわば何かが起こったときの保険のようなものであり、日常で活用するものではありませんでした。スマホやタブレットでスケジュールを管理し、タスクを整理するようになってからはなおさらです。

繰り返しますが、ことは記憶にまつわることばかりではありません。ぼくにとってそれはあくまで代表格です。齢を重ねてできなくなってしまったことの象徴です。

ならば、むしろ好機だと捉えるべきなのではないか。これまで習い性としてきた仕事や生活の仕方を変えるためのチャンスかもしれない。
最近、そう思いはじめています。

と、いかにも大発見のような体で書いていますが、考えてみればどうということはありません。
例えば、目が見えにくくなれば老眼鏡をかけるし、それが進めば度数を上げていく。また、歩行が困難になれば松葉杖をつき、さらにそれが進行すれば車椅子を使う。しごく当たり前に世の中で行われていることです。

身体的な機能の衰えも脳機能の劣化も、対処策の方向性が変わるわけではないのです。ことが物理的なもので済むのか、あるいは、内的な変化を伴わなければできないのか。それだけのちがいです。もちろん、その「内的な変化」というやつが、とてつもない曲者であることにはちがいがないのですけれど。


コメント
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