******たとえば、かつて編集者のみなさんと会食中に、お定まりのダイエット談義となり、ついつい話の流れで「デブ」という言葉の語源に及んだことがあった。(中略)しかし、このごろではどうなるかというと、考える間もなく一斉に、ロボットの知識を頼るのである。つまり、考える前に調べてしまう。デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが、どうやら進化を遂げたロボットは、世の中の疑問のたいていをたちまち解いてくれるらしい。はっきり言って、つまらん。それではまるで、ろくに考えもせずにクイズの解答を見てしまうようなものではないか。あるいは卑近なたとえをするなら、翌日の新聞でレース結果を見て、同時にあっけなく散財を知るようなものではないか。科学者はどうか知らぬが、文科系の思考回路を持つ人々は、結論に重きを置かないものである。むしろ、前述のごとく議論の経緯を楽しみ、結論を見ることは何につけても虚しいとさえ思う。しかし、文明の利器は誰彼かまわず結論を提示してしまうのである。むろん便利にはちがいないが、その便利さによって社会が一元的に使用すれば、人間は考える楽しみを失ってしまう。そしてもうひとつ、これは私たちにとって肝心なことだが、世界中の人々が一元的にこの方法をとれば、伝統的な教養主義に支えられてきた日本は、まっさきに脱落し、堕落してしまうと思うのである。札幌からの帰り途、窓側の席でぼんやりと雲海を眺めながら、何を調べるでもなく誰に訊ねるでもなく、そんなことを考えた。人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である。(『見果てぬ花』浅田次郎、小学館文庫、P.046~048)******
奥付を見てみると、2021年とあるから、浅田次郎がこのエッセイを書いたのは、ChatGPT3.5が公開される2年前。「デブの語源までとっさに教えてくれるとは思えぬが」という当時の彼の想像はいともかんたんに裏切られ、「とっさに教えてくれる」時代は、それからわずか2年後に訪れた。
そして今、それにどっぷりと浸かっているぼくがいるわけなのだが、一方で、そのおじさんは、
「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」
という締めくくりの一節に胸を射抜かれ、がっくりと首を垂れたりもする。
そう。自分の頭で考えてこその人間。すなわち、あらゆる物事を前にして、考えることをしようとしない者は人間と呼ぶに値しない。
「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」
くだんの一節を反芻したあと、自分で自分にそう言い聞かせ、「いったい何をやっているんだオマエは?」と問いかける。
しかし・・・
そうやって数十秒がすぎた後、おもむろに起動したChatGPT4oに
「デブという言葉の語源はどこにあると思う?」
と問いかけ、しばしチャットを繰り返すのだから、いやはやまったくこのオヤジ、なんと言ってよいのやら、どうにもこうにもならないのである。
ちなみに、冒頭の引用文でぼくが略した箇所はこう。
******私が「development」の略語説を唱えると、ある編集者は江戸時代の文献にも「でっぷりと肥えた」などの表現はある、と反論した。またある人は、「double chin」すなわち「二重アゴ」だろうと主張した。さらには、「出不精」を略して「デブ」だという説も現れた。議論を戦わすこと数時間、結論は出なかったのだが、たいそう充実したひとときであったと記憶する。もっとも、結論を見る必要はない。想像に満ちた時間は楽しく、なおかつ十数年もの時を経て、本稿の創造にもこうして益するのである。
******
そして、ChatGPT4oの回答は次のようなものだった。
******「デブ」という言葉の語源については、確定した由来がはっきりと示されているわけではありませんが、いくつかの説があります。主な説としては以下のようなものがあります。
擬音語からの派生
太っている様子やどっしりとした動きを表現する擬音語「でぶでぶ」「どぶどぶ」などから「デブ」が派生したという説があります。体が重く、動作がゆっくりになる様子を擬音で表現し、それが「デブ」という言葉に転じたと考えられています。 子ども言葉の影響
日本では、子どもが使いやすい簡単な言葉が愛称のように広まることがあります。「デブ」という言葉も、そのような音の響きから自然と使われ始めた可能性が指摘されています。音の響きが軽く、覚えやすいため、口語として広まったと考えられます。 フランス語からの影響
一説には、フランス語の「デブ(debu)」が由来とも言われています。「debu」は「重い」や「重量がある」といった意味があり、太った様子を表す言葉として日本に取り入れられた可能性がありますが、この説には確証がありません。いずれにしても、「デブ」という言葉は口語として定着しやすく、音の響きやリズム感が印象に残りやすいことから広まったと考えられます。******
「人間は考える葦である。すなわち、考えてこその人間である」
エブリバディ・さあ・れっつ・シンキングだ。
かつて、人間は考える葦であった、とならないように。