答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

詰める〈考〉その2/6 ~「詰める」は悪か~

2024年08月27日 | ちょっと考えたこと(仕事編)
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皆さんがご想像するとおり、あきらかにぼくは「詰める側」の人間でした。過去形にしたのは、現在は少しばかり様相が異なってきたのではないかという自己認識があるからです。

とはいえ本質的には変わらず「詰める」人間です。気質としてもそうですが、立場もまたそうです。しかもかつてのぼくは、そうすることにまったく悪意がなく、当然罪悪感も感じてはいませんでした。その一方で、立場という側面から見れば、かつてはぼくもまた、多くの場合で「詰められる側」にあったことにちがいはありませんし、なんならば今も、妻との関係では、「詰める」よりも「詰められる」方の比率が高いと言えます(冗談です。内緒にしておいてください)。対して現在の社会的立ち位置は、けっして「詰める」方ではないでしょう。そこに身を置かないようにしているといった方がよいでしょうか。

同様に、ある人が、その人ひとりの身の内に「詰める」と「詰められる」を同時に抱えていたとしても何らの不思議はありません。現在過去未来のどこの時間軸で見るかによってもそれは異なるのですし、仕事と社会、あるいは家庭といった文脈ごとでちがってきたりもします。

いや、それはいいとして、ここはあくまでも会社人としてのぼくの「詰める」に限定して話を進めましょう。
先ほど申しあげたように、ぼくは「詰める」という行為に対してなんの悪気も持ち合わせていませんでした。どころかむしろ、「よいこと」あるいは「やらなければならないこと」としてその行為を捉えていたのです。
その目的は、組織や個人の成長や成熟のためです。それに寄与する手段として日々や折々での「詰める」があります。ぼくがそれをすることで皆がよくなる。これが基本的スタンスです。たしかに、元々そのような性質の持ち主にはちがいないのですが、だからといって無自覚にその質に乗せられているわけではありません。

一方で、「詰められる」側はどうでしょうか。
仕事というものが他者との関係性で成立している以上、そこには必ず自分以外の人間の存在があります。ぼくがどのように考えていようと、その想いだけで是非を判断してよいというものではありませんし、他者を考慮の外におく態度から生まれるのは、独善と呼ばれるものでしかないでしょう。
であれば、「詰める」ぼくと相対している「詰められる」者の存在を抜きにするわけにはいきません。

ところが、それを考慮に入れてしまうと、ぼくの想いとは裏腹に状況は一変してしまいます。
そこでは、それに真っ向から反駁するか黙ってうつむくかのちがいはあるにせよ、相手の心中には、必ずといってよいほど、「詰める」という作用に対する反作用が起こります。
そう、多くの場合でそれは、「詰められている」という圧迫感が先立つゆえに、心理的抵抗を起動させてしまいがちなのです。そうなると、感情がこちらの行ってほしくはない方向へと逸れてしまい、なぜそれをするかについての「ぼくの想い」などに思いを至らせてくれはしません。
と、ついつい例外を切り捨てて断定をしてしまいましたが、とにもかくにもそれはぼくの体験からの分析です。

思うにそれは、ぼくの「詰める」が〈詰問〉という形態で行われることがほとんどであることに起因しているのでしょう。

 ~つづく~
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