答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

土木と濁音

2024年11月19日 | 土木の仕事
2つの語が結びついて1つになるとき、後ろにつく側の頭の静音が濁音に変化することを連濁と呼びあらわす。

手紙(てみ)、日差し(ひし)、戸棚(とな)、人々(ひとと)などなど。いくらでもその例が思いつく。

といってもそれは、あくまでも原則であり、例外もまた多くある。
その例外について、ひとつの法則を見つけ出したのは、明治政府に「お雇い外国人」として招かれたベンジャミン・スミス・ライマン(本職は鉱山学者)。後ろの単語に濁音がある場合には連濁が起きないという、いわゆるライマンの法則を発見した。

はる+かぜ ≠ はるぜ → はるぜ(春風)
おお+とかげ ≠ おおかげ → おおかげ(大蜥蜴)

もっとも、本邦では既に賀茂真淵や本居宣長によってこの法則が見つけられていたらしいのだが、本題ではないので、ここでは触れるだけにしておく。

ところで、日本人が濁音を好まないのは多くの人が指摘していることである。往年の大女優で文化勲章を受賞した山田五十鈴の著書には、次のようなことが書かれている。

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 撮影がたいへんだったことは想像以上で、たとえば濁音は再生するとき
きたなくきこえるというので、せりふから全部濁音を除くというしまつで
す。だから、あの「丹下左膳」はいっさいの濁音なしのせりふで、いわば国
籍不明の映画になったのかもしれません。私の萩乃という娘を呼ぶとき、相
手役が「はきさま、そうてこさいます」というようなわけなのです。私が、
いちばんはじめにいったせりふが「だれ」ということばなのですが、それが
濁音がとれないで、何回やっても「だれ」ときこえるからいけないといわ
れ、その「たれ」だけに一日かかったりしました。(『山田五十鈴』山田五十鈴)※1
******
 
時は昭和初期、映画がサイレントからトーキーへと変化ころで、山田のトーキー初出演作『丹下左膳』(1933年、伊藤大輔監督、ちなみに主演は「シェイはタンゲ、名はシャゼン」の大河内傳次郎です)におけるエピソードだが、このようなことが実際にあったのには驚くしかない。

日本人の濁音嫌いについて、金田一春彦はこう記している。

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 日本語の子音で重要なことは、清音と濁音の違いで効果が違うことである。
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの葉の上
を水玉がころがるようなときの形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒く
遅い感じで、力士が土俵の上でころがる感じである。キラキラと言うと、宝
石の輝きであるが、ギラギラと言うと、マムシの目玉でも光っているときの
形容になる。
 一般の名詞・形容詞などで、一番明瞭に見られるものは清濁ときれいきた
ないの関係で、和語で濁音ではじまるものは、ドブ・ビリ・ドロ・ゴミ・ゲ
タ等、きたならしい語感のものが多い。
  たちまちに色白のビハダになります
というのがあったが、聞いていて、肌がザラザラになりそうだと言った人が
あった。こんなことから、女子の名に濁音で始まるものはきわめて少なく、
たとえばバラは美しい花ということになっておるが、バラ子という名前の女
の子はまだ聞いたことがない。
 日本人は、この、濁音に対する感覚がかなり固定している。濁音が本来き
たない音というように思いがちであるが、科学的にはそういうことは証明さ
れないそうで、英語では b ではじまる言葉に best とか beautihul とか良い意味のものが多く、女子の名前などでも b ではじまるものがいくつでもある。日本人が濁音を嫌うのも語頭にくる場合だけで、「影」とか「風」とか「かど」とか、語頭以外の位置に来たものには悪い感じをもたない。これは、濁音ではじまる言葉は古くから方言にのみ見られ、それを卑しむ気持ちが作用したものと想定される。
(『日本語 新版上』金田一春彦)※2
 ******

事ほど左様に濁音を好まない日本人だから、それが重なるとなると、なおさら嫌いになるようで、一例をあげると、「ふた」「ふだ」「ぶた」という言葉はあるが、「ぶだ」とは言わない。一説によると、正式には「バドミントン(badminton)」であるのに「バトミントン」と呼び慣わす人が多いのもまた、その関連であるらしい。

さて、そこでわが「土木」である。
一般の人たちが「土木」という言葉や仕事に対して悪印象をもっている要因のひとつとして、「どぼく」という濁音の連なりを指摘する業界構成員がいる。昭和62年に催された土木学会の討論会に端を発した「土木改名論」を口にする人たちが掲げた根拠のひとつであるらしい。ぼくとて、そのような問題でないとは笑いつつ、うなずけなくもない。

この、土木における濁音忌避の典型が土木系女子技術者の愛称ではないか。
1987年、関東学院大学理工学部土木学科系(当時は工学部土木工学科)に新設された「女子クラス」は、当時全国初の試みとして注目された。その年の秋、そこの学生が中心となり「全国土木系女子学生の会」が発足し、事務局専用として設けられた部屋は、誰が言うともなく「ドボジョ部屋」と呼ぶようになり(ただ単に長くて面倒くさいので省略したという説が有力らしい)、その後その呼称が全国に広がり、2010年ごろからは、この呼び方を真似て「リケジョ」や「ノケジョ」、はたまら「歴女」といった言葉が派生していった。

それに対して、日本建設業連合会(日建連)が2014年に公募によって決定したのが「けんせつ小町」という愛称だ。主たる目的は、土木だけではなく建築や設備工事などを含め、広く建設現場ではたらく女性をあらわす言葉をつくりたかったというもので、表向きにはドボジョという濁音3連チャンを排除するという理由からではないのだが、その過程において、ドボジョにおける濁音の語感を嫌ったという意見を見聞きしたことが何度かある。重なるだけでも感じがわるいのに、いわんや3つとなると論外だ、という論調だ。

ぼくはといえば、当初は嫌いだったドボジョという言葉が、今ではどちらかといえば好ましい部類に入っているのだが、思い起こしてみるにその変化は、ここらあたりから芽生えてきたような気がしている。たぶん、ドボクあるいはドボジョという濁音を忌避しようとする人たちへの反発であり、だから濁音上等、何がわるい、となった。

ところが近ごろになって、その天邪鬼的理由からだけではなく、ごくごく真面目に、一貫して反対してきた「土木改名論」については、これまでの姿勢から若干軟化、改名絶対反対に対するこだわりが薄まってきている。
といっても、まだまだそれは、「ぼんやりと」の域を出ておらず、論を展開するほどに思考を巡らせているわけでもなく、オープンにするためには、多くの時間が必要だ。だから今日のところは、これまでの姿勢をくずすことなくこう言っておこう。

どぼイ!

令和6年11月19日、きのうは「土木の日」



※1、※2、ともに原典からの引用ではなく、『日本人は濁音が嫌い?』(荒木茂ホームページ『音読・朗読・表現よみの学校』)からの孫引きです。
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