はて、この前は・・・
と記憶をたどってみたがどうも定かではない。
けっきょく記憶に頼るのはやめにして調べてみたが、これまたよくわからない。
だからといってどうということはない。
白黒をはっきりしなければならないような事柄ではないのだ。
感覚としては、ひと月ほどのごぶさただろうか。
夏の盛りは、同時に睡蓮たちの盛り。
そのジャストシーズンに、池を見ることなく過ごしていたわたしを、久々にむかえてくれたのは、まさに繚乱という表現がふさわしい睡蓮の池だった。
どれ、今日はじっくり撮ってみるべ。
珍しくどっしりかまえ、次から次へと撮りつづけるなか、
さて、これはどちらにフォーカスしようかなとアタマをひねったのも一瞬、両方撮ればよいだけのことだと、前の花と後ろの花、それぞれにピントを合わせてシャッターを押した一群の花がこれだ。
どちらがよいか。
好みだろう。
当の撮影者自身だとて甲乙をつけかねる。
だからといって、こうやって2枚を同時に載せ、「どちらもよいのですが・・」とやるのは、わたし個人的な作法には反している。
「撮った写真を他人さまに晒す」
という行為は、すなわち、「選ぶ」という行為に他ならない、というのがわたしの考えだからである。
これがよかろうと決める。
これにしようとチョイスする。
「撮る」という行為がなければ、なにも始まらないのは当然のことにしても、「選ぶ」には「撮る」以上の重みがあるというのがわたしの考えだ。
(被写体を)「選ぶ」
(選んだ被写体を)「撮る」
(撮った写真を)「選ぶ」
という流れの末に、他人さまに晒すという結果があるからだ。
前半の「選ぶ」と「撮る」のあいだに
(構図を)「選ぶ」
を挟むと、なおいっそうそれは鮮明になる。
そして、それはなにも、花や景色を撮るという趣味の写真撮影だけに限ったことではなく、土木施工技術者の職務として必須の工事記録写真においても同様のことが言えるとわたしは思う。
(被写体を)「選ぶ」
(選んだ被写体を)「撮る」
ここまでは誰でも行うことだ。
配慮の多少や技術の優劣はあるにせよ、ここを抜きにしては写真を撮ることができない。
問題はそこから先だ。
わたしが見るところ、電子納品が導入されデジタルカメラで撮影した写真をパソコン内に収めるようになった十数年前から、後段の(撮った写真を)「選ぶ」という行為は、どんどんとおざなりになり、今に至っている。
ただただ撮った写真を格納すればよい、ぐらいに考えている人が多いのではないだろうか。
そこでひとつ提案だ。
君やアナタが撮った写真を収めたフォルダの中は、君やアナタの作品発表の場なのだと考えてみてはどうだろうか。
となると、
よい写真とわるい写真
必要な写真と必要でない写真
はたまた
アピールする写真とヤバイ写真
などなど
いろいろ様々な要素で写真の選別が必須となってくる。
そうやって残った写真は、いわば、君やアナタの作品群であり、あだやおろそかにすることがなくなってくるはずだと、わたしは思う。
あらあら、バックナンバーをひもといてみると、約ひと月半ぶりの「モネの庭から」が、つらつら書き連ねているうちに、企図しないまま、すっかり土木施工技術者稼業のハウツーになってしまった。
「モネの庭から」ファンの方には、もうしわけない(そんな奇特な方がいるとしたら)が、この先、日曜日にじっくり撮りためた写真を数回に分け、小出しにしてお目にかけるので勘弁してほしい。
では、おたのしみに。