毛涯章平先生の書を読む機会がありました。
子供の未来を真剣に考える素晴らしい教育者だと思います。
地元に、このような先生がいらっしゃったことを誇りに思います。
子供の時に、教えを受けてみたかった。
願わくば、このような深い人間愛を持った教師の方々が増えていきますように…
正男君の目玉
ある夏の昼休みのことであった。
わたしたち分教場の一年生は、校庭で遊んでいたが、石垣の上に並んでいる大きたポプラの梢で盛んにないている「セミ」を捕ろうということになった。
そんなときは、木登りの名人「正男君」の出番である。彼は、すばやくポプラに登っていった。わたしたちは、声を出すのに、のどがつまって苦しいほど、上を向いて彼の首尾を見守っていた。
彼がこのとき、「セミ」を捕ったか、逃げられたか覚えていない。とにかく下りぎわに、手足をすべらせて、中途から下に落ちてしまった。
そのうえ、石垣の上に張ってあったバラ線に顔を引っかけて、下まぶたが裂けた。顔中血だらけになった。
ちょうどそのとき、落ちてころんだ彼のふところから、(今思えば、それは)真っ赤に熟れた小さな「スモモ」が一つころがり出た。わたしたちは仰天した。
正男君の目玉が飛び出したのである。
「たいへんだ。たいへんだ。正男君の目玉が飛び出しちゃった」
わたしたちは、みんなで泣きじゃくる正男君をつれて、職員室へいった。そのとき、だれが「目玉」を持っていったか、それを年輩の女の先生がどうやって受けとったか、記憶にない。
とにかく先生は、正男君を流しへ連れていって、顔の血を洗いおとすと、彼の目をぴしゃっと軽くたたくようにした。
「はい。もう入ったよ。鏡を見てごらん」
と言われて、みんなで鏡をのぞきこんだ。
正男君の目玉は、ちゃんと入っていた。
その後で、彼の裂けた下まぶたの治療をどんなふうにしていただいたか、今は全く覚えていない。
後年、わたしは、『教育を支えるもの』(O・F・ボルノウ著)を読んで、そこに述べられている「教育的ユーモアとは、子どもたちの小さな悩みや苦しみを、ある一定の高みから眺めて、それを軽く受け流す能力である」ということに深く共感した。
それは、幼児がころんで膝をすりむいたようなとき、母親が、「痛いの痛いの飛んでいけ!」
と言って、子どもの痛みを飛ばしてしまう知恵や、あのとき、正男君の目玉を簡単に入れてくれた年輩の女教師の機転が、ボルノウによって、「教育的ユーモア」として位置づけられていたからである。
実は、その年輩の女教師は、わたしの母だったのである。
『肩車にのって』
毛涯 章平/著
出版 東京:第一法規出版より