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心の目が開かれる」ハーレム牧師 2023年1月15日の説教

2023-02-28 13:44:14 | Weblog

「心の目が開かれる」ハーレム牧師(インドネシア・キリストの教会) 2023/1/15

(今回の投稿は東京キリストの教会YouTube動画を聞きおこしたものです)

エフェソ1:15-23

こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。



皆さん一人一人を励ましたいです。今日神様が一人一人の目を開いていることを願っています。

 

何故私が今日このレッスンを話したいかと言うと、私が30年前にクリスチャンになったとき私はとても興奮していました。ものすごく献身していました。私のクリスチャン人生の最初の3週間で私の同僚が3人クリスチャンになりました。でもそれは長くは続きませんでした。数か月後には興奮ではなく重荷になりました。私の周りには神様を愛して、献身して、互いに愛し合う美しい人たちがたくさんいます。でも私は自分の人生に何かが欠けていて、ロボットのようになっていると感じていました。私は正しいことをしようとしていました。正しいことを言おうとしていました。正しい人生を生きようと一生懸命でした。でも、疲れ果てていました。皆さんもそのように感じたことはないでしょうか。

 

でもある日突然私はこの聖句を発見しました。それを皆さんに分かち合いたいです。私は何度もエフェソの手紙を読んできました。でもあるとき突然神様が私の心の目を開いてくださいました。私はとても嬉しかったです。そのときに私の神様への見方、教会への見方、人生の見方が完全に変えられました。そして決して元のハーレムになることはありませんでした。そして私はクリスチャン人生を楽しんでいます。

 

私たちは小グループを助け始めました。そして教会も同じように目が開かれるように助け始めました。神様が驚くべき方法で働いてくださっています。多くの人々が自由を手にしていく姿を目撃しています。

 

イエス・キリストは十字架にかかって私たちを自由にしてくださったのにも関わらず、私たちの文化によって私たちは何度も奴隷に戻ってしまいます。

 

私はかつてないほど御国のために燃えています。キリストの弟子としてかつてないほど働いています。でもそれは重荷を感じてではありません。私の心の目が開かれたからです。



エフェソ1:18-19

心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

 

パウロは教会に伝えました。皆さんの心の目が開かれるように。

どうしてそのように心の目が開かれたのでしょうか?

今なぜ神様があなたを招いたかということが分るようになったからです。

 

そして2つ目に話すのは今、皆さんは弟子としてどれほど豊かなもの、栄光に溢れたものを受け継いでいるのかについてです。

そして神様の絶大な力が皆さん一人一人の内にに与えられていることを知ったならば、心の目が開かれずにいられるでしょうか。

 

世の中では人々はゴールのために勤勉に働いています。人々は豊かになるために本当に勤勉に働いています。そして人は力が欲しいです。

でもパウロが言うのは、もう皆さんは持っています。

皆さんその事をホントに信じているでしょうか。

ホントにこれを信じていれば皆さんは世の中が生きるようには生きることはありません。

皆さんが朝起きるとき世の中の忙しさに没頭することはありません。

その代わりに神様の招きや豊かさ、力をエンジョイするようになります。

 

エフェソの1章から3章を時間をかけて読むと私はもうすでに天にいる者であって、ここにある全てのものを得ているということを私は知ってホントに驚かされました。

何故なら私は多くのクリスチャンが天国に行くために勤勉に働くのを見てきたからです。

でも聖書が言うのは私たちはもうすでに天国にいるんだ。

エフェソの2章では私たちは天でイエスと共に座っているんだ。

私は地上に住んでいますが、神様の目から見たときに私はすでに天に住んでいます。

だから祈るときそれは天国に行けるように祈るのではなく、天で起きていることがこの地上でも起きるように祈っています。

私は一生懸命頑張ってもっともっと天に近づけるように頑張る必要はありません。

私がこの世で良いことを行っているのは、天国に行くためではなくて、私はすでに天から来ているからです。

 

今日皆さんに二つのことをお話ししたいです。




私たちは人生の測りを変えなければいけないです。

私はかつては私が何をしているか、何を成し遂げたかによって自分を測っていました。

私が誰であるかという代りに。

だから測りが変わる必要があります。

行う 前に ある

私たちの自然なモードは「何かをする」です。そうすれば私たちは何者かになれる、そのように考えます。




だからこそエフェソの1章から3章ではキリストにおいてすでに何者であるかにフォーカスしています。

そして私たちが何者であるかということを理解して初めて、では何をして行くかに移ることができます。

私は何度もエフェソの4章から6章を読んで立派な夫になれるようにトライしてきました。子どもを苛立たせない父親になろうとしてきました。

罪を避けて、聖なる生活をするように頑張ってきましたが、私は疲れ果ててしまいました。




あるとき私は1章から3章を時間をかけて読んで、エンジョイして、そして私の心の目が開かれました。

私がキリストにおいて誰であるのかということを理解するようになりました。

すでに私がどれほど豊かで力強くて、どれほどの希望があるのかということに気がつきました。

その日から今日まで日々、神様が私をもっと愛することも、愛さなくなることもあり得ません。神様に私は愛されています。

私が何を行っていたかとしても、どんな結果があったとしても、神様が私をもっと愛することも、愛さなくなることもないと知って、そして私が誰であるかを知って、私は心から解放されて目が開かれました。

 

そして私の生き方が変わり始めました。

毎日私が何者である(BE)のかということを明確に知るところから始めました。

そして自分が何者であるかということに基づいて行動します。

自分がすることにおいて結果を得て行きます。





しかし、サタンは私たちに対して嘘を語りかけています。

創世記の3章4節から5節で、サタンは言いました。それを食べる(行う)と、目が開け(得る)て、神のようになることが出来ると。

まず行えば、あなたはそれを得ることが出来て、そしてあなたが得た結果によってあなたは何者かになることが出来る。

3章の前にすでに神様はアダムとイブを神の似姿に作ったと言いました。彼らはすでに神様の似姿に作られていました。

それは彼らが何者であるかということであって、決して変わりません。

でもサタンはそれを捻じ曲げました。

そしてその日から今日に至るまで人間は行うことによって得ることが出来て、そのことによって何者かになれるというというふうに思い込んでしまいました

世の中は行えば、得て、そして何者かになることになれると言いますが、神様はそれは逆だと教えてくれます。

まず、何者であるか、そのことによって行い、そして得て行くことが出来ます。

 

エフェソ2:8-10

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」

 

私はクリスチャンになれたことを感謝しています。

私はキリストを知っていることを本当に感謝しています。

私たちは自分の行いによって救われると信じているのではありません。

私がやることによって聖なる者になれるわけではありません。

この世の始めから神様は、私たちが神の似姿に作られたとおっしゃいました。

だから私が罪を犯すとき、神様が私たちをもう一度神様の似姿に作り変えてくださいます。

この中で誰一人として自分を正しい者とすることは出来ません。

だから神様は恵みによって救ってくださるとおっしゃってます。

皆さんの信仰によって救われました。それは決して自分から出たものではありません。私たちが何をしたかによるのではありません。

神様はおっしゃいます。私があなたを作った。これは私からの贈り物だ。

あなたは私の創造物だからです。あなたは神の作品です。

神様が何かを作り出すときそれは完璧であって聖なるものです。

神様のイメージに似せて作られています。

だから私たちが誰であるかということは、神様において作られた者、キリストにおいて新たに作られた者であるからです。

 

自分が誰であるかということに基づいて善い業を行って歩むのです。

 

このことによって私の目が開かれました。何故なら私は今まで良いことを行うことによってもっとキリストのようになれると思っていたからです。

でもすでに私はキリストに属していると知ることによって、もっと善い業を行いたいというふうに動機づけられます。





このことによって私の人生の考え方が変えられました。

私は天から来たから、良いことを行っています。

天国に行くために、良いことを行っているわけではありません。

その時から、正しい人生を生きることはもっともっと簡単になりました。

なぜ人は性的な罪を避けて、貪欲を避けるべきなのでしょうか。それは私たちが何者であるかによるからです。私たちはすでに聖なる者だからです。



エフェソ5:3-5, 8

あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

 

(サッカーの)ワールドカップでは世界中が日本人(サポーター)を見て驚きました。

他の人はスタジアムをめちゃくちゃ汚してから出て行くのに、日本人だけはめちゃくちゃ綺麗にして出て行きます。

彼らは高いチケット代を払って飛行機代を払って来て、掃除することでお金をもらうわけではないのに綺麗にして帰っていきます。

何人かのインドネシア人が私のところに来てなぜ日本人はこういうことをするのかと聞きます。もしかしたら何かお金を貰っているのではないかとか、やることリストとかがあってやりなさいとされているのかとか。

私が彼らに言ったのは、私は何度も日本に行っているから知っているのですが、それは彼らが何者であるかということだと。

日本人が何者であるかということに基づいているからどこに行こうが彼らは同じことをやるのだと。

 

日本に来るたびに私は高い建物を見ません。綺麗な道路をいつも見ています。

日本の方々は自分の家だけじゃなく、家の周りだとか道路を掃除しているのを見かけます。

誰に言われたわけでもなくやるのは、それが何者かに基づいているからです。

私の知る限り、日本人だけが唯一このようなことを行っている人たちです。

 

シンガポールはめちゃくちゃ奇麗です。何で奇麗なのか教えてあげましょう。それは人々にお金を払って奇麗にさせているからです。罰金の国なので、ゴミをポイ捨てすると罰金がかかるからです。罰金によって外側から動機づけられて、誰かにお金を払っているから奇麗に保たれています。

でも日本人は(自分が)何者であるかに基づいて行動しています。

もし皆さんが日本人としての強さを引き出すことが出来るのなら、そして御国の価値観に基づいて生きて行くならば、皆さんは世界中をひっくり返すことができます。

何故なら日本人は自分が何者であるかという価値に基づいて生きている人たちだからです。

インドネシアの人たちはそれを理解できないです。インドネシア人には教えないといけません。何度も教えないといけないし、警告しないといけない。何故ならインドネシア人は、自分が何者であるかに基づいて行動することを理解しないからです。

でも皆さんはすでに持っています。皆さんがこれを取り入れていくことは難しいことではありません。

皆さんがすでに持っている健康な文化の一部です。

もちろん日本には有害な文化があってそれは皆さんが捨てていかなくてはなりません。

日本人の文化のなかにはハードワークしてそれによって何かを得て行くという文化がありますが、それは手放していかなくてはならないです。

 

エフェソ1:16-17

「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」

 

パウロは絶えず神様に願っています。知恵と啓示の霊を与えてくださるように。そのことによってもっとイエスを深く知ることが出来るように。

パウロは説教をもっとたくさん聴いたからイエスを深く知ることが出来たわけではありません。もっと本を読んだからではありません。もっと頑張ったからではありません。

彼は自分が何者であるかということにフォーカスして、それをエンジョイすることに時間をとったからです。

そのことによってパウロはイエスと深く親密な関係を築くことができ、神様から知恵と啓示の霊をいただけるようになりました。

私は本を読むこととか知識を得ることに反対しているわけではありません。私は本をたくさん読みます。

でも神様が個人的に神様ご自身を示してくださるのに、なぜわざわざ他の人の情報を得なくてはいけないのでしょうか。

皆さん自身が神様からの聖霊をいただいた者として、啓示をいただいている者として、神様がどういうお方なのかを他の人たちに知らせる存在になるのではないでしょうか。

私たちがそうしないのは、神様のせいではなくて私たちの文化のせいではないでしょうか。



S「私たちの文化では、行動や達成することは休むことよりも良いことであると信じています。何かをすることは、何もしないことよりも良いことだと信じています。」



私たちの文化では、行動や達成の方が休憩よりもいい事だと教えます。何かをしていることは、何もしないよりもいいことだと教えます。だから私たちは起きた瞬間から忙しいです。

何かをいつもやっています。疲れ果ててもそこから何かをし始めます。

自分が何者であるかを忘れてしまうほどに何かで忙しくなってしまいます。



詩編23:1-3

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」

 

これが神様があなたに望んでいることだと信じていますか?

これがみなさんにとって教会にとっていいことだと信じていますか?

それとも文化の方を信じていますか?

私は何かをしなければならない、何か成し遂げないといけない。



私たちはこの聖句を読むのは好きだとしても、やっていないことかもしれないです。

 

創世記2:2-3

第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

 

安息日は何か後になって発明されたものではなく、この世界の創造の時から神様によって作られたものです。

神は六日の間働いてそして七日目に安息なさったとあります。

この「休む」とは正しい翻訳ではありません。元々のヘブライ語は、「止まる」、「止める」という意味です。

神様はべつに休む必要がありませんし、疲れることはありません。

しかし、神様はそれまでやっていた仕事を止められました。

神様が止まったのはただ疲れたから休むのではなくて世のためにここに良い目的があったからです。

動物にとって、地上にとって良い事であり、何より人にとって良いことだったからです。

これは全く私たちとは違います。

私たちは週に5日、6日一生懸命に働きます。そして疲れ果てます。そして休みます。

私たちが休むのは疲れたからです。

神様はあなたが疲れたから休んで欲しいわけではないです。燃え尽きたから休んで欲しいわけではないです。

神様がこのことを定めたのは私たちが人生のリズムをもってそのことによってリフレッシュされてそして良い働きを行えるようになっていけるためです。



出エジプト20:9-11

「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 

出エジプトの20章では、安息日を毎週持つように話しています。

神様が言うのはただ疲れたから休むのではなく、このようなリズムを持ちなさい、あらかじめ計画して止まりなさいということを教えます。それはいいことだと。

あなたが止まるとき神様があなたに新しいことを知らせてくださって、心の目が開かれてそしてもう一度働く時には新しい視野をもって行うことが出来るからです。

これはただ毎週だけじゃなくて7年ごとにやるようにとしています。

 

みなさん自身でぜひこの出エジプト2章23章10節から12節を読んでください。

 

出エジプト23:10-12

あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」

 

イスラエル人はこれに従いました。このことを分かっていたかどうかは別として。

何ででしょうか?イスラエル人は自分の国からバビロニアに捕囚になりました。

どれほどの期間だったか分かりますか?それは70年の間に渡って彼らはバビロニアで捕囚になりました。

何で40年でなくて70年だったのでしょうか?70回彼らはこれに従うべきだったのに従ってこなかったからです。

彼らは土地に必要な休みを与えませんでした。70回分やらなかったから、やらなかった分だけの70年間分をこの土地を休ませるんだと神様は言いました。

あなたがこれをやらなかったとしてもそれでもいいと神様は教えました。

何故なら神様は土地に休みが必要だという事を知っていたからです。

これは偶然だと思いますか。



イザヤ30:15

まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」

 

神様は立ち止まって静かにしていなさいと言いました。

でもあなたはそれを望まなかったと言いました。

 

これは皆さんの文化には完全に反することかもしれませんが、これはとても聖書的なことです。

私は皆さんに律法的な安息日をやれってことを言っているわけではありません。

この安息日に従うから救われるとか、天国に行けると言っていることではありません。

何故なら聖書が伝えるのは安息日は人のためであって、人が安息日のためにあるのではないという事です。

人が安息日の奴隷になって従わなくてはいけないということではありません。

私たちは律法のもとには居ません。だからといって律法に神様の知恵や原則がないということではありません。



いつ皆さんはサバティカルをとりましたか?そのような安息をとりましたか?

皆さんはサバティカルを正しく理解する必要があります。

 

S「サバティカルとは、『霊的な刷新のための休暇』です。それは、目的を持って計画的にやめる時です。安息日の目的は、私たちの生活の雑念を一掃し、神のもとで休息し、神の恵みを新たに体験できるようにすることです。」

*サバティカルは未来への投資である。

 

皆さんが教会に最も投資したいなら、ベストな方法の一つはサバティカル、安息を持つことです。

何故ならそれは教会の将来のために投資していることになるからです。

皆さんの家族の未来のために投資していることになるからです。

多くの家族が私のもとにカウンセリングに来るときに私が言うのは、ただ立ち止まりなさい、止めなさいです。

あなたは忙しすぎます。人生のルーティンばっかりにはまっています。

休むことにさえ罪悪感を持ってしまっています。

 

私がこのことを本当に理解したときに私は日常的にやっていることを完全に止める時間を持つことができるようになりました

サバティカルとは、ただ何もしないということではありません。

サバティカルとは皆さんの益のために明確な目的を持って計画的に立ち止まることです。

だから日常的なそういう障害物にわずらわされずに、立ち止まってそしてはっきりと物事をみることができるようになります。



S ”サバティカルはバケーションではありません。それは、異なる種類の仕事です。それは、リフレッシュ、再生、活力と健康(霊的、感情的、身体的)の回復のための時間です。神とより深く親密になることを意図して、より近づき、より注意深く耳を傾けるための時間なのです。読むこと、書くこと、祈りの中で格闘すること、特に、忙しさに追われる傾向との戦い、成果主義を手放す戦いなどが含まれます。”

*サバティカルとは、通常の仕事、日常、要求からの「停止」である。

 

皆さんはバケーションをとることができますが、それは必ずしもサバティカルではありません。

サバティカルとは生産的な仕事です。でもそれは異なる種類の仕事です。

それは立ち止まっていますがとても生産的なことです。

そしてその立ち止まった時間を意図的に自分の霊的な感情的な体の回復、リフレッシュに使うことができます。

そのように意図的に立ち止まるとき神様の語りかけがもっとクリアに聞こえるようになります。

そして神様をもっと親密に感じることが出来るようになって神様が自分に何を望んでいるかという事をもっと理解できるようになります。

皆さんも時間をとって祈ったり、書いたり、読んだりすることによって、特に忙しさに追われる傾向、成果主義、または何かを手放せない、そういうものを手ばなすことができるようになります。

 

私の元々の性質はワーカホリックです。私の育った家族では寝ていることも駄目だ、働いていなさいと言われました。

だから(教会の)ミニストリーに入って働き始めたときは寝ることさえ罪悪感をもちました。

深夜2時、3時に私が起きて働いているのを見て、妻のバーニャは、「あなたはイエスではない。イエスでさえ休んだんです。」と言いました。

毎日2,3時間の睡眠で起きて、何かやんなきゃと思っていました。

それは私にとっていいことでしたか。私にとって生産的だったでしょうか。

私は教会に対して神様がどういうお方かを伝えるスポークスマンとして選ばれました。

私が話すこと、説教することによって人々が神様を味わうことが出来るようになるべきでした。でもそれが起こっていませんでした。

私はもうやることに追われ過ぎて私自身が神様を理解できなくなって神様の言葉が聞こえなくなってしまっていたからです。

私たちも教会もみな一生懸命に働いていましたが、疲れて全然生産的ではなかったです。

 

もし皆さんがリーダーあるいはリーダーシップにいるならば、これを教会に最も投資できる事として行うべきです。

私自身がこのことを自分で実践して、回復して、リフレッシュしていくときに教会が神様を理解できるように私自身が用いられていくことができるようになりました。

そして神様がどう教会を導こうとしていこうとしているかというそのディレクションにもっと繊細になることができました。

そしてかつてないほど教会が皆さんが神様と親密になるということがどういうことなのかを助けることが出来るようになりました。

それは私が立ち止まることを覚えたからです。毎週のルーティンから立ち止まったからです。

教会のリーダーにとって私にとってこれはいい事でした。

私とバーニャはサバティカルをとることを計画していますが、多くのリーダーたちがサバティカルをとるときは燃え尽きたからです。

でもそれはサバティカルの目的ではありません。それはまるで皆さんも仕事をして疲れたから休む、でもそれが神様の目的ではありません。

このサバティカルの目的は私たちをより聖なる者にしていくことです。

神様の御心に対して私たちをより鋭くすることです。リフレッシュすることです。

 

皆さんも安息に投資する必要があります。

皆さん一人一人がそしてこの教会のリーダーの皆さんがこのことを実践するとき、神様は驚くべき方法で祝福してくださると信じています。

私たちにとってそれはどのようなものでしょうか。

もう何年もバイブルトークをリードしている人は、もしかしたら立ち止まる必要があるかもしれません。

燃え尽きたからちょっと他の人やってよ、そういうことではなくて。

もう何年間もバイブルトークをリードしている方であれば数年おきに2,3か月でもサバティカルをとることによってより良いリーダーになって戻ってくることが出来ると私は確信しています。

私はすでにシーリージョン全体に、リーダシップの人々が教会の未来のために全員がやることだと考えています。

そして私たちはこの教会の一員として個々人がこのことを計画していく必要があります。

ただ原則を教えるだけでは充分ではありません。それを実践していかなければなりません。

皆さんに心から強くお伝えしたいです。もしスタッフの皆さんがこのことを皆さんに教えるならば皆さん自身もこのことを実践して模範になってください。

私はこれを実践した人がもっと生産的になってない姿は見たことがないです。

でも疲れ果てて燃え尽きたから休むということであればそれは必ずしもいいことではありません。分かりますか。

 

皆さんにこの民数記8章にある真実に目を向けて欲しいです。この聖句によって締めくくりたいです。

 

民数記8:23-26

主はモーセに仰せになった。

以下はレビ人に関することである。二十五歳以上の者は、臨在の幕屋に入って務めに就 き、作業をすることができる。五十歳に達した者は務めから身をひかねばならない。二度とそれに従事してはならない。ただし、臨在の幕屋で同族の者が警護の任に当たるのを助けることはできるが、自分で作業をしてはならない。あなたはレビ人の務めについて、以上のように指示しなければならない。」



これは神様がモーセに伝えたことです。

50歳になったらあなたたちのリーダーは日々の奉仕から引退しないといけない。

50歳という事を文字通りとらないでください。なんで50歳以上でも働いているのかと。

当時では人の寿命は今ほど長くありませんでした。

ここで神様が命じていることは、日々のやってきたことから離れなさいということであって、何かの務めを果たすことをやめなさいと言っているわけではありません。

 

ここで言っているリタイヤ(引退)ということは世の中が言っていることとは全く違うことです。

世の中のリタイヤは会社を退職してバケーションに出ることです。

60歳まで働いたからこれからは人生を楽しんで行きましょう。バリ島に行きましょうとか。

でもそういうリタイヤの仕方をしてしまうと皆さんは自分を殺してしまいます。

こういうリサーチがあります。もし皆さんが1年間何もしなければIQが毎年3ポイントずつ下がるそうです。

リタイヤして10年何もしなければIQは30ポイント下がってしまいます。

これは真剣な事です。そのような世の中のリタイヤは危険です。

 

聖書がリタイヤしなさいと言う時には日々の奉仕から離れてさらに生産的な別の奉仕に関わっていくことです。

彼らが立ち止まるのはそのことによってもっと若い人たち、25歳の人たちがより日々の奉仕が出来るようにアシストしてサポートしていくためです。そしてそのことによって彼らの方がより良い働きをすることが出来るようになります。

聖書的なリタイヤとは皆さんが怠惰になることではなくて、役割を変えて行くという事です。

 

今このことをインドネシアで実践していて私たちはものすごくエキサイトしています。

9年前私はジャカルタの教会をリードするという日々の奉仕を辞めました。

ブディ夫妻がジャカルタの教会をリードして、私とバーニャは役割を変えて彼らを指導しました。そしてブディ夫妻は今年ジャカルタの教会をリードするという奉仕から離れて、チャールズ夫妻という新しい夫妻がジャカルタをリードすることをサポートしています。

では今ブディさんたちは何をしているかと言えばインドネシア全体をリードしています。

彼らは日々の奉仕から離れてそして神様がやってほしいと望んでいるさらに生産的な働きに彼らはついています。

 

世の中の嘘を決して聞かないでください。もっと頑張ってもっと何かを成し遂げていけば生産的になれるということ、それはリサーチでも違うという事が証明されています。

皆さんは毎週定期的に立ち止まらなければなりません。数年おきに必ず立ち止まって休む必要があります。

それは疲れたからではなくて、燃え尽きたからでもなくて、神様のこの原則と知恵に従っていけば皆さんはもっともっと健全な人に変わっていく事ができます。

そしてもっともっと主において実を結ぶ生産的な者になっていきます。

それが皆さんが誰であるかということだからです。

 

皆さんが誰であるかということから始めていきましょう。

そして私たちは良い働きをするために作られました。

そして神様は私たちが立ち止まるように作られました。

そこにはリズムがあります。

皆さんが誰であるかという存在の中にリズムがあります。

自分が誰であるかということから始めるならば、そして自分が何者であるかということに基づいて行っていくようになります。

そのようにしていくならば、クリスチャン人生をエンジョイしていくことが出来ます。

そして皆さんの心の目が開かれるように祈ります。

神様の祝福がありますように。

 


光の子

2023-02-28 10:12:14 | Weblog

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章8節)

イエス・キリストの十字架による救いによって、私は「光の子」となりました。

それは私が善人だったからではなく、むしろ悪人であったのに神様の愛と憐みによるものです。

「光の子」として頑張って生きてきたわけじゃないのに、自分から望んで神様に頼んだわけでもないのに、「光の子」つまり「神の子」としていただきました。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソの信徒への手紙1章4節)

「天地創造の前」っていつのことでしょう。私には想像できないです。

天地創造以前から私のことを神様はご存知だったということなのでしょうけど、それもまた私の理解力や創造力をはるかに超えてますので、ただ呆然とするだけなのです。

クリスチャンになった今ころ私は、「聖なる者」とか「汚れのない者」となれるように努力しなければと思っていたのですが、それは到底無理なことでした。

私は毎日何らかの罪を犯しました。その多くは罪だと自覚していないことや、自分の思いや考え、または世間の価値観に合わせたために無意識に犯した罪だったと思います。

クリスチャンとして頑張れば頑張るほど、罪を犯してしまう自分に怒りを覚えました。

それだけではなく、「聖なる者」「汚れのない者」になれと命令した神様が厳しすぎると思いましたし、そんな無理なことを命ずる神様の愛を疑いました。

憐み深く寛容なイエス・キリストならいいけど、厳しい神様やプレッシャーを与える神様には近寄りがたいと思ったのでした。

旧約聖書の中には、こんな些細な間違いで人間を裁く、時には命さえ奪う厳しい神様の様子が多々見られます。

旧約聖書を読むのを避けました。それよりイエスの優しさや憐みや愛が書かれている新約聖書を読むようにしていました。

それは私の誤解から始まったことだと分かったのは、2023年1月15日のハーレム牧師の説教を聞いたからです。

私はクリスチャンになったことだけで、聖なる、汚れのない、光の子、つまり神様の子どもとされているのだと知ったのでした。

クリスチャンになったから頑張って「聖なる者」「汚れのない者」になる必要はないということです。

王家に産まれた子供は、生まれただけですでに王の子であるようなものです。

そして「聖なる者」「汚れのない者」「光の子」とされたことは、自分の努力ではなく、ただ神様からの恵み溢れるプレゼントなのです。

私がやることは、これからの人生、「光の子として歩む」ことだけなのです。

ところで、「親の七光り」ということわざがありますが、正確な意味はともかく、「親の七光り」と言われると生まれながらに裕福や地位が高い家の子だから苦労せずに親からの恩恵を受けている人に対して使われていて、好意的な印象がありませんよね。

聖書にこんな箇所があります。

「主が民の傷を包み思い打ち傷をいやされる日 月の光は太陽の光になり 太陽の光は七倍になり 七つの日の光となる。」(イザヤ書30章26節)

私はここから「親の七光り」を連想して、そうか、私は親である神様からの恩恵を生まれながらに受けている「親の七光り」をいただいた子どもなんだなあ、と勝手に思って嬉しくなります。

こんな者なのに、ホントに恵まれています。

神様に感謝しています。

 


神様が人間に与えた食べ物は何だったのか?

2020-04-28 20:58:57 | Weblog

人間をお造りになった神様は、人間にどんな食べ物を与えたのだろうかと考えてみました。

創世記第1章から2章には神様が人間を造った様子が書かれています。

 

(1:26)「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』

(1:27)神はご自分にかたどって人を創造された。

 神にかたどって人を創造された。

 男と女に創造された。」

 

そして、このような命令をしました。それは人間の役割でした。

 

(1:28)「『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 

それから神様は人間に食べものを与えてくださいました。どんな食べ物かというと・・・

(1:29)「神は言われた

『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。

(1:30)地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」

 

「種を持つ草と種を持つ実をつける木」とは、種子、草、木の実、そして果物、つまり植物性の食べ物だと思います。

 

そして神様はご自身が創造された男=アダムと女=エバ(イブ)をエデンの園に住まわせ、「そこに生えているすべての木からとって食べて良い」とおっしゃったのでした。

「ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはいけない」とも言われました。

 

(2:9)「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」

 

「食べるに良いものをもたらすあらゆる木」と書いてあるので、神様が人間に与えた食べ物は植物だったと考えてよいと思いました。

 

神様はお優しい方なんですね。人間を造りっぱなしして、”あとは自分たちで何とか生きて行きなさい”ではなく、ちゃんと生きるために必要な食べ物と住む場所を与えてくださっていたということです。

さらに、神様は人間が植物を食用にするのに適した身体をも備えてくださっていたのでした。

植物を消化吸収しやすい内臓とその栄養を体中に回すことができるように必要な臓器をです。

 

さて、現代の人間は植物性の食べ物だけではなく、肉や卵など動物性の食べ物も食べるようになっています。

いつからそうなったのかというとおそらくアダムとイブがエデンの園から追い出された後からではないかなと思います。

彼らがエデンの園に住んでいた頃は、アダムが園の土地を耕し、二人はそこになった木の実を食べてました。「善悪の知識の木」以外の木の実は何でも食べ放題だったわけです。

神様が彼らの食べものを保障してくれていたわけですね。

でも彼らは「善悪の知識の木」からとって食べてしまったばかりに、園から追い出され、もはや神様から食べものを貰えなくなったのでした。

ようするに自分たちで食べものを探さなくてはならなくなったのでした。

おそらく、エデンの園の外で食べものを探すのは大変だったのでしょう。どこでも木が生えているわけではなく、いつでも実がなっているわけではないので、何も食べ物が見つからないこともあったのではと思われます。

だからそのうちにそこらにいる動物を狩って食べるということを覚えたのではないかなと推測しました。

つまり本来、人間は植物性の食べ物を食べるようにと神様が身体を造ってくださったのに、動物の肉を食べるようになってしまった。

そのために体の臓器が対応できなくなって、何らかの無理が生じたために、体調不良や病気になっているのではないかと思ったのです。

また、エデンの園を追放されてからは、木の実が見つからない、動物もつかまえられなくて、数日間食べ物が確保できるわけではなかったので、その時代に人の身体は空腹に耐えられるようになってきたのではと思います。

しかし、現代はいつでも3食簡単に食べられるのですから、これもまた神様がお造りになった身体のしくみと合わなくなっているのです。

元々は植物性の食べ物を消化吸収するのに適した身体を持ち、毎日食べることが出来なくても耐えられる身体であったのに、今は動物性の食べ物も食べるし、1日3食好きなだけ食べることが出来る。

まるで軽トラックに3トントラック分の荷物を無理やりに積み込んで走っているような状態になっているわけです。

道理で現代の人間は疲れやすくて、免疫力が低くって、病気になりやすいわけですね。

今こそ私たちは神様がもともとお造りになった身体に適した食べ物に回帰するべきなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 


小説「怒りの葡萄」にイエス・キリストを見た

2020-04-25 21:29:14 | Weblog

タイトルが気になっていたものの読んだことがなかった、ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」"THE GRAPES OF WRATH"(1939年・大久保康雄訳)を意を決して読みました。

1940年にピューリッツア賞を授賞した文庫本2巻に渡る大作なので、読破できるか心配でしたが、その文章の力強さと緊迫感あふれる内容に引き込まれてしまい、読破することができました。

「ルポルタージュ的作品」という解説の通り、小説とは思えないほどのリアリティーがまるで映画を見ているように迫ってきたのです。

1930年代前半のオクラホマを襲った砂嵐の災害と大資本によって自分たちの開墾した土地を奪われた農民たちの苦難と葛藤を描いた物語です。

少々ネタバレしますがあらすじは、

わずかな家財道具を車に積んで、生きるためにカリフォルニアを目指して大移動する農民たち。 西に行けば豊かな農場が広がっている、葡萄、桃、綿花摘みの仕事がいくらでもあると聞いて、ジョード一家も出発した。 しかしやっとたどり着いたカリフォルニアで彼らが出会ったのは、わずかな賃金でも仕事が欲しいと群がる人々を虐げる権力者たちだった・・・。

私が心惹かれた登場人物は主人公トムジョードの母親(おっかあ)と、ジョード一家と旅をする元説教師のケーシーです。 

今日はケーシーのことをお話しします。

説教師ケーシーは、自分のやっていることに疲れてしまった、何に向かって、何のためにお祈りしているのか分からなくなったから説教師を辞めて旅に出たと言いました。自分の信仰をあきらめてしまったようです。

けれども、彼はジョード一家の一人一人、特にトムを心から気にかける心優しい人物でした。旅の間に起こった事件でケーシーはトムのかわりに刑務所に入ります。ジョード一家の移動を担うトムをかばって西に行かせるためでした。

説教師をやめてしまったけれども、神様はケーシーをあきらめていなかったし、ケーシーの心から信仰が消えてなかったからこのような自分を犠牲にする行為ができたのだと思います。

また、ケーシーが捕まる前、旅の最中、彼はトムに「伝道者の書」(コヘレトの言葉)の一節をシェアーしました。それは、4章9~12節

「ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。」

その後カリフォルニアでトムは釈放されたケーシーと再会しますが、またその時も事件が起こります。

そのときケーシーは権力者の手下たちに襲われてしまうのですが、彼が死ぬ間際にこう言うのです。

「おめえさん方は、自分が何をやっているのかわかってないんだ」と。

イエス・キリストが十字架にかかって息を引き取る前に言われた言葉を思い出しました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)

信仰をあきらめていると言っていたケーシーは最後までイエス・キリストの姿を見ていたのでしょう。

 

「百万エーカーを所有する一人の地主のために十万の農民が飢えた」と書いたスタインベックは、小説「怒りの葡萄」にアメリカの商業主義への強い怒りを込めたと、この小説の翻訳者である大久保康雄氏が書いています。

私は、権力者からの迫害と飢えに苦しんだジョード家の人々やケーシーがそれでも生きていこうと前に進んでいけたのは、怒りよりも神様の導きがあったからだと思いましたし、そこに感動しました。 

神様は「怒りの葡萄」にも力強く働きかけてくださったのだと思うのです。


イエスの「憐み」って何だろう

2020-04-20 15:58:27 | Weblog
「『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:13)

この場面はイエスが、徴税人マタイの家で大勢の罪人(つみびと)たちと食事をしていたところを、ファリサイ派の人たちが見て、イエスを批判した後にイエスがおっしゃった言葉です。

私はファリサイ派の人たちの考えにすごく共感します。 イエスのような偉いお方が、罪人と一緒にいるだけで、あり得ない行為。彼らもここにいることさえ、食事をすることさえ、ふさわしくないと思うからです。

イエスが彼らと一緒に食事したのは、「憐み」からだということはイエスの言葉から明らかですが、私はこの「憐み」が理解できません。 おそらくファリサイ派の人たちも理解できなかったことでしょう。

もし、善人がひどい目に遭っていたのなら、私は「あわれむ」ことができるでしょうが、ここにいたのは罪人たちです。 しかも食事の場所を提供していたのは、当時最も悪人と思われていた徴税人のマタイでした。

私の「あわれみ」とは、あくまでも自分が優位に立った状態にいて、自分よりも悪い人たちとか、愚かな人たちとかに対して、「あら、かわいそうに。でもあなたがこうなったのは自業自得なんじゃないの。」というものです。 

彼らのそばには近寄りたくありませんし、ましてや一緒に食事をするなんてことは考えもしません。

しかしどうやら、イエスの「憐み」は違うようです。

姦通を犯した女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ8:11)と憐みをもって彼女の罪を赦したイエス。

重い皮膚病(らい病)にかかった人に手で触れて癒したイエス。

イエスはまったく罪を犯さなかったけれども、罪人の気持ちをよく理解していた(ヘブライ4:15)ということなのでしょうか?

イエスには強い「共感力」があったから「憐み」を持てたのでしょうか?

私は最近「ミラーニューロン」という言葉を知りました。 「感情を自分の脳の鏡に映してまねることで、同じ感情を感じ」とるということだそうです。(医学博士 前山浩信著「便利生活があなたを蝕む」P.213)

ということは、イエスのまねをすることで、イエスの性質を「ミラーニューロン」できるということではないかなと思いました。

クリスチャンは「イエスのようになる」ことを目指します。日常のいろいろな状況において「こんなときイエスだったらどうするだろう」と考えるようにします。そんなことと同じことなのかなと思いました。

イエスをまねれば、イエスの「憐み」が理解できるのかもしれない、イエスのような憐みを感じることができるかもしれない、そう思っただけで少しイエスの近くに行けたような気がしました。







イエスに導かれたミュージカル「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」

2020-03-27 19:32:14 | Weblog

「キャッツ」「オペラ座の怪人」の作曲で知られるミュージカルの巨匠、アンドリュー・ロイド=ウェーバーは、イエス・キリストの生涯をミュージカルにした「ジーザス・クライスト・スーパースター」や、創世記のヨセフ物語をミュージカル化した「ヨセフ・アンド・ザ・アメージング・テクニカラー・ドリームコート」という、聖書を題材にしたミュージカルも生み出しています。

2020年3月27日、私は東京の日生劇場で上演されたアンドリュー・ロイド=ウェーバー脚本・作曲のミュージカル「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」~汚れなき瞳~を観劇しました。

実は1996年に初演されたこのミュージカルを私は1999年にロンドンで観劇しましたが、この作品が日本で上演されることはないだろうと思っていました。

と言うのは、イエス・キリストや新約聖書の内容に親しみのない日本人が理解するのは難しいのではと思ったからです。

それから約20年以上経ってから、このミュージカルが日本人キャストで上演される、しかも主演は三浦春馬さんと知って驚きました

三浦春馬さんは2019年に「罪と罰」で主人公のラスコーリニコフという難役を見事に演じられた俳優さん。何の偶然なのか、彼はキリスト教に関係する物語の主演を二年続けて演じることになったわけです。

さて、日本語版「ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド」は2020年3月7日から3月29日まで東京の日生劇場で上演されることとなり、昨年12月に販売された前売り券は早々に売り切れてしまうほどの大人気。

しかし、新コロナウィルス感染拡大の情勢により、7日の初日は20日へと延期されたのでした。

さらに情勢は変わり、東京公演の千秋楽も2日間前倒しとなってしまった3月27日、奇しくも私はこの公演を観ることができたのです。

物語は自分の家の納屋に隠れていた男を、脱獄囚とは知らずにイエス・キリストのよみがえりと信じてしまう純粋な少女と近所の子供たちによって展開されます。

少女を演じる生田絵梨花さんが「イエス様、あなたは私のことを愛してくださっています。私もあなたのことを愛しています。」と言うセリフの純真さがストレートに心を打ちました。

「今まで誰も自分のために祈ってくれる人がいなかった」と傷ついた心情を歌に込めた三浦春馬さんが痛々しいほど素晴らしい演技でした。

演劇・ミュージカルのファンとしてこういう形でイエス・キリストが宣べ伝えられることがとても嬉しいです。

しかし、何よりもお客さんたちも演者やスタッフ、関係者さんたちもウィルスから守られますようにお祈りいたします。

 


"INSPIRED TO INSPIRE Faith, Hope, Love" by Budi Hartono

2019-08-22 10:14:48 | Weblog

この記事は2019年8月16日に掲載された、インドネシアの牧師、ブディさんのレッスンを翻訳したものです。https://centralchristianchurch.sg/english-sermons-2/

「信仰、希望、愛による励まし」

今回アジアで初めて、Seasoned Singles Conference「シーズンド・シングルズ・コンファレンス」を主催運営してくださったシンガポールの教会に感謝しています。あなた方のもてなしと愛は本当に素晴らしいです。

私は心の底からこの特別なコンフェレンスに加えていただいたことに感動しています。そしてここで皆さんの前でお話しできる特権をいただいたことを大変光栄に思っています。

皆さんに、ありがとう、ありがとう、そしてありがとうございます。

皆さんが私の信仰のヒーローになってくださっていることにありがとうございます。

皆さんの人生と忠実さが私を奮い立たせています。本当にありがとうございます。

それがどういうことなのか皆さんにはお分かりにならないかもしれませんので、少し説明させてください。

ここで、"THE SINGLES TRUTH"(独身の真実)の著者、Lori Smith(ローリー・スミス)さんの本から引用します。

[引用]多くの歳をとった独身クリスチャンは、自分がこの歳になってもまだ独身でいると想定していなかったので、途方にくれています。

彼らは、今はすでに結婚しているはずだったと思っています。離婚している人たちは、自分の人生にこんなことが起こるなんて全く予想してなかったと思っています。

彼らはクリスチャンとして足らないと感じています。 教会は家族を強調しすぎるので、”良いクリスチャンは結婚して子供をもつものだ”という印象を受けるからです。

もしかしたら神様は自分たちのことを忘れているのかもと思います。

たくさんの人たちが独身であることに落ち込んでいます。そしてこの気持ちをどう変えていいのか分かりません。

『祖国を持たない人のように』

[引用] "Challenging the Misconceptions of Singleness with God's Consuming Truth" by Lori Smith
(神様の激烈な真実をもって独身に対する誤解に挑む)

この本に書いてあるように、誰も皆、今自分が独身であることを予想していなかったですよね。誰ひとり。

だから皆さんはローリーが言っていることに完全に共感できますよね。

ものごとがうまく行っているときに、神様を愛すること忠実であることは簡単です。

願い通りにお祈りが聞き届けられたときに、神様を愛することは簡単です。

私たちの計画通りに人生が進んで行くときは簡単です。

でもどれほど神様を愛し、信じ、忠実でいるかをはっきりと見ることができるのは、ものごとが思い通りではなく予想外だったときです。

ですから、兄弟姉妹の皆さん、ありがとうございます。

いろいろな試練や葛藤、状況があるにもかかわらず、皆さんは信仰を持ち続け、神様を愛し続け、喜こび続け、与え続けているからです。

ですから、私の励ましになってくださってありがとうございます。大きな拍手を!

今晩、神様の御言葉で皆さんがもっと励まされるように祈っています。

テサロニケの教会への手紙から学びましょう。

テサロニケ信徒への手紙1章1節

「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

これはパウロからの特別な挨拶です。何故ならパウロにとってテサロニケの教会は大変特別だからです。

パウロは30もの手紙を書きましたが、テサロニケの教会あてに書かれたこの2通の手紙だけが、冒頭の挨拶でパウロの肩書が記されていません。

他の11の手紙では、「使徒」「神様のしもべ」または「囚人」などと書いていますが、テサロニケの教会への手紙では何もつけていません。

これはパウロが自分の権威には関係なくテサロニケの教会に対して非常に個人的に近しく書いているからです。

パウロはテサロニケの教会を特別に親密に思っていだけではなく、テサロニケの教会の人たちからも刺激を受けて励まされていたからです。

2節「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 」

3節 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 」

We remember before our God and Father your work produced by faith, your labor prompted by love, and your endurance inspired by hope in our Lord Jesus Christ. 

 

パウロは祈るたびにテサロニケの教会の人たちのことを神様に感謝しています。

彼は、テサロニケの教会の人たちの信仰と愛と希望に刺激されて励まされています。

「信仰による働き」や「愛のための労苦」そして「希望による忍耐」を彼らの中にはっきりと見ることができます。

だからテサロニケの教会の人たちのように、「シーズンズ・シングル」(熟練したシングル)の兄弟姉妹の皆さん、あなたがたも他の人たちをINSPIRE元気づける生き方ができるのです。

私たちは周りにいるたくさんの人たちを励ますことができるのです。

だから私たちは他の人たちを励ますようにと神様がお召しになったと信じる必要があります。

 

ここで立ち止まって考え始める必要があります。

私たちの人生は、私たちの人生に何が起こったかによって決まるものではありません。

私たちの人生は、私たちの人生に起こったことに対してどう反応するかによって決まるのです。

私たちの信仰、愛、希望が私たちが反応する主要な要因となります

では信仰、愛、希望がどのように私たちの人生に影響するのでしょうか。

WORK PRODUCED BY FAITH
信仰による働き

パウロはテサロニケの教会の人たちの「信仰による働き」に励まされました。

人生で生産的になるということです。

ギリシャ語でWORKとは「エルゴン」、その意味は職業、功績、業績、生産物のことです。

信仰を持つことは、神様を信じることですよね。 

では、信仰が足りないとは、神様を疑い始めること、神様に疑問を持ち始めること、神様は良い神様であることを信じなくなることです。

そして自分の人生に満足しなくなることです。

神様のやり方ではなく自分のやり方でものごとを行うようになることです。

神様のためにではなく、自分のためにものごとをやり始めることです。

マタイによる福音書25章のたとえばなしにある一タラントンを預かったしもべのように、主人の心を疑い始めます。

マタイによる福音書25章24節から25節

「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

兄弟姉妹の皆さん、私たちは信仰がないと神様を疑い始めてしまいます。

神様に頼らなくなって、人生に満足しなくなります。

神様の良さに感謝できなくなります。

 

私たちの人生を実りあるものにすることを妨げてしまいます。

 

JERRY BRIDGES(ジェリー・ブリッジス)は、こう言ってます。

[引用]「人類の歴史上一番最初の誘惑は、『不満足』への誘惑だ。これこそが『不満足』そのものである。神様の善を疑うことだ。」[引用]

  「満足」 神様は神様であり、自分は神様に属していて、いつも自分と神様は自分をこよなく愛していて、いつも自分と一緒にいるということを完全に、十分に確信していることです。

兄弟姉妹の皆さん、いろいろな苦難や試練がある中で、あなたは神様に愛されていると信じますか。

神様はあなたのことを気にかけている、面倒を見てくれると信じますか。

神様は良い神様だと信じますか。

神様を信頼しますか。

与えることに関して、何があなたを思いとどまらせていますか。

仕えること、自分の賜物を用いて神様に仕えること、ベストを尽くすことをしなくさせるものは何ですか。

本当に完全に自分は神様に愛されていると信じられた時にだけ、あなたは神様のためにベストを尽くして生きることができます。
 
私は今日、ジャカルタの兄弟姉妹たちに刺激され励まされています。シーズンズ・シングルたちに。特にスサニとキキズとたくさんの姉妹たちに刺激されて励まされています。

神様が彼女たちを本当に愛していることを彼女たちはよく知っています。

彼女たちには人生でたくさん不平不満や、打ちのめされたことなどがあることでしょう。

でも彼女たちは神様に心から捧げているのを私は見ることができます。心と人生を捧げています。

彼女らが自分たちのものを捧げられる唯一の理由は、神様において満足しているからです。

何故なら彼女たちは、いろいろな困難があるにも関わらず、神様に愛されていると信じているからです。

それゆえ11年前にPRECIOUSE WOMEN MINISTRY「プレッシャス・ウーマン・ミニストリー」が始まりました。

そして今日彼女たちがジャカルタのたくさんの女性を助けていることが分かります。

それだけではなく、「プレッシャス・ウーマン・ミニストリー」は兄弟たちにも同じ道を歩くようにと励ましました。

ですから今年、FAITHFUL BROTHERS FELLOWSHIP「信仰深い兄弟たちの交流」というミニストリーが始まりました。

FABULOUSと呼んでいます。

何故FAITHFUL BROTHERS FELLOWSHIPという名前にしたのかというと、まず最初に、私が信仰深い彼らに刺激されたからです。

いろいろな試練がありながらも信仰が深い兄弟たちだからです。

二つ目の理由は、彼らが人生の終わりまで信仰深さを持ち続けていることが見えるからです。

最後の理由は、神様が彼らを「忠実で良いしもべ」と見ていて、彼らは自分のすべての賜物を与え、自分の人生のすべてを使って神様に捧げるであろうと信じているからです

私たちはジャカルタでFAITHFUL BROTHERS FELLOWSHIPが始まることを祈っていました。

でもどのようにしてこのミニストリーが始まったかというと、姉妹たちが同じ道を歩くように導いてくれたからです。

だから私は「プレッシャス・ウーマン・ミニストリー」の姉妹たちにもう一度感謝したいのです。満足した人生がどういうものかを見せてくれた姉妹たちに。

ありがとう、スサニ、キキズ、ヘルシー、すべての人たち、あなた方は私たち全員の励ましとなりました。

今日このコンフェレンスを開くことができたのも、彼女たちのビジョンや夢そして心があったからです。
 
それゆえ私たちは喜ぶべきことを喜ぶことができます。
 
 
LABOR PROMPTED BY LOVE
愛による労苦

愛はテサロニケの教会の人たちが互いにつながるためには何でも喜んでやりたいという思いをを助けました。

他の人を愛すること、つながることは簡単なことではないと分かっていました。

そこには犠牲があり、重労働があり、謙虚さがあります。

ギリシャ語でLABOURは「コポス」、その意味は激務、困難、苦労、重労働です。

愛するとは、つながるために何でもするという意味です。

誰かを愛するとき、喜んで自分を犠牲にします、喜んで嫌なことをします、喜んで変わろうとします。

それが愛というものです。

エフェソの信徒への手紙4章2節から3節

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

愛するとは、愛をもって、喜んでお互いに忍耐することです。

忍耐とは何でしょう。重いものを背負って運ぶということです。

だからお互いに愛し合うということを学ぶ必要があります。何故なら重いものを背負うことは必然的に起こることだからです。

そして一生懸命に努力することが必要です。そうすれば愛し合えるようになれるからです。

兄弟姉妹の皆さん、神の家族皆さん、私たちが本当に愛するとき、お互いがもつすべての違いを超えてつながることを学びます。

お互いを認めながらもつながることは簡単なことではありませんが、実行可能なことです。

私たちは寂しい思いや孤独を感じなくていいのです。 それは素晴らしいことじゃないですか。

ここにお互いがいるからです。

ただ問題は、私たちは互いに愛し合うことにベストを尽くそうという気があるかどうか。

愛をもって喜んで忍耐しあいたいと思っているかどうかです。



[シングル・ファーザーのアンドレさんと子供たちについてのシェアー]は割愛しました。



兄弟姉妹の皆さん、愛は決して滅びません。失敗しません。

本当に心から互いに愛し合えば、私たちは互いに励まし合えます。つながり合えます。

それには大変な努力がいります。労苦です。 でもそれが愛と言うものです。

 


ENDURANCE INSPIRED BY HOPE
希望をもって忍耐する

ENDURANNCEのギリシャ語は しっかりとしていること、(不動)、辛抱強さ、根気、粘り強さ、不屈の努力

私たちは神様に希望をもつことによって忍耐できます。

神様を信じることによって神様はベストをご存知で、私たちに最も良い結果を与えてくださると信じることです。

でも希望を失い、大きな未来予想図を見れなくなると 私たちは心配になって不安になって、ものごとを自分の手でやろうとし始めます。

あきらめようとするし、辞めようとします。

何故、イエスはこれほどの苦難にあったのにあきらめなかったのでしょうか?

ペトロの手紙一 2章21節から23節

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 」

クリスチャンはイエスを模範にするようにと言われています。

私たちの人生を神に委ねよと言われています。

私たちは主においてどのくらい自信をもっているのでしょうか。

あなたは自分の人生をすべて神様に委ねることにしていますか。

神様に自分を明け渡していますか。 それとも不安に駆られて自分のやり方でやろうとしていますか。

まだ神様のご計画を信じていますか。

[引用] 「人生とは嵐が過ぎ去るのを待つことではない。  雨のなかで踊ることを学ぶことである。」[引用]

人生はそのプロセスを楽しむものです。

それができるのは、神様は私たちにベストを良いものをくださると信じれることからです。

そこに自信を持つことからです。

何故まだ結婚できないのかにフォーカスするよりも、神様に希望をもつよう望んでおられます。

雨の中で踊ることを学んでほしいです。

神様は人生のプロセスを楽しんでほしいと願っています。 励ましています。

嵐にフォーカスするとがっかりします。でも嵐の中でも踊ることができれば嵐を楽しむことができます。 神様はあなたが人生のどの季節にいてもあなたを愛しておられます。 神様のおっしゃることを信じますか。

ストレスを祝福にする

2019-01-14 16:24:12 | Weblog
FROM STRESSED TO BLESSED Parts 1-4 2019.1.3,4,7,8
リック・ウォーレン牧師のディボ―ショナル 2019年1月3、4、7、8日配信

”心穏やかにしていれば、体は健康になる。” 箴言 14:30 (TEV)


“リラックスした態度は寿命を延ばす。” 箴言 14:30 (NLT)


7つの霊的な習慣でストレスを減らす 詩編23章より


ダビデが書いた詩編23章からストレスへの対処法を見ていく前に、私たちが今日、感じているストレスの原因となるものを見ていきましょう。

1.心配
2.スピード・・・何でも”早く!”、”すぐに!”と常に急がされている。
3.混雑・・・都市化、密集、交通渋滞など。
4.多種類・・・選択肢があり過ぎて、複雑化する。混乱する。選べない。
5.攻撃・・・プライバシーの侵害、個人情報漏洩への恐れ。
6.多様化・・・文化、習慣、宗教などの多様化による誤解、混乱、衝突。
7.将来への不安

ストレスへの対処法について、聖書にはどう書いてあるのか、詩編の23章より見ていきましょう。

1. 自分のニーズをすべて満たしてくださる神様を見る。


心配することはストレスの元です。何かが不足しているとき、不足しそうなとき私たちは心配になります。

そのようなときは、自分のニーズを他の人(配偶者、子供、親、友達など)に満たしてもらおうと考えることや、要求すること、願うことをやめことです。

いつかは無くなってしまうものや、奪われてしまうもの(仕事、結婚、お金、所有物、健康など)に自分の安心感をおくことをやめることです。

そうするとストレスのレベルが劇的に下がります。

そもそも、あなたの持ち物が何もなくなっても、もどんなに心配ごとがあっても、あなたとイエス・キリストとの関係は無くならないといういことを覚えておいてください。

神様でしか満たせないニーズを他の人に満たしてもらおうとすることをやめましょう。

ストレスを減らすために、まずすることは、神様に祈ること、神様を賛美すること、神様に集中すること、神様に立ち返ることです。

自分のニーズが満たされるかどうかを心配したり、満たされないのではないかと恐れたりすると、わたしたちは自分のニーズを自分で満たそうと、頑張ります、あれこれ考えます、なんとかモチベーションを上げて対処しようとします。

しかし、そういうことよりも、静かにして神様を待ち望むこと。それが強さになります。

“主はわたしの羊飼いです。だから私は必要なものをすべてもっています。” 詩編 23:1


「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ローマの信徒への手紙 8:32 (新共同訳)



2. 休息について神様の指示に従う必要がある。


いつも急いでいること、急がされていること、忙しいことはストレスの元になります。

やることがたくさんあって全然片づかない、仕事が終わらないことなどで、いつも何かに追われている感じがするからストレスになります。

どんなに忙しくても休みなさい。それがストレスへの対処法です。

神様は、人間が睡眠をまったくとらなくてもいいように作ることができたはずですが、そうしませんでした。

人生の1/3を睡眠にあてるようにと人間を作りました。(1日8時間です)

休息はとても大切なものです。

天地創造のときに神様が7日目に休まれことは、神様が疲れたからではなく、休息をとる模範を人間に示すためでした。

十戒にも書かれています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」出エジプト20:8-11(新共同訳)


“主はわたしを青草の原に休ませ...” 詩編23:2A(新共同訳)


羊はあまり頭が良くないので、放っておくと休むことを知らずに動き続けて、疲れ果て、病気になってしまいます。だから羊飼いがあえて羊を休ませるようにしていました。

「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。完全に休まなければならない。 耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない。」「Sabbathの休息を守らなければならない。」出エジプト記 34:21


神様はわたしたちを休ませます。

人は休まないと病気になるようにできています。休まなければベストを尽くせないのです。

「Sabbathの休息を守らなければならない。」 SabbathとDay off (休日)とは違います。

Sabbath にやること
1.体を休める
2.自分の魂(聖霊)にフォーカスを戻す=礼拝する
3.自分の元気を取り戻す。感情を生き生きとさせる。心を満たす=レクリエーション、スポーツ、趣味などをする

休日を無駄な時間だと思ってしまう人がいます。休むことに罪悪感を持ってしまう人もいます。

でもイエスはリラックスしていました。


3. 美しいもので自分の魂を生き返らせる。


「主はわたしを青草の原に休ませ、
  穏やかで、静かな水のほとりに伴い、
  魂を生き返らせてくださる。」詩編 23:2-3A


美しいものは、ストレスを減らします。インスピレーションを与え、励まし、モチベーションを与え、前向きにしてくれます。

しかし、罪は醜いので、ストレスになります。

何故神様はこんなにも美しい自然をおつくりになったのでしょうか?

美しい自然に触れると神様を感じるからです。

ストレスを減らす方法
1.毎朝、少しでもいいから外出して自然に触れる。
2.毎朝のスタートを神様と共に始める。起きぬけに見るのは、メールやTV、新聞ではなく、聖書。讃美歌を聞いたり、歌ったりする。
3.美しいアートや音楽に触れる。自分で創造する。

罪にまみれたニュースを聞くよりも、聖書を読んだり讃美歌を歌うことでストレスが大幅に減ります。

「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」 フィリピの信徒への手紙4:8 (JA1955)


4. 神様の導きを求める。


「主は御名にふさわしく 
 わたしを正しい道に導かれる」詩編 23:3(新共同訳)



何かを選ぶとき、何かを決断するとき、選択肢がたくさんあるので悩み、迷うこともストレスになります。

そんなときには、聖書を読み、祈り、考え、神様の応答を待ちましょう。

神様のタイミングで答えが与えられ、それを感じることができます。

神様はわたしを正しいタイミングで導かれます。

神様のタイミングは完璧です。だから信仰をもって待ちましょう。


5. 暗い谷間を歩くときでも神様を信頼する。


「死の陰の谷を行くときも
 わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。」 詩編 23:4(新共同訳)


現代、わたしたちは目に見えない敵からの攻撃を受ける可能性があります。個人情報が盗まれたり、知らない誰か自分になりすますこともあります。

このようにわたしたちは見えない陰に襲われるのです。

陰とはわたしたちを襲う苦難でわたしたちは不安になり、恐れます。

しかし覚えておいてください。陰の元は小さいのです。陰は実態ではないので、あなたを傷つけません。

陰のあるところには、必ず光があります。イエスは世の光です。

羊飼いとはイエス・キリストのことです。

イエスの鞭と杖はいつも私たちを導き、守り、力づけ、助けます。

「“わたしがあきらめようとしたときにも、主はわたしが何をすべきかご存知です。” 詩編 142:3 (TEV)

「私の霊がなえ果てているとき わたしがどのような道に行こうとするか あなたはご存知です。詩編 142:4 (新共同訳)


わたしたちは自分に苦難が襲うと、”どうしてこんなことが起こるのだろう?”と思いますが、襲っている苦難の意味や問題の答えを知る必要はないのです。

何故なら、わたしがどうすべきかを神様はご存知でおられるからです。

暗い谷間を行くときも、わたしたちには神様の光があるからです。

神様を信じて行きましょう。


6. 神様を自分の擁護者にする。


いろいろな人たちがいることで、それぞれが異なる価値観や考え方をもっています。だからあなたの意見や考えを否定する人やあなたを嫌う人もいます。

あなたと考えや価値観が合わないために、あなたを批判する人がいます。その人の考えをあなたに押し付けようと迫ってくる人もいます。

それがストレスの元になります。

「わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。」詩編 23:5(新共同訳)


わたしを苦しめる人たちが迫ってくるのに、神様はわたしのために宴会を開きます。

その人たちに対して、”これが私の愛する者”だと、示すためです。

”主よ、とても愛しています。あなたは私の擁護者、保護者、力強い砦です。あなたの中にいて私は安全です。あなたは盾となって私を守ってくださいます。” 詩編18:1-2

神様が守ってくださいます。だから、自分を攻撃してくる人に立ち向かうとしないでください。

同じ苦しみを味合わせようと報復しようとしないでください。

それは相手と同じレベルになることだからです。


ダビデは人生において、いろいろな人たちからたくさん攻撃されました。しかしダビデは自分を攻撃してくる人たちが迫ってきても、立ち向かわず、ただ神様に祈りをささげていました。

神様が守ってくれるから、ダビデは自分を守る必要がなかったのです。

ダビデにはストレスが無かったのです。

攻撃されている最中でも、休息をとることには多大なる信仰が必要です。

沈黙すること、静かにしていることには謙虚さも必要です。

反撃せず、報復せず、ただ、神様に自分が守られていることを信じましょう。


イエスも宗教家から常に攻撃されていました。間違ったことを言いふらされて、えん罪もかけられました。

しかしイエスは、身に覚えのないことで訴えられても、間違ったことを言われても、イエスは決して正そうとはしませんでした。

神様の擁護を疑わなかったのです。

イエスのように、あなたを批判する人に対して沈黙していましょう。

そうすれば、結果的にはあなたはもっと力強くなり、もっと権力をもち、影響力が強くなり、選ばれる人となります。


「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22-23A)

現代はインターネットを通して攻撃が行われています。顔が見えない相手から、見知らぬ人からも攻撃を受けることがあります。

しかし、たとえ人があなたのことで間違ったことを言っても、反撃せず、報復しないイエスのような態度を貫けば、彼らは逆にあなたを助けるようになります。

愛をもって彼らに対応するのです。

だから人に批判されればされるほど、イエスのようになれると喜びましょう。

あなたはストレスを受ける者ではなく、あなたは祝福される者になります。

1ペトロ4:19 「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」


ところで、あなたは神様が計画なされた苦しみを受けることがあります。

でも、正しいことを行い続け、あなたの創造主である神様を信じ続けるのなら、神様は決してあなたを見捨てません。



7. 神様の視点で将来を見ていく。


将来への不安や恐れもストレスの元になります。

あなたは将来に対して不安になりますか? ”もしもこんなことが起こったなら・・・”とか、”もしもこれが悪い結果になったら・・・”などといつも悩んでしまうのなら、それがストレスになっています。

でもそのようなストレスは不必要なのです。

「命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯そこにとどまるであろう。」詩編 23:6(新共同訳)


”恵みと慈しみ”こそがあなたが追い求めるものです。

あなたは将来をどのように見ますか? 悪くなるか、良くなるかどっちですか?

”すべてのことが悪い方へいったら”、”お金が足りなくなったら”、”失業したら”などと考えますか、それとも、”「恵みと慈しみが」いつも私の後をついてくる、わたしは生涯ずっと神様の家に住む”と思っていますか。

神様の視点で将来を見ていくか、それとも自分の恐れによる不安な視点から将来を見るか、どちらを選びますか?

将来への不安を感じることから起こるストレスをどのようにして減らしていきますか?

神様の期待していることは、あなたが”神様の家にとどまる”というゴールに行き着くことです。

人生の中でいろいろな悪いことが起こっても、結果的にはあなたは天国に行くのです。

あなたが期待しているもの、それは、ゴールです。

目標を立て、ゴールに向かっていくことは信仰に生きることです。

身体的そして精神的な健康のために、感情、精神、霊的なゴールをたてましょう。

”わたしは毎日忙しくて疲れている、もう耐えられない、続けられない。人生に満足できない、面白くない”とあなたは思っているかもしれません。

あなたが今どんな重圧によって疲れ果てているかは私は分かりません。でも、どのようにしたらその重荷を軽くできるのかその方法を知っています。

イエスは言われました。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11:28-30
 
                                                                                          
でもあなたは、イエスのところにいったらもっと課題を与えられてしまうかもしれない、もっと重荷になるのかもしれない、と思っているかもしれません。

でもイエスが言っていることは、”休みなさい”なのです。

”軛”とは、鎖とか犬の綱ではなく、2頭の家畜をつなぐ横木のことです。軛につながれることによって荷物を2頭で引くので、重さが半々に分けられます。

イエスは、”あなたの重荷を一緒に担ぎましょう。問題を一緒に考えましょう。ストレスを軽くしましょう。”と言ってくれて、一緒に先に進んでくれるのです。

イエスは言います。”来なさい、わたしとチームを組みましょう。わたしと一緒に行って、わたしがどうするのかを学びなさい。そうすればあなたの重荷は軽くなり、ストレスは減ります。わたしがナビゲートします。もう迷わなくなります。”

イエスの軛につながれたとき、わたしたちはイエスと一緒に同じ方向へ、同じペースで動く。

イエスにつながっていれば正しい方向へ行きます。決して道を間違えないので穴に落ち込むこともないです。無理なスピードで進んでいかないので、疲れ果てることがありません。

だからあなたはイエスのところに行く必要があるのです。

信仰をもって個人的な目標を設定する リック・ウォーレン牧師

2018-12-29 13:07:53 | Weblog
信仰をもって個人的な目標を設定する
リック・ウォーレン牧師 2018.12.26-28 pasterrick.com

Theme verse: Romans 12:2 "Do not conform to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God's will is - his good, pleasing and perfect will."
テーマ聖句 ローマの信徒への手紙12:2 「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

神様はあなたを唯一無二の存在として特別につくった。だからあなたらしくなってもらいたい。
誰かのようになるのではなく、また、誰かから変えられるのではなく。型にはめられるのではなく。

これから、霊的な健康、身体の健康、精神の健康、感情の健康、金銭的な健康、人間関係の健康、仕事の健康の7つを探っていきたい。
残りの人生をどう生きていくか。あなたの考え方、感じ方、見方をどのように変えていくかについて。

ここで、あなたの可能性や、隠れた才能や将来を探っていきます。
残りの人生でベストを尽くすためです。

何故、人生の目標(ゴール)を設定する必要があるのか?
目標を設定することについて聖書にはどう書いてあるのか?

1. Goal setting is a spiritual responsibility. 目標を設定することは霊的な責任をとること

Paul: “I know that I am not yet what God wants me to be. I haven’t reached that goal, but I keep moving toward it to make it mine because Christ made me and saved me for this. I know that I haven’t yet reached my goal, but there’s one thing I always do. Forgetting the past and straining toward what is ahead, I keep my eyes focused on the goal so that I may one day win the prize that God has called me to receive through Christ in the life above. All of you who are spiritually mature should think this same way, too.”
PHILIPPIANS 3:12-15
パウロの言葉「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえられたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙3:12-15)

自分の目標をはっきりと決めないでいると、他の人から押し付けられる。他の人の人生を生きることになる。
目標を決めない人生は、生きていることではなく、ただ、状況に反応しているだけ、存在しているだけ、流されているだけ、人生を消費しているだけの人生になる。
何故なら、自分の人生で何が大切なのかが分からないので、他の人にあなたの大切なことを決められて、人生を翻弄されてしまう。人生を無駄にしてしまう。
目標を決めることは霊的な鍛錬。自制。

2. Goals are statements of faith. 目標は信仰を現すこと

目標を決めることは、霊的な習慣。信仰をあらわすこと。
目標は信仰を成長させる。目標が大きければ大きいほど信仰も大きくなる。それは神様を喜ばせる。
目標を決めないのならそこに信仰もいらない。信仰がなければ神様を喜ばせることができない。
ローマ14:23「確信に基づいていないことは、すべて罪」

目標を決めないのなら、それはリスクをとらないこと。リスクをとらないなら、信仰もいらない。信仰がないなら、不信仰になる。
エフェソ3:20 神様は私たちの願いや想像、夢をはるかに超えたことをかなえてくださる。

神様の大きさに見合った目標にしよう。
自分なんかには何もできないなどの議論をやめて、神様がなさることを夢見よう。ただ、神様を信じよう。
私たちの不信仰が神様に限界をもたせてしまう。
目標が低すぎるところには、そこに信仰がいらない。
夢見ることにはお金がかからない。大きな夢を見よう。その夢を人生をかけて追っていこう。
目標と夢の違いは、期日があるかどうか。目標には期日がある。目標も夢も必要。

“According to your faith will it be done to you.” MATTHEW 9:29 「あなたの信じているとおりになるように」(マタイ9:29)
どのくらい神様に自分の人生を祝福してもらうかどうかは、自分で決めていいということ。
夢を見ないことには何も起こらない。

目標を考えるとき、達成するには信仰が必要かどうかを自問しよう。
あまりにも大きすぎる目標だから、神様の助けが必要。
イエスが船頭の舟に乗っていることを恐れるな。

3. Goals focus my energy. 目標は私のエネルギーに集中させる

目標にフォーカスするとエネルギーやお金や時間を無駄にしない。
あれやこれやとやろうとして、あれこれ選んでしまうと、人生が散漫になるから効果的でなくなる。
フォーカスすればするほど、人生がもっと力強く、もっと効果的になる。世界を変える。
世の中にはたくさんの困難や問題がある。邪魔が入る。
ただ生きて人生を無駄にするのか、それとも有効にするのか、人生に投資するのか?
人生を最も有効に使う方法は、永遠に残るものに投資すること。
すべてのことをする時間はないし、神様もあなたに全部やってもらいたいわけではない。
実際、するに値するものは本の少し。
神様の子としては、価値あるものだけをすればいい。
だからこそ、目標を決めると価値あるものにフォーカスできる。

“I do not run without a goal. I fight like a boxer who is hitting something—not just the air.” 1 CORINTHIANS 9:26 (NCV)
「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」(1コリント信徒への手紙9:26)

勝つために戦う。目標を決めずに、やみくもに走ったりしない。
自分の人生で何かを成し遂げたい。勝ちたい!
自分の人生で神様に栄光を帰したい。神様をたたえたい。

4.Goals keep me going. 目標が前に進ませてくれる

目標は希望を与える。目標があなたを前に進ませてくれる。
苦しいときでも忍耐できる、努力し続ける、あきらめないという希望を与えてくれる。
十字架上のキリストは目標の先にある神の栄光を見ていた。痛みが報われることを知っていた。

Job: “I do not have the strength to endure. I do not have a goal that encourages me to carry on.” JOB 6:11 (NLT)
ヨブ:わたしには忍耐する力がない。わたしを励まして前に進ませてくれる目標がない。(ヨブ記6:11)

今日、あなたが落ち込んでいるのなら、新しい領域で、新たな目標を設定しなさい。

5. Goals buld my character. 目標は私の人格を形成する

目標を決めて、将来の展望が見えたなら、神様は”あなたのところに行く”とおっしゃる。
目標を設定したことで最も利益あることは、成し遂げて得るものではなく、目標に向かっていく過程においてあなたの内に起こったことです。
神様はあなたの業績よりも、あなたの人格(性質)に興味を持っています。
あなたの成功や経歴は天国へ持っていけないけれども、人格は持っていけるからです。
神様は、あなたが何者で、何になろうとしているのかの方に興味があるのです。
神様はあなたに興味があるのです。
あなたが目標を達成することに努めているあいだに、神様はあなたの人格を作り上げようとしているのです。
だから、目標は人格を形成することを助けます。

Paul: “...I keep striving toward the goal...” PHILIPPIANS 3:12 (TEV)
「(目標を)何とかして捕えようと努めているのです。」(フィリピの信徒への手紙3:12)
目標に達成するためには、エネルギーがいる、努力が必要、注意が必要、目的が必要

神様が意図したとおりの者(man of God/woman of God)になろうとしない限り、あなたはそうなれません。

6. Good goals will be rewarded. 良い目標は報われる

良い目標を持てば、報われる。その理由は2つある。
あなたは地上では人から報われる、天国では神様から報われる。
良い目標は、尊敬される、称賛される、
良い目標のために命をかけるのなら、遺産になる

“If your goals are good, you will be respected.” PROVERBS 11:27 (TEV)
良い目標をもっているならあなたは尊敬される (箴言11:27)

マーチン・ルーサー・キングが亡くなった日が祝日となっているのは、キング牧師が良い目標を設定したからだ。
彼は自分の欲や楽しみや人気やために生きたのではなく、正義のために、偏見と戦うために、人種差別と戦うために、真実のために生きたのだ。

他の人たちの善ために自分の命をささげた人たちはクリスチャンだけではなく、他にもたくさんいる。私は彼らを尊敬する。
彼らは、自分たちよりも偉大な目標を掲げた人たちだ。
金持ちになって引退することが人生の目的だと思うならそれは間違いだ。神様はあなたがそのように生きるように作っていない。
神様はあなたに、どのように人を愛していくかを教えたい。
良い目標を持てば、尊敬される。しかし本当の報いは、永遠の命を得ることだ。

“All athletes practice strict self-control. They do it to win a prize that will fade away, but we do it for an eternal prize. So I run straight to the goal with purpose in every step.” 
1 CORINTHIANS 9:25-26A (NLT)
「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」わたしはまっすぐ目標にむけて走ります。
(1コリント信徒への手紙9:25-26A)

朽ちない冠を得るために、節制する。
しかし、すべての目標を神様が祝福するわけではない。だから神様に祝福される目標を設定しよう。そうすれば神様が目標を達成するための力をくれる。
では、どのような目標なら神様が祝福するのか?

WHAT KIND OF GOAL DOES GOD BLESS? 神様はどのような目標を祝福するのか?

3 questions to ask: 3つの質問

1. Will this goal honor God? この目標は神様の栄光を現すものだろうか?
この目標は神様の栄光を現わすものだろうか?
神様をもっと、信頼する、頼る、愛する、他の人たちを愛する、見返りを求めず神様に仕える、他の人たちに仕えるようになれる目標

“God paid a great price for you. So use your body to honor God.” 1 CORINTHIANS 6:20 (CEV) 「自分の体で神の栄光を現しなさい」
“When you eat or drink or do anything, always do it to honor God.” 1 CORINTHIANS 10:31 (CEV) 「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすために」
“We make it our goal to please him...” 2 CORINTHIANS 5:9 (NIV) 主に喜ばれる目標にする

2. Is this goal motivated by love? この目標は愛が動機になっているか?
このような動機で目標を設定することを神様は祝福しない
・・・貪欲、競争、ねたみ、罪悪感、欲張り、不安、恐れ、心配、物欲主義、利己心、傲慢
でも動機が愛ならば、神様は祝福する。 神様と隣人を愛すること。
何故なら人生は愛することを学ぶものであるから。

“Everything you do must be done with love.” 1 CORINTHIANS 16:14 (NLT)
「何事も愛をもって行いなさい。」(1コリントの信徒への手紙16:14)

“Let love be your highest goal.” 1 CORINTHIANS 14:1 (NLT) 
愛することを第一の目標としなさい。(1コリント14:1)

本当に愛する方法を学びたい。
愛するのが難しい人、愛されていなかった人、こんな人は愛せないと思ってしまう人たちを愛したい

何故、愛のある目標が大事なのか?
もしも愛のない目標を設定したなら、あなたは人々を”プロジェクト”として扱ってしまう。
目標達成のために結婚や友人、出世しようとする他の人たちを利用して、自分の目標を達成しようとしてしまう。
神様は、仕事の業績達成や成功ではなく、人間関係が大事だ。
どのように人を愛するのかを学ぶことだとおっしゃる。

3. Will this goal requre depending on God? 神様を頼る必要がある目標だろうか?
信仰がなければ神様を喜ばせることができない。
信仰に基づいていないことは、すべて罪。
信仰を必要としないような小さな目標を持つことは、罪です。

“We plan the way we want to live, but only God makes us able to live it.” ”PROVERBS 16:9 (MES)
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9)

目標達成のために必要な3つのこと

I NEED God's spirit to empower me. 自分の意志による力をたよりにするのではなく、神様の力によりたのむことが必要
“You will not succeed by your own strength or power, but by my Spirit, says the Lord.” ZECHARIAH 4:6 (NCV)
あなたの力や権力によって成功するのではなく、わたし(神)の霊によって成功するのです。(ゼカリヤ4:6)

I NEED God's word to guide me. わたしを導いてくれる神様の御言葉が必要
聖書は人生のマニュアル。聖書をもっと読んで、学んで、暗記して、瞑想をすれば、自分の心や精神や人生に近づければ、あなたの人生はもっと満たされ、強くなり、成功する、
“Keep this Book of the Law on your lips. Recite it by day and by night, that you may carefully follow all that is written in it; THEN you will successfully attain your goal.”
JOSHUA 1:8 (NAB)
「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:8)

I NEED God's people to support me. わたしを助けてくれる神の家族が必要
あなたは自分一人で目標を達成できない。チームが必要。人生には他の人たちが必要。
小グループで助け合おう。
“By yourself you’re unprotected. But with a friend you can face the worst. And a group of three is even better because a rope braided with three strands is not easily snapped!”
ECCLESIASTES 4:12 (MES)
「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」(コヘレトの言葉4:12)

映画「まっ白も闇」に神様の光を見た

2018-11-10 13:11:36 | Weblog
2018年11月3日公開の映画「まっ白の闇」を見て、神様を感じましたのでシェアいたします。

http://shiroyami.info

この作品は内谷正文監督の実体験をもとに作ったセミ・ドキュメンタリーともいえる映画です。

ストーリーは、兄の影響でマリファナを始めた弟が、覚せい剤に手を出して心身ともに壊れていきます。そして弟を助けようとした家族も真っ暗闇の薬物地獄におちていくのですが、どん底の暗闇に一筋の光が差し込んで・・・

この兄とは、内谷監督ご本人のことで、自分がすすめた麻薬がきっかけで、実の弟さんが薬物依存症になってしまいました。

”一度薬物と関わった人間は一生関り続けなきゃならない”という苦しい現実を伝えるために、2005年から内谷監督は、一人体験劇「ADDOCTON今日一日を生きる君」を自ら演じて全国の学校などで公演してきたそうです。それを元に映画「まっ白の闇」を製作したそうです。

私がこの映画を見て思ったこと、感じたことを書かせていただきます。一部、映画の内容を教えてしまうような文章になってしまいますが、ご容赦ください。

見終わって真っ先に、映画のタイトル「まっ白の闇」とは、神様が闇を照らす愛と希望の光のことだと思いました。内谷監督がそういう意図をお持ちだったのかは不明ですが。

その意味においてこの映画は神様が内谷監督を用いて作られた映画なのではと思いました。

薬物依存症は、一生治ることのない病気ですが、回復することはできるということです。

それは私たちは誰も皆、罪におちて、一生罪びとであることは変わらないけれども、罪を悔い改めて回復していけるという真理とつながるのかなと私は思いました。

弟さんは家族や友人、仕事などすべてを捨てて一人で回復施設に入り、薬物依存症の仲間とともに暮らします。ここで”新しい生き方”を見つけ出していきます。

それは私たちがすべてを捨ててイエスに従って、クリスチャンの仲間と一緒に新しい人生を歩み出すことと同じだと思いました。

この映画を一人でも多くの方に見ていただきたいと思います。

わたしたちは、「薬物依存症」に対して知らないことが多すぎるがゆえに、彼らや家族へ偏見の目を向けてしまいがちだからです。

実際の回復施設で撮影が行われ、本人とご家族が経験したことを忠実に描かれていましたが、この回復施設で教えられたのは、「アルコール依存症の会」が用いている12ステップでした。

依存症からの回復は自分の力ではできなくて、神様の御力に頼むことが教えられていました。神様は、薬物依存症のご本人だけではなく、ご家族や友人の皆さんにも一筋の光の希望を与えてくださり、救いへと導く神様であることに感謝いたします。

なによりも私たち一人一人がよく注意して、子供たちや若者が知らず知らずのうちに薬物にはまっていかないように見守っていきたいとおもいました。