たくさんの人たちが幸せになりたいと思って生きていると思います。私もそうです。でも、どういう方法で何をしたら幸せになれるのかわからないです。その方法を求めて生きているとも言えると思います。過去、日本では、多くの人たちが物質的に豊かになれば幸せになれると思って頑張ってきました。でも、それがある程度満たされたら、今度は心の豊かさを求めるようになりました。それでも両方とも豊かになった人たちは数少ないように思えますが、彼等は両方とも満たされて、幸せだと思っているのでしょうか。私の周りにはそういう人がいないので、実際どうなのか分らないのです。
そもそも、「幸せ」って何なのでしょうか。広辞苑には、「幸せ」は「心が満ち足りていること、またそのさま。」また、「仕合せ」と書いて、めぐり合わせ、機会、天運、幸運、好運などの意味があります。
イエスは「山上の説教」でこのように語っています。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは、神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5章3節~10節)
イエスの言う「幸い」の中には、私たちにとっては幸いとは思えないようなことが入っています。心が貧しかったり、悲しんでいたり、迫害されるなどのように、いいこと、喜ばしいこととは思えないことがあってから、そのあと幸いになるということなのでしょうか。でも、たとえば、悲しみの真っ最中の人に向かって、「あなたは慰められるから幸いよ」とは言えません。自分に悲しいことがあったときに、他の人にそのように言われたら、私なら怒ってしまうと思います。でも、こういうことを言っているのは、神様の子であるイエスです。人間からそう言われたら受け入れられないけれども、神様がそうおっしゃっているのです。イエスは悲しんでいる人に同情できない方ではありません。一緒に悲しんでくれて、そして慰めてくれます。悲しむ人には神様からの慰めが与えられるということなのです。
それなら、そもそも悲しい出来事を起さないで欲しいと思う人もいるでしょう。私もそう思います。良くないことが起こってその後に幸せになるよりは、最初から良いことがあって、ずっといいことのまま幸せになりたいと思います。逆から考えると、悲しいことがないと幸せになれない、そういうことなのでしょうか。それとも、悲しいことがあっても幸せになれる、ということなのでしょうか。
最初に書いたように、幸せになるために、物や心を豊かにしようとしていることとイエスの言うこととは、どう違うのでしょうか。私の経験では欲しいものを手に入れた時、幸せと思いましたが、その幸せ感は長続きしませんでした。まだ手に入れていない物がたくさんあったからです。そのようにして物を追いかけて行ったらどこまで行っても満足できないと思います。では、物でなく、広辞苑の定義のように「心が満ち足りている」とはどういう状態なのでしょうか。何をすれば心が満ち足りるのでしょうか。
一時的に「幸せ」になることはできると思いますが、「幸せ」はずっと続いて欲しいものです。永遠に続く「幸せ」って何なのでしょうか。人は幸せになるために生きているとしたら、幸せというゴールはいったいどこなのでしょうか。
私はイエスを知ることで幸せを感じたし、イエスを知れば知る程、その幸せが大きく深くなっていくと思います。イエスと共に生きている、イエスが一緒にいてくれると思うと安心ですし、幸せです。イエスに愛されていると思うと嬉しいし、楽しくなります。心が満たされます。イエスを愛するほかの人たちと一緒にいることでも幸せを感じます。でも、のべつ幕無しに幸せな訳ではありません。不安、恐れ、悲しみ、寂しさなどいろいろなネガティブな思いに襲われます。でも、そういう時にこそ、イエスが共にいることを感じ取りたいと思います。
もしかしたら、イエスは「青い鳥」のようなものなのかなと思いました。「青い鳥」は、二人の子どもが幸せを求めて遠くへ旅に出て、いろいろな試練にあってやっと家に戻ってきた時に、青い鳥はすぐ側にいたことが分るというお話ですが、私たちの幸せを求める旅である人生において、イエスはずっといつも側にいてくれるのではないでしょうか。
そもそも、「幸せ」って何なのでしょうか。広辞苑には、「幸せ」は「心が満ち足りていること、またそのさま。」また、「仕合せ」と書いて、めぐり合わせ、機会、天運、幸運、好運などの意味があります。
イエスは「山上の説教」でこのように語っています。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは、神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書5章3節~10節)
イエスの言う「幸い」の中には、私たちにとっては幸いとは思えないようなことが入っています。心が貧しかったり、悲しんでいたり、迫害されるなどのように、いいこと、喜ばしいこととは思えないことがあってから、そのあと幸いになるということなのでしょうか。でも、たとえば、悲しみの真っ最中の人に向かって、「あなたは慰められるから幸いよ」とは言えません。自分に悲しいことがあったときに、他の人にそのように言われたら、私なら怒ってしまうと思います。でも、こういうことを言っているのは、神様の子であるイエスです。人間からそう言われたら受け入れられないけれども、神様がそうおっしゃっているのです。イエスは悲しんでいる人に同情できない方ではありません。一緒に悲しんでくれて、そして慰めてくれます。悲しむ人には神様からの慰めが与えられるということなのです。
それなら、そもそも悲しい出来事を起さないで欲しいと思う人もいるでしょう。私もそう思います。良くないことが起こってその後に幸せになるよりは、最初から良いことがあって、ずっといいことのまま幸せになりたいと思います。逆から考えると、悲しいことがないと幸せになれない、そういうことなのでしょうか。それとも、悲しいことがあっても幸せになれる、ということなのでしょうか。
最初に書いたように、幸せになるために、物や心を豊かにしようとしていることとイエスの言うこととは、どう違うのでしょうか。私の経験では欲しいものを手に入れた時、幸せと思いましたが、その幸せ感は長続きしませんでした。まだ手に入れていない物がたくさんあったからです。そのようにして物を追いかけて行ったらどこまで行っても満足できないと思います。では、物でなく、広辞苑の定義のように「心が満ち足りている」とはどういう状態なのでしょうか。何をすれば心が満ち足りるのでしょうか。
一時的に「幸せ」になることはできると思いますが、「幸せ」はずっと続いて欲しいものです。永遠に続く「幸せ」って何なのでしょうか。人は幸せになるために生きているとしたら、幸せというゴールはいったいどこなのでしょうか。
私はイエスを知ることで幸せを感じたし、イエスを知れば知る程、その幸せが大きく深くなっていくと思います。イエスと共に生きている、イエスが一緒にいてくれると思うと安心ですし、幸せです。イエスに愛されていると思うと嬉しいし、楽しくなります。心が満たされます。イエスを愛するほかの人たちと一緒にいることでも幸せを感じます。でも、のべつ幕無しに幸せな訳ではありません。不安、恐れ、悲しみ、寂しさなどいろいろなネガティブな思いに襲われます。でも、そういう時にこそ、イエスが共にいることを感じ取りたいと思います。
もしかしたら、イエスは「青い鳥」のようなものなのかなと思いました。「青い鳥」は、二人の子どもが幸せを求めて遠くへ旅に出て、いろいろな試練にあってやっと家に戻ってきた時に、青い鳥はすぐ側にいたことが分るというお話ですが、私たちの幸せを求める旅である人生において、イエスはずっといつも側にいてくれるのではないでしょうか。