「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙5章8節)
イエス・キリストの十字架による救いによって、私は「光の子」となりました。
それは私が善人だったからではなく、むしろ悪人であったのに神様の愛と憐みによるものです。
「光の子」として頑張って生きてきたわけじゃないのに、自分から望んで神様に頼んだわけでもないのに、「光の子」つまり「神の子」としていただきました。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソの信徒への手紙1章4節)
「天地創造の前」っていつのことでしょう。私には想像できないです。
天地創造以前から私のことを神様はご存知だったということなのでしょうけど、それもまた私の理解力や創造力をはるかに超えてますので、ただ呆然とするだけなのです。
クリスチャンになった今ころ私は、「聖なる者」とか「汚れのない者」となれるように努力しなければと思っていたのですが、それは到底無理なことでした。
私は毎日何らかの罪を犯しました。その多くは罪だと自覚していないことや、自分の思いや考え、または世間の価値観に合わせたために無意識に犯した罪だったと思います。
クリスチャンとして頑張れば頑張るほど、罪を犯してしまう自分に怒りを覚えました。
それだけではなく、「聖なる者」「汚れのない者」になれと命令した神様が厳しすぎると思いましたし、そんな無理なことを命ずる神様の愛を疑いました。
憐み深く寛容なイエス・キリストならいいけど、厳しい神様やプレッシャーを与える神様には近寄りがたいと思ったのでした。
旧約聖書の中には、こんな些細な間違いで人間を裁く、時には命さえ奪う厳しい神様の様子が多々見られます。
旧約聖書を読むのを避けました。それよりイエスの優しさや憐みや愛が書かれている新約聖書を読むようにしていました。
それは私の誤解から始まったことだと分かったのは、2023年1月15日のハーレム牧師の説教を聞いたからです。
私はクリスチャンになったことだけで、聖なる、汚れのない、光の子、つまり神様の子どもとされているのだと知ったのでした。
クリスチャンになったから頑張って「聖なる者」「汚れのない者」になる必要はないということです。
王家に産まれた子供は、生まれただけですでに王の子であるようなものです。
そして「聖なる者」「汚れのない者」「光の子」とされたことは、自分の努力ではなく、ただ神様からの恵み溢れるプレゼントなのです。
私がやることは、これからの人生、「光の子として歩む」ことだけなのです。
ところで、「親の七光り」ということわざがありますが、正確な意味はともかく、「親の七光り」と言われると生まれながらに裕福や地位が高い家の子だから苦労せずに親からの恩恵を受けている人に対して使われていて、好意的な印象がありませんよね。
聖書にこんな箇所があります。
「主が民の傷を包み思い打ち傷をいやされる日 月の光は太陽の光になり 太陽の光は七倍になり 七つの日の光となる。」(イザヤ書30章26節)
私はここから「親の七光り」を連想して、そうか、私は親である神様からの恩恵を生まれながらに受けている「親の七光り」をいただいた子どもなんだなあ、と勝手に思って嬉しくなります。
こんな者なのに、ホントに恵まれています。
神様に感謝しています。
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