タイトルが気になっていたものの読んだことがなかった、ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」"THE GRAPES OF WRATH"(1939年・大久保康雄訳)を意を決して読みました。
1940年にピューリッツア賞を授賞した文庫本2巻に渡る大作なので、読破できるか心配でしたが、その文章の力強さと緊迫感あふれる内容に引き込まれてしまい、読破することができました。
「ルポルタージュ的作品」という解説の通り、小説とは思えないほどのリアリティーがまるで映画を見ているように迫ってきたのです。
1930年代前半のオクラホマを襲った砂嵐の災害と大資本によって自分たちの開墾した土地を奪われた農民たちの苦難と葛藤を描いた物語です。
少々ネタバレしますがあらすじは、
わずかな家財道具を車に積んで、生きるためにカリフォルニアを目指して大移動する農民たち。 西に行けば豊かな農場が広がっている、葡萄、桃、綿花摘みの仕事がいくらでもあると聞いて、ジョード一家も出発した。 しかしやっとたどり着いたカリフォルニアで彼らが出会ったのは、わずかな賃金でも仕事が欲しいと群がる人々を虐げる権力者たちだった・・・。
私が心惹かれた登場人物は主人公トムジョードの母親(おっかあ)と、ジョード一家と旅をする元説教師のケーシーです。
今日はケーシーのことをお話しします。
説教師ケーシーは、自分のやっていることに疲れてしまった、何に向かって、何のためにお祈りしているのか分からなくなったから説教師を辞めて旅に出たと言いました。自分の信仰をあきらめてしまったようです。
けれども、彼はジョード一家の一人一人、特にトムを心から気にかける心優しい人物でした。旅の間に起こった事件でケーシーはトムのかわりに刑務所に入ります。ジョード一家の移動を担うトムをかばって西に行かせるためでした。
説教師をやめてしまったけれども、神様はケーシーをあきらめていなかったし、ケーシーの心から信仰が消えてなかったからこのような自分を犠牲にする行為ができたのだと思います。
また、ケーシーが捕まる前、旅の最中、彼はトムに「伝道者の書」(コヘレトの言葉)の一節をシェアーしました。それは、4章9~12節
「ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。」
その後カリフォルニアでトムは釈放されたケーシーと再会しますが、またその時も事件が起こります。
そのときケーシーは権力者の手下たちに襲われてしまうのですが、彼が死ぬ間際にこう言うのです。
「おめえさん方は、自分が何をやっているのかわかってないんだ」と。
イエス・キリストが十字架にかかって息を引き取る前に言われた言葉を思い出しました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)
信仰をあきらめていると言っていたケーシーは最後までイエス・キリストの姿を見ていたのでしょう。
「百万エーカーを所有する一人の地主のために十万の農民が飢えた」と書いたスタインベックは、小説「怒りの葡萄」にアメリカの商業主義への強い怒りを込めたと、この小説の翻訳者である大久保康雄氏が書いています。
私は、権力者からの迫害と飢えに苦しんだジョード家の人々やケーシーがそれでも生きていこうと前に進んでいけたのは、怒りよりも神様の導きがあったからだと思いましたし、そこに感動しました。
神様は「怒りの葡萄」にも力強く働きかけてくださったのだと思うのです。
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